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すれ違いの、その先で  作者: 鴨治玲


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11/21

並び立つ影

馬車の中は、思ったよりも静かだった。


車輪が石畳を踏む規則正しい音と、時折、蹄が跳ねる響きだけが、ゆるやかに流れる空間を満たしている。

窓越しに差し込む朝の光が、向かい合う二人の膝の上に淡く落ちていた。


窓の外に流れる街並みを、ソフィは背筋を伸ばしたまま眺めている。

視察用の落ち着いたドレス。

王太子妃としての装いは、とてもよく似合っていた。


「……緊張しているか?」


ロランの問いに、ソフィは一瞬きょとんとした顔をし、それから小さく笑った。

張りつめていた空気が、ふっと和らぐ。


「いいえ」


少し間を置いてから、彼女はきまずそうにまつげを伏せた。

頬に、ほんのりと淡い紅が差す。


「……嘘です。少し、緊張しています」


そう言って、彼女は顔を上げてロランの方を向いた。

逃げずに、まっすぐに。


その視線に、ロランは内心で息を詰める。


「ですが、殿下がいらっしゃいますから」


「……そう言われると、身が引き締まるな」


冗談めかして返すと、ソフィはくすりと笑った。

その笑顔を、ロランはつい見つめてしまう。

見つめられることに気づくと、彼女はわずかに目を見開き、それから視線を逸らした。


それでも――

最近、彼女は自分の前でよく笑う。

そして、そのたびに――こちらを見る。



北寄りにあるこの領地は、夏であっても涼しい風が吹き抜ける。


視察は、滞りなく進んだ。


領主への挨拶。

街の案内。

孤児院での慰問。


ソフィは、初めてとは思えぬほど落ち着いていた。

話す言葉は丁寧で、相手の目を見て、きちんと耳を傾ける。


ロランは少し離れた位置から、子どもたちと触れ合うソフィを見守っていた。


「王太子妃殿下は、お優しい方だ」


控え目な囁きが、あちこちから聞こえてきた。

それは媚びでもお世辞でもない、率直な感想だった。


胸の奥に、あたたかいものが広がる。


隣に立つ彼女が、王太子妃として人々に受け入れられている。

それを嬉しいと思う自分がいた。


ふと視線を感じて顔を上げると、ソフィと目が合った。


彼女は小さく微笑み、すぐに視線を戻す。


ロランは、なぜか一瞬、目を逸らしてしまった。



夜、領主館の用意された一室に入る。

王族専用の客室は護衛が立つ重厚な前室を抜け、小サロンを通り過ぎると、天蓋付きの寝台が鎮座する寝所が二部屋並んでいた。


窓の外には、夜の帳が降りたオルタンシアの町が広がっていた。

昼に訪れた孤児院の辺りは、もう深い闇に沈んでいる。点在する灯りだけが星屑のように瞬いていた。


「今日は疲れただろう」


そう声をかけると、ソフィは首を振った。


「いいえ。楽しかったです」


その言葉に、ロランは意外そうに眉を上げる。


「……楽しい?」


「はい。私にできることが、少しはあるのだと分かりましたから」


彼女はそう言って、またロランを見る。

ためらいのない、まっすぐな瞳。


「殿下のお役に立てたなら、嬉しいです」


胸の奥が、ちくりと痛んだ。


――わからない。


ソフィは以前よりも、確実に距離を詰めてきている。

視線も、言葉も、笑顔も。


それなのに。


「……ソフィ」


名前を呼びかけると、彼女は静かに応じた。


「はい」


その声に、含まれている感情が掴めない。


信頼なのか。

情なのか。

それとも――ただの義務なのか。


ロランは答えを知るのが怖くて、結局それ以上踏み込めずに視線を外した。

ソフィは一瞬だけ寂しそうに目を伏せ、それから何も言わずに微笑んだ。


その笑顔が、ロランの胸に残り続ける。


二人は互いに軽く視線を交わすと、静かにそれぞれの部屋へと歩みを進めた。


誇らしさと、不安が、静かに交錯する夜、部屋を隔てて、二人は眠りについた。



穏やかな進行が続くはずだった。

だが、次の日の午後、その空気にわずかな波紋が広がる。


街の中心部にある織物工房を訪れていた最中だった。

色とりどりの布が壁に掛けられ、機織り機の規則正しい音が室内を満たしている。


「この染料は、最近改良されたものでして――」


工房主の説明に、ソフィは頷きながら耳を傾けていた。

視線は職人たちの手元に注がれ、言葉を挟むことなく、丁寧に見ている。


「糸紡ぎの工程は、特に女性の方々に負担が大きいと伺いました」


ふいに、ソフィが問いかけた。


「この改良で、その負担は、実際に軽くなっているのでしょうか」


その一言に、周囲が小さくざわめいた。


工房主の横に立っていた男――この街の織物流通を取り仕切る有力商人が、不快そうに鼻を鳴らす。


