春の温室、三人のはじまり
フルールシエル王国の王宮――その奥深くに隠れるように建つ温室庭園は、春の光に満ちていた。
天井のガラス越しに差し込む陽光が、白いテーブルクロスや飾られた花々を柔らかく照らし、空気には花の香りが混ざっている。
庭園の中では、王妃主催のお茶会の準備が進んでいた。
侍女たちが静かに歩き回り、銀器の触れ合うかすかな音が静寂を縫うように響いている。
その中心で、十歳の第一王子ロラン・ファバールは、椅子の上でそわそわと身じろぎしていた。
正装の襟は固く、靴は足を締め付け、周囲の大人たちの会話はどれも同じように聞こえる。
退屈と緊張が混ざった息を吐いた瞬間――
「ロラン殿下、背筋を伸ばして下さい」
背後から小声で注意したのは、同い年の従者、伯爵家の次男エリックだった。
王子のすぐ後ろに控えながらも、その声音は堅苦しさより親しみが勝っている。
「……退屈だ」
「そう言わず」
「お前だってわかってるだろ。これはお茶会なんかじゃない」
エリックは肩をすくめ、代わりに言葉を継いだ。
「殿下の婚約者候補とのお見合い、ですね」
「そうだ。これを退屈と言わずして何が退屈か」
「そうおっしゃらず。彼女たちは殿下に会うために朝からめかしこんでいるんですよ」
ロランは鼻を鳴らした。
――好きでそうしているわけじゃない。
王家と縁を持ちたい貴族たちが、娘たちを差し出す。
そこに自分の意思が入り込む余地はない。
――そう、わかっているはずなのに。
「……まもなく、お見えになります」
エリックの声に、ロランはわずかに肩をこわばらせた。
――婚約者候補。
何人かはすでに会ったが、どれも同じだった。
整えられた笑顔。無難な言葉。
退屈で、息が詰まりそう。
そのとき、庭園の扉が静かに開いた。
淡い黄色のドレスをまとった少女が、光の中へ足を踏み入れる。
薄い亜麻色の髪が陽光を受けてふわりと揺れた。
ロランは、息を止めた。
気づけば、視線が外せなくなっていた。
なぜ目を逸らせないのかが、自分でもわからなかった。
少女――公爵令嬢ソフィ・ロルシーは、少し緊張した面持ちで周囲を見回し、そしてロランを見つけた瞬間、ぴたりと足を止めた。
視線が、絡む。
一瞬だったが、二人にとっては十分だった。
ソフィの胸が、どくんと跳ねる。
――この人が、ロラン殿下。
噂より、ずっときれいな顔。
それに……優しそう。
「ロラン」
王妃の声に、ロランははっと我に返り、慌てて立ち上がった。
ぎこちない足取りでソフィの前に進み、教えられた通りに手を差し出す。
「は、はじめまして。ロランです」
噛みそうになりながら名乗ると、ソフィは驚いたように目を瞬かせ、それからふわりと微笑んだ。
「はじめまして。ソフィと申します」
小さな手が、ロランの手に重なる。
それだけで、二人とも頬が熱くなった。
「「……あの」」
ほとんど同時に声を出して、二人は顔を見合わせる。
次の言葉が出てこず、沈黙が落ちた。
「ロラン殿下、ソフィ様、こちらへどうぞ」
エリックが自然に割って入り、二人を席へ導いた。
にこりと笑いながら、緊張をほぐすように。
庭園の一角に設けられた白いテーブル。
向かい合って座った二人は、落ち着かない手つきでカップを持った。
「お二人とも、顔が真っ赤ですが……暑いですか?」
エリックのからかうような声に、ソフィは慌てて首を振り、ロランは咳払いをした。
「あ、暑くなどない!」
「そうですか」
その時だった。
ソフィの横を通った侍女の手が滑り、水差しが傾いた。
冷たい水がソフィのドレスを濡らし、場が凍り付く。
「も、申し訳ありません……!」
周囲の視線が一斉に集まり、侍女の顔が青く染まり、肩が小刻みに揺れる。
そんな中、ソフィはそっと侍女の手を取った。
「あなたこそ、怪我はない? 大丈夫?」
「……は、はい」
「よかった」
そのやり取りを見たとき、ロランの胸の奥で、何かが確かに動いた。
「ソフィ様、お着替えを」
侍女が促すが、ソフィは首を振る。
「そのうち乾くわ」
「ですが……」
「殿下、日当たりのいい場所は知りませんか?」
殿下としてなら、ここを離れるべきではない。
そう思った。
けれど――。
彼女の瞳の奥が、いたずらっぽく光ったのをロランは見逃さなかった。
彼は思わず笑みをこぼし、立ち上がる。
「では、こちらへ」
大人たちの視線を背に、二人は歩き出す。
エリックは、遅れないように続いた。
噴水のふちへ腰を下ろすと、春の光がドレスを温める。
噴水の水音が、まるで秘密を守るように静かに響いていた。
「ここなら、そのうち乾くだろう」
「ええ。ありがとうございます、殿下」
「……お二人とも、抜け出したかっただけですね」
エリックの呆れた声に、二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
ロランの素直な笑顔に、ソフィはつい本音を漏らす。
「ふふっ……ロラン様って、かわいらしいんですね」
ロランは固まった。
ソフィも自分の言葉に気づき、慌てて口を押さえる。
「あっ!……し、失礼しました!」
「い、いや……大丈夫だ」
――「かわいい」
言い返そうとして、結局、何も言えなかった。
その様子を見て、エリックは内心で小さく息をつく。
――これは、他の誰とも違う始まりだ。
その後のお茶会は、三人にとって特別な時間になった。
大人たちの視線を避けながら、ロランとエリックはソフィを城の中へ案内する。
「ねえ、ロラン様。お城って、迷路みたいですね」
「うん! 裏の廊下に、誰も知らない抜け道があるんだ」
「それ、案内しますよ。殿下はすぐ迷うので」
「迷わない!」
三人は声を潜めて笑い合い、城の中を探検した。
「殿下、あまり離れると侍従長に見つかります」
そう言いながらも、エリックは足を止めない。
急かすことも、無理に戻すこともしなかった。
そこでは、三人の笑い声が、いつもより少しだけ長く残った。
時間は瞬く間に過ぎ――別れ際、ソフィが勇気を振り絞って尋ねる。
「また、会えますか?」
少し間があって、ロランは頷いた。
「……うん。僕のほうから行くよ」
「私も……行っていいんですよね?」
「もちろん、だ」
そのやりとりを、エリックは少し離れた場所から見守っていた。
二人の間に生まれた光を、確かに感じながら。
こうして、三人の日々が始まった。




