視線を取り戻した朝
朝食の席は、いつになく静まり返っていた。
白いクロスの上に整えられた食器は、いつもと変わらぬ配置のはずなのに、どこか均衡を欠いて見える。
ロランは無意識のうちに、向かいの空いた席へと視線を走らせていた。
――いるはずの人が、いない。
「……ソフィは?」
問いかけた声は、思った以上に低く、硬かった。
そばに控えていた侍女が、すぐに一歩進み出る。
「王太子妃殿下でしたら、今朝はお休みを取られております。夜半より熱がでられたとのことで……」
その言葉に、ロランの手が止まった。
銀のスプーンが、わずかに音を立てて皿に触れる。
「熱……?」
喉の奥で、短く反すうする。
――そうだ。
彼女は昔から、季節の変わり目に弱かった。
少し無理をすると、すぐに熱を出す。
幼い頃、そんな理由で約束を取り消したことも、一度や二度ではなかった。
知っていたはずなのに――。
昨夜の記憶が、否応なく胸の奥に蘇る。
彼女の視線を避け、言葉を避けた。
ただ己の欲望のままに、彼女を抱いたこと。
そして、彼女の身体が腕の中で微かに震えていたことを。
ロランは、目の前の料理にほとんど手をつけていないことにも気づかないまま、静かに椅子を引いた。
「……下がっていい」
短く告げると、誰の制止も待たずに席を立つ。
――俺は、何をしている。
歩きながら、胸の奥に鈍い痛みが広がっていく。
それは後悔か、それとも、ようやく芽生えた自覚なのか。
ロランはソフィの部屋へと続く回廊を、無言で進んでいった。
ソフィの寝所は、厚いカーテンが引かれ、朝だというのに薄闇に沈んでいた。
薬草のほのかな香りが空気に溶け、静けさが重く横たわっている。
控え目なノックの音に、侍女がはっと息を呑んだ。
「で、殿下……? 本当にお入りになるのですか」
その戸惑いに、ロランは立ち止まらない。
「構わない」
短く告げ、扉を開けて中へ踏み入る。
寝台の上で、気配に気づいたソフィが身を起こす――そして、思わず目を見開いた。
「……ロラン、様?」
熱に浮かされた声は、どこか頼りなく、かすれている。
「急に来てしまって、すまない」
そう言いながら、ロランは自然と寝台のそばに歩み寄っていた。
距離を取る理由が、もう見当たらなかった。
起き上がろうとしたソフィを、ロランは優しく押しとどめる。
「……大丈夫か? 熱は?」
問いかけと同時に、ロランの手が伸びる。
その手はためらいなく、ソフィの額へと触れた。
ひんやりとした手のひらに、ソフィは小さく息を呑む。
その冷たさが、火照った意識に心地よく沁みた。
「……少し、あります。でも……申し訳ありません。最近は体調を崩すことも少なかったのですが……」
「謝る必要などない」
ロランはそのまま彼女の手を取った。
指先に伝わる体温は、確かに平熱よりも高い。
「ロ、ロラン様……」
慌てたように、ソフィは手を引こうとする。
「移ってしまいます。ですから……」
だが、ロランは指を緩めなかった。
「構わない」
静かな声だった。
その響きには迷いがない。
「それで君が少しでも楽になるなら、俺は平気だ」
その言葉に、ソフィの胸が締め付けられた。
――ああ……。
胸の奥で、何かが静かにほどける。
遠い記憶が、思いがけず鮮やかに蘇った。
幼いころ、熱を出して寝込むたび、彼は見舞いに来てくれた。
小さな手を包み込むように握り、同じ声で、同じ言葉をかけてくれた。
「無理をするな。すぐ良くなる」
あの頃と、何ひとつ変わらない。
触れ方も、言葉も、心配する表情さえも。
ソフィは、ゆっくりと視線を上げた。
そして、これまで避け続けていた視線を、今度こそ逃さず、ロランへと向ける。
彼の瞳を見つめる。
その瞬間、ロランの呼吸がわずかに詰まった。
――見られている。
いつもなら、自然と逸らしていたはずの視線。
重なる前に引いていた距離。
それが今、はっきりと、逃げ場のない形で交わっている。
彼女の瞳の奥に揺れるものを、読み取るのが怖い。
