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すれ違いの、その先で  作者: 鴨治玲


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13/21

受け入れる微笑み

朝議の終わりを告げる鐘が、低く城内に響いた。

重厚な扉が開かれ、諸侯や家臣たちがざわめきとともに退出していく。

磨き上げられた大理石の床に足音が反響し、先ほどまでの張り詰めた空気が、少しずつほどけていった。


書記官が紙をまとめる音、衣擦れのさざめきの中、一人の家臣が、まっすぐロランの机へと歩み寄る。


「殿下。少々、お時間を」


ロランは椅子から立ち上がりかけた手を止めた。

その声音を聞くだけで、話の内容は察しがつく。


「……用件は?」


家臣は一礼し、周囲に人がいないことを確かめてから、声を落とす。


「王家の血脈をより確かなものとするため――側室を迎える件について、ご相談申し上げたく」


やはりか。


ロランはゆっくりと椅子に背を預け、指先で机を軽く叩く。

乾いた音が、やけに大きく響いた。


以前から繰り返されてきた話だ。

そのたびに、エリックが間に入り、やんわりと、しかし確実に退けてきた。


だが今、エリックは隣国へ特使として赴いている。


――その不在を、見逃さなかったというわけか。


「その話は、まだ早いと言ったはずだ」


低く抑えた声だが、周囲の温度は下がった。

家臣は一瞬だけ息を詰めたが、退かない。


「お相手については、すでに有力な候補がおります」


名を告げられる前から、胸の奥に冷たい予感が走る。


「侯爵ジラール家令嬢――ブランカ・ジラール様です」


その名を聞いた瞬間、ロランの眉がわずかに寄った。


――ブランカ。


幼い頃、何度も耳にした名前。


「……彼女か」


「はい。かつて殿下の婚約者候補として名が挙がったこともあり、血筋・教養ともに申し分なく」


言葉と同時に、記憶がよみがえる。


遠くから駆け寄る足音と、明るすぎる声。


「ロラン様!」


許可もなく、当然のように隣に立つ少女。

腕に絡みつく細い指。遠慮のない笑み。


そして――


「あなた、誰?」


その視線が、まだ同じ子どもであったソフィに向けられた瞬間の空気の冷たさ。


「わたくしは、ロラン様の婚約者候補なのよ?」


胸を張り、勝ち誇ったように微笑むブランカ。

ソフィは、何も言えずに立っていた。


だが当時のロランは、はっきりと言った。


「違う。僕はソフィと遊ぶ約束をしている」


縋りつく手を外し、迷いなくソフィのほうへ歩いた。

いつだってロランの視線の先にいたのは、いつもソフィだけだった。


「殿下」


顔を上げると、家臣の隣にもう一人の男――ジラール侯爵が立っていた。

灰色の髪に整えられた口髭の下には、静かな笑みが浮かんでいる。



「娘は、殿下をお支えする覚悟がございます。王太子妃殿下の務めを脅かすつもりなど、決してございません」


穏やかな口調。

だが冷静に計算しているその目は隠しきれていない。


「側室としてなら、問題はありますまい」


まるで既定事項の確認のような口ぶりに、ロランの眉間に、はっきりと皺が刻まれた。


「私の意思は、まだ聞かれていない」


静かな怒気がにじむ。

しかし侯爵は微動だにしない。


「王家の決断は、個人の感情だけでなされるものではありません」


その言葉は、正論だった。

王太子として、いずれ王となる者として――否定しきれない現実。


重い沈黙が落ちる。

窓の外で、鐘の音がひとつ鳴った。


「殿下が迷われているのであれば、まずはお会いになってはいかがでしょう」


侯爵の提案は、巧妙だった。

会うだけ。断るかどうかはその後。


だがロランは知っている。

一度会えば、それは「検討」に変わる。

検討はやがて「調整」になり、いつしか「決定」になる。


王太子という立場はそういうものだ。


高窓から差し込む光が、長い影を床に落としている。

