影喰い
山を抜けると、霧が薄く立ち込める谷に出た。
その先に広がるのが御影村だった。
佐倉真一郎は、ハンドルを握りながら思わず息を吐いた。東京から車で六時間、舗装のはがれた山道を越え、ようやく辿り着いたのだ。
集落は、鬱蒼とした木々に抱かれるようにしてひっそりと存在していた。昼間だというのに、山影のせいか薄暗い。
村の入り口に差しかかると、古びた鳥居が立っていた。そこに吊るされた注連縄は色あせ、しかし妙に生々しい力を放っているように見えた。
「……なんとも言えない雰囲気だ」
佐倉は小さく呟いた。心理学者として各地の伝承や迷信を調べてきた彼だが、この村に漂う空気はどこか違っていた。
ただの言い伝えではない。恐怖が村全体に根を張っている。
宿に着くと、世話役の老婆が待っていた。
背は小さく、皺に覆われた顔に笑みを浮かべている。だが佐倉が夜について尋ねると、その表情が一変した。
「……夜道は歩かれませぬように」
低く、掠れた声だった。
それ以上は何も語らず、老婆は奥へ引っ込んでしまった。
その夜、外の空気を吸おうと宿の前に出た。月は冴え冴えと輝き、影が地面に濃く落ちていた。
そのとき、背後から声がした。
「外の方ですね」
振り向くと、白い着物に赤い袴を纏った娘が立っていた。黒髪を肩に垂らし、澄んだ瞳で佐倉を見つめている。
御影澪――村の巫女だと名乗った。
「この村では、日が暮れたら誰も外に出ません」
「なぜです?」
「……影喰いに見られてしまうからです」
その言葉を聞いた瞬間、背中を冷たいものが走った。
影喰い――この村に伝わる妖怪の名らしい。
佐倉は興味を覚えた。心理学的に説明できる題材だ。人が自らの影に恐怖を見いだすのは当然だ。闇夜に揺らぐ影を錯覚し、妖怪として物語った。それだけのことだ。
だが澪は真剣だった。
「振り返ってはいけません。影は、あなたの心の奥底を知っていますから」
佐倉は笑ってごまかしたが、澪の眼差しには冗談の色はなかった。
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数日後、村の神社で行われる神事に立ち会うことになった。
境内に集まった村人たちは塩を撒き、白い和紙を足元の影にかぶせ、松明で焼いた。必死の形相で影を押さえつける姿は、まるで見えない獣と格闘しているようだった。
「これは心理的な暗示に過ぎません」
佐倉はノートに書き留めながら呟いた。
恐怖を具象化し、それを封じることで心の安定を得る――民俗学的にはよくあることだ。
だが、そのときだった。
火の揺らめきに合わせて、佐倉の影が“ほんの一瞬、遅れて動いた”。
胸に冷たいざわめきが広がった。
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その夜。
宿の窓から石畳の道を見下ろすと、ひとりの青年が歩いていた。
月明かりに長く伸びる影。その影が、ふいにゆらりと立ち上がった。
佐倉は息を呑んだ。
影は青年の背後で裂けた口を広げ、笑っていた。
「――見たな」
耳の奥に、声が響いた気がした。
翌朝、その青年は山中で発見された。
命はあったが、瞳は虚ろで、声も発せず、ただ地面に座り込んでいた。
村人たちは口々に言った。
「あれは影に喰われたんだ」
佐倉は必死に説明した。
「強い恐怖体験による心因性の症状です。心理的ショックで解離したんでしょう」
だが、誰ひとり耳を貸さなかった。
澪だけが、静かに呟いた。
「影喰いは、人の心を食べるのです。欲望も、罪も、後悔も……隠してきたものを」
佐倉は笑い飛ばそうとした。
しかしその瞬間、足元に映る自分の影が、にたりと笑ったように見えて――喉の奥で声が途切れた。
それから数日、佐倉は村を歩き回り、影喰いの言い伝えを調べた。
古老たちは口を濁し、若者たちは話題にすることすら拒んだ。
ただ一つだけ、皆が同じ言葉を繰り返した。
「影を振り返るな」
その夜、また異変が訪れた。
宿の部屋で書き物をしていると、灯りに照らされた自分の影が、ふと“笑った”。
まぎれもなく、口角を吊り上げる仕草だった。
心臓が跳ねた。
「錯覚だ、疲れているだけだ……」
そう言い聞かせるが、背筋に氷のような冷気が走った。
ノートを閉じたとき、不意に耳元で囁く声がした。
――おまえは見た。