だが同時に、ここで目を逸らせば、何か決定的なものを失う気がして、動けなかった。
ソフィは、胸の内で言葉にならない思いを噛みしめる。
――あの頃と、同じなのに。
――同じ優しさを向けられているのに。
私はずっと、この人の瞳を正面から見てこなかった。
役目や立場の陰に隠れて、安心して、向き合うことを避けていた。
もし、ちゃんと見ていたなら。
もし、あの時も、昨日の夜も――。
「……ロラン様」
小さく呼ぶ声が、静まり返った部屋に落ちる。
名を呼ばれただけで、ロランの頬がわずかに強張る。
それほどまでに、その声は今、重たかった。
合わされなかった視線が、ようやく交わった朝。
それは、すれ違いがほどける兆しであり――
同時に、二人が守ってきた危うい均衡が、崩れかねない始まりでもあった。
ロランに手を握られたまま、ソフィは静かな寝息を立てていた。
その指先にそっと口づけを落とし、彼は音を立てぬよう部屋を後にする。
扉が静かに閉じる音が、回廊の空気に溶けた。
ロランは、数歩進んだところで足を止める。
振り返ることは、しなかった。
――これでいい。
胸の奥に残る重みから、意識的に目を逸らす。
あれ以上、何かを確かめる必要はない。
確かめてしまえば、守ってきたものが壊れる。
それがわかっているからこそ、踏み込まなかった。
昨夜のことも、先ほどの視線も。
すべてはなかったことにすればいい。
そうすれば、これまで通りに戻れる。
王太子として、夫として、選ぶべきではない感情から距離を取ったままでいられる。
そう、自分に言い聞かせながら、ロランは再び歩き出した。
だが、胸の奥に残った違和感だけは、どうしても振り払えなかった。
しばらくして、薄闇の中でソフィのまぶたがゆっくりと開いた。
カーテンの隙間から差し込む光の色が、まだ日が沈みきっていないことを教えてくれる。
――ロラン様が、来てくれた。
そう思った瞬間、それが夢だったのではないかという不安が胸をよぎった。
けれど、こちらを見つめていた彼の視線を、ソフィは確かに覚えている。
まっすぐで、逃げ場のない眼差し。
その奥に、ほんのわずかな戸惑いが宿っていたことも、きっと見間違いではない。
もう、遅いのだろうか。
それとも――まだ、間に合うのだろうか。
彼と、きちんと向き合いたい。
そう願いながら、ソフィはロランに握られていた手を、もう片方の手で包み込むように強く握りしめた。
そこに残る温もりを、失くしてしまわないように。
♢
ロランは、胸の奥に残ったあの朝に交わした視線の余韻を、静かに抱えていた。
目を合わせたあの瞬間の感覚は、日を追うごとに心の奥で鮮やかに色を増していく。
それでも、公務は待ってくれない。
書類の山に囲まれた執務室で、ロランはペンを置き、差し出された文書に目を落とした。
初夏の光が窓から差し込み、机の上の書類を柔らかく照らしている。
「オルタンシア領より、視察の要請がきております」
エリックの淡々とした報告。
だが、ロランの視線はある一文で止まった。
「……王太子妃も是非に、か」
思わず、短く息を吐く。
――よりにもよって、初の公務が視察か。
横で、エリックの静かな視線が自分を捉えていることに気づき、ロランはわずかに背筋を正した。
再び文書に目を戻すと、エリックは余計な感情を交えず、事実だけを告げる。
「王太子妃殿下にとっては、公の場での初の視察になります」
ロランは窓の外へ視線をやった。
若葉を揺らす光は、無邪気なほどに明るい。
――あの朝の視線が、脳裏をよぎる。
拒絶でも、赦しでもない。
ただ、こちらをまっすぐに見ようとした、彼女の瞳。
ロランは胸の奥で、確かな変化を感じていた。
「……受けよう」
短く告げる。
それは、決断であると同時に、自分自身への問いだった。
――あの日、交わした視線の先に。
自分は、何を選べるのか。
その問いの先に、彼女の姿がある事だけは、はっきりしていた。