ロランはゆっくりと立ち上がった。


「……検討はする」


それだけを告げる。

だがその横顔には、はっきりとした警戒が宿っていた。


朝議の間を出たロランは、長い回廊を一人歩いていた。

爪が手のひらに食い込むほどの力で、拳を握りしめている。

それでも、胸の内のざわめきは鎮まらない。


衛兵たちが一礼するたび、金属の鎧がわずかに鳴ったが、彼の耳にはほとんど届いていなかった。


――ソフィの顔が、何度も頭をよぎる。


目隠しを拒まれた夜。

視線を向けてきたあの瞳を、ロランは正面から受け止めきれなかった。

言葉も、遮った。


自分を守るためだけに。


――……今、この話をどう伝える。


側室。

血脈を守るための、王家では珍しくもない慣例。

それは制度であって、感情とは切り離された、冷たい言葉のはずだった。


だが、ソフィはどう受け取るだろう。


足が止まる。

回廊の窓の外から噴水の水音が、かすかに響く。


……泣いて、嫌だと縋ってくれるだろうか。


その想像が胸を締めつける一方で、別の感情が顔を出す。


――もし、そうしてくれるなら。


自分を求めてくれるのなら。

失うことを恐れてくれるのなら。


ロランは目を閉じ、強く首を振った。


「……違う」


低く、誰にともなく呟く。

自分の期待が卑劣だと思った。


……ソフィなら、きっと王太子妃として当然だと受け入れるかもしれない。


それが――何より恐ろしい。

取り乱されるよりも、受け入れられる方が。


窓ガラスに映った自分の顔は、思った以上に険しかった。


「俺は……何を望んでいる」


王太子としての正解か。

一人の男としての本音か。


胸の奥にあるのは、ただ一つ。

ソフィに拒まれることへの恐れだった。


ソフィがその噂を耳にしたのは、昼下がりの回廊だった。


「……ブランカ様が、側室として?」

「本当?」

「ええ、朝議の後に……」


控え目に交わされた声だったが、静かな回廊では十分に届いた。


ソフィの歩みが、わずかに止まる。

付き添いの侍女が、はっとして振り返った。


「あなたたち、王太子妃殿下の御前で――」


その言葉を、ソフィは静かに制した。


「よいのです」


柔らかな声音だったが、場の空気がすっと整う。

噂をしていた侍女たちは慌てて膝を折った。


「申し訳ございません、殿下。軽率でした」


ソフィは彼女たちを見下ろすでもなく、ただ穏やかに問いかける。


「そのお話、どこから聞いたものかしら」


責める響きはない。

だが、王太子妃として事実を把握する意思がにじむ。

侍女の一人が、ためらいながら口を開いた。


「……朝議の後、重臣方の間で話題に上ったと……ジラール侯爵家のご令嬢、ブランカ様が……側室候補に名を連ねている、と」


その名を聞いた瞬間、胸の奥が静かに波打つ。

だが、ソフィは顔色一つ変えなかった。

指先だけが、袖の内でそっと握られる。


「知らせてくれてありがとう。軽々しく広めぬよう、気をつけなさい」


叱責ではなく、信頼を含んだ忠告。


侍女たちは深く頭を下げた。

「は、はい」


ソフィは再び歩き出す。

だが胸の奥で、幼い日の記憶がゆっくりと目を覚ましていた。


ブランカ・ジラール。


幼い頃、王城に遊びに来るたびに、必ずロランの隣に立とうとした侯爵令嬢。


「ロラン様、こちらをご覧になって?」


甘く澄んだ声。

ためらいのない笑顔の裏で、はっきりと独占欲を隠さなかった少女。


ロランの腕に絡みつく細い指を見つめながら、ソフィは何も言えなかった。

胸の奥に湧き上がった感情が、あまりにも醜く思えて。


――嫉妬。


幼い自分の中にあった黒い感情を、ブランカは容赦なく照らし出した。


――彼女が、側室候補……。


久しぶりに、嫌な感覚が胸に蘇る。

振り払おうとしても、影のようにつき纏う。

幼い日の記憶が、鮮やかによみがえった。


ロランの隣に立つのは、自分ではないかもしれないという怖れ。


その日の夕刻。