――もう、逃げられぬ。
佐倉は振り返った。だが、背後には誰もいない。
ただ、床に落ちた影が、別人のように嗤っていた。
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翌日、澪が訪ねてきた。
「顔色が優れませんね」
心配そうにのぞき込むその瞳は澄んでいたが、佐倉は苛立ち混じりに言った。
「君たちは、皆で幻を信じ込んでいるんだ。影喰いなんて存在しない。心が作った虚像だ!」
澪はしばらく黙っていた。やがて静かに口を開いた。
「先生……影に笑われたのですね?」
佐倉は言葉を失った。
澪は神社へ案内すると言った。
そこには御影家に代々伝わる記録があった。
古びた巻物にはこう記されていた。
――影喰いは人の心を映すもの。罪を隠すほど影は濃くなり、やがて己を食らう。
――影を恐れる者は、すでに呑まれ始めている。
佐倉は冷や汗をかいた。
心の奥底に沈めてきた罪。
かつて研究のために追い詰めた患者の顔がよぎった。
自分が作り上げた理論で、心を砕かれた人間がいた。
それを「研究成果」と称して蓋をしてきた。
「……違う。私はただ……」
その瞬間、影が呻くように蠢いた。
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夜。
宿の部屋の四隅から影が広がり、佐倉の影と溶け合った。
背筋に氷を流し込まれるような感覚。
膝が震える。
――罪を思い出せ。
――悔いを思い出せ。
声は頭の中で渦を巻いた。
目をつむっても影が見える。
やがて影が立ち上がり、佐倉の喉を掴んだ。
「やめろ……!」
必死に叫んだそのとき、襖が開いた。
澪が駆け込み、手にした御幣で影を払った。
光のような音が響き、影は床へ沈んだ。
「先生、影は完全に憑いています。もう時間がありません」
澪の声は震えていた。
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翌日、澪は決断を告げた。
「神事を行います。影を祓うには、影と向き合うしかない」
山の神社にて、松明が焚かれた。
円陣を描き、村人たちが塩を撒く。
中央に立たされた佐倉は、灯火に揺れる己の影と向かい合った。
影は人の形をしていた。
だがその顔は――佐倉自身の顔だった。
「おまえは人を壊した。己の欲で」
影はそう告げ、口を裂いて笑った。
佐倉は否定しようとしたが、喉が詰まった。
かつての患者の泣き声が耳の奥で響いた。
「先生が正しいんですよね?」と縋る声。
それを突き放したのは自分だった。
膝が崩れ落ちる。
影は口を大きく開き、佐倉を呑み込もうとした。
その瞬間、澪が祈りの言葉を叫び、鈴を振った。
影が裂けるように震え、耳をつんざく悲鳴をあげた。
「先生! 影を認めてください! それが唯一の道です!」
佐倉は震える唇を開いた。
「……私は、人を壊した……それを、隠してきた……」
影がぴたりと動きを止めた。
やがて煙のように揺らめき、地に吸い込まれていった。
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夜が明けた。
村には久しぶりに穏やかな空気が流れていた。
佐倉はぐったりと座り込み、空を仰いだ。
「終わったのか……?」
澪は頷いた。
「影は先生を喰らい尽くすことはできませんでした。ですが――影は消えてはいません」
その言葉に、佐倉は背筋を冷やした。
足元に目を落とす。
朝日を浴びて、長く伸びる自分の影。
それは確かに、自分と同じ動きをしていた。
――ただ、口元だけが、わずかに笑っていた。
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御影村を去る日、佐倉は澪に別れを告げた。
「君のおかげで助かった」
澪は首を横に振った。
「影は、人が生きる限り離れません。先生の心にまた罪が積もれば……必ず戻ってきます」
佐倉は答えられなかった。
車を走らせ、鳥居を抜けた。
後ろを振り返ると、村が霧の中に消えていく。
ふとバックミラーを覗いた。
――助手席に、自分の影が座っていた。
笑みを浮かべて。
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