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影喰い

作者: アンドレアル
掲載日:2025/10/05

山を抜けると、霧が薄く立ち込める谷に出た。

 その先に広がるのが御影村だった。


 佐倉真一郎は、ハンドルを握りながら思わず息を吐いた。東京から車で六時間、舗装のはがれた山道を越え、ようやく辿り着いたのだ。

 集落は、鬱蒼とした木々に抱かれるようにしてひっそりと存在していた。昼間だというのに、山影のせいか薄暗い。


 村の入り口に差しかかると、古びた鳥居が立っていた。そこに吊るされた注連縄は色あせ、しかし妙に生々しい力を放っているように見えた。


「……なんとも言えない雰囲気だ」


 佐倉は小さく呟いた。心理学者として各地の伝承や迷信を調べてきた彼だが、この村に漂う空気はどこか違っていた。

 ただの言い伝えではない。恐怖が村全体に根を張っている。


 宿に着くと、世話役の老婆が待っていた。

 背は小さく、皺に覆われた顔に笑みを