西の空が茜に染まり、王城の石壁も淡く赤みを帯びていた。

回廊の燭台には、すでに小さな火が灯されている。


ソフィは一人、ロランの執務室へと続く扉の前に立っていた。


胸の奥にまとわりつく影を、これ以上膨らませたくなかった。

誰かの口からではなく――彼自身の言葉で聞きたかった。


扉の中の灯りは控えめで、机の上の燭台だけが書類の山を照らしている。

書類に向かうロランの横顔は、王太子としての硬さをまとっている。

けれど、その横顔を見つめることに、以前ほどのためらいはなかった。


「ロラン様」


静かに名を呼ぶ。


「……ソフィ?」


顔を上げた彼の表情が、わずかに揺れたのを、ソフィは見逃さなかった。

それだけで、胸の奥が痛む。


「お聞きしたいことが、あります」


声は思いのほか落ち着いていた。


ロランは視線を落とし、再び書類へと向ける。


「……何だい?」


努めて平静を装った声。


部屋に沈黙が落ちる。

燭台の炎が、小さくはぜた。


それでもソフィは、視線を逸らさなかった。


「ブランカ・ジラール様が、側室に入られるかもしれない……そう聞きました」


その名が室内に落ちた瞬間、空気が変わる。

ペンを動かしていたロランの手が止まった。


「……噂が、もう届いたのか」


否定はなかった。


「それは……本当の話なのですか?」


問いは、穏やかだ。

だが、答え次第で何かが壊れると、二人ともわかっている。


ロランはゆっくりと椅子から立ち上がった。


机越しではなく、距離を取るように窓辺へと歩み寄る。

外はすでに薄闇に沈み、庭の木々は葉を落とし始めていた。

枝だけになりつつある梢が、冷たい風にかすかに揺れている。


季節は確実に移ろっていた。


「……まだ、決まったわけじゃない」


窓の外を見たまま、低く告げる背中越しの言葉。


「では、可能性は?」


静かな問いが返る。

ロランは一瞬、目を閉じた。


「……政治の話だ。陛下や侯爵家の意向もある」


はっきりと拒まない、その態度。


背後で、わずかな衣擦れの音がした。


ソフィは、胸の奥で何かが沈んでいくのを感じていた。


「ロラン様は……どう思っていらっしゃるのですか」


今度は、少しだけ声が震えた。

その震えが、ロランの背を固くして、振り返れない。


「今は、答えられない」


視線を伏せたソフィの顔に、睫毛が影を落とす。

震える指先だけが、押し殺した思いを隠し切れずにいた。


「王太子として必要なことでしたら……私は、受け入れます」


それは、彼が最も望んでいなかった言葉だった。

その言葉に、ロランは思わず振り返る。


「ソフィ、それは――」


静止のような呼びかけ。

だが彼女は、かすかに首を振った。


「私は、王太子妃ですから」


穏やかな微笑み。

非難も、嫉妬も、縋る色もない。


彼女の瞳の奥に、触れれば崩れてしまいそうな静けさがあった。

そこに踏み込めば、彼女の本音も、自分の弱さも露わになる。

その未来が怖くて、ロランは一歩を踏み出せなかった。


「……今日は、これで失礼いたします」


ソフィは深く礼をしてから、音を立てぬよう扉へ向かった。

閉ざされた扉の向こう側に出た瞬間、支えを失ったように壁に手をつく。

抑えていた呼吸が乱れ、胸の奥で波が立つ。

それでも、誰にも気づかれぬよう、すぐに姿勢を整えた。


扉が閉まる音が、静かな執務室に大きく響く。


残されたロランは、しばらくその扉を見つめたまま動けなかった。

やがて、机に手をつき、深く息を吐く。


「……受け入れる、だと」


苦い呟きがこぼれる。


王太子妃としてか。

それとも、本当に心からそう思っているのか。

分からない。


ただ一つ、はっきりしていることがある。


側室の話よりも。

侯爵の圧力よりも。


彼女の静かな微笑みの方が、ずっと恐ろしい。


なぜ――彼女を失う未来だけが、こんなにも鮮明に思い描けるのか。


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