「王太子妃殿下ともあろうお方が、そのような話題を公の場で口にされるとは……。現場には現場の事情がございます。軽々しく触れるべきではありませんな」


場の空気が、目に見えて張りつめた。


ロランは即座に一歩踏み出しかける。


――止めるべきだ。


その判断と同時に、喉の奥で短く咳をする。

王太子として、場を収めるための合図。


だが、その音より早く――


「いいえ」


ソフィの声は、穏やかだった。

だが、はっきりとした芯があった。


「軽々しくなど、申しておりません」


商人を見上げる視線は、揺れていない。


ロランは、踏み出しかけた足を止めた。

今ここで言葉を挟めば、この場は自分が整えたものになる。

それを、彼女は望んでいない。


「事情があるなら、教えてください。私は理想を語る前に、現実を知りたいのです」


商人が言葉に詰まる。


「現場の方々の負担が本当に軽くなるのなら、それは喜ばしいことです。もしそうでないのなら――なぜなのかを、知りたい」


沈黙が落ちた。


やがて、工房主が小さく頭を下げる。


「……王太子妃殿下のおっしゃる通りです。現場の声をお聞きいただけるのは、ありがたいことでございます」


商人も、視線を逸らしながら咳払いをした。


張り詰めていた空気が、緩みはじめた頃、工房の奥から年配の女性職人がそっと歩み出た。

手は染料で少し色づき、長年の作業で節くれだっている。


「……王太子妃殿下。よろしゅうございますか」


ソフィはすぐに向き直り、丁寧に頷いた。


「はい。どうぞ」


女性職人は、少し迷うように視線を落とした後、静かに口を開いた。


「糸紡ぎは、若い娘らが多うて……。腰や指を痛める子もおりまして。この染料の改良で、糸が絡みにくくなるなら……ほんに、助かります」


その声は、飾らない本心だった。

工房主も商人も、口を挟めずにいる。


ソフィはその言葉を真剣に受け止め、静かに頷いた。


「教えてくださって、ありがとうございます」


視線を下げることなく、微笑む。


ロランは、その横顔を見つめながら心の奥が熱を帯びていくのを感じた。

――彼女は、ただ理想を語ろうとはしない。現場の痛みを、ちゃんと拾おうとしている。


ソフィは工房主に向き直る。


「もし可能であれば、実際の作業を拝見してもよろしいでしょうか。改良がどのように影響するのか、私の目でも確かめたいのです」


工房主は驚いたように瞬きをしたが、すぐに深く頭を下げた。


「もちろんでございます」


商人はまだ気まずそうにしていたが、何も言わなかった。


工房の奥へ案内される途中、ロランはそっとソフィの横に並ぶ。


「……妃殿下、見事だった」


ソフィは小さく首を振った。


「いいえ。私はただ、知りたいだけなのです。この国を支えている方々が、どんな思いで働いているのかを」


飾り気のない、まっすぐな声だった。

その言葉を受けて、ロランはしばし黙り込む。

軽く応じるつもりでいたはずなのに、口にすべき言葉が見つからなかった。


胸の奥に、静かな敬意が満ちていく。


工房の奥では、若い女性たちが糸車を回し、機織り機の前で黙々と作業していた。

彼女たちがこちらに気づき、驚きと緊張が入り混じった表情を見せる。


ソフィは一人ひとりに目を向け、柔らかく微笑んだ。


「どうか、続けてください。あなた方の仕事を、見せていただければ嬉しいのです」


その声は、工房のざわめきをそっと包み込むように響いた。


視察を終え、工房を出ると、外気がふっと頬をなでた。

染料の匂いが薄れ、代わりに夏の空気が肺に満ちる。


ロランは歩調を少し緩め、隣を歩くソフィに視線を向けた。


「無理をしていないか?」


その問いに、ソフィは一瞬驚いたように目を瞬かせ、微笑んだ。


「していませんよ」


そして、少しだけ視線を落とす。


「殿下が隣にいてくださるから……言葉を選ぶ余裕ができました」


その言葉は、感謝なのか。

それとも、ただの事実なのか。


彼は、次に何を言うべきか決められずにいた。


「……そうか」


短く返すと、ソフィはまた彼を見る。

逃げない、まっすぐな視線。


「殿下は、何もおっしゃいませんでしたね」


責める調子ではなかった。

ただ、不思議そうに。


「……口を挟む必要がないと、思った」


正直な答えだった。

ソフィは、少しだけ目を見開き――それから、柔らかく笑った。


「それなら、よかったです」


その笑顔を見て、ロランは一瞬、返す言葉を探した。

だが、見つからないまま、ただ頷くしかなかった。


彼女は、確かに王太子妃として歩き始めている。

その歩みに、自分は――どこまで並べているのだろうか。


夕暮れの光の中、二人の影は確かに並んでいた。けれど、その間には、まだわずかな隙間があった。


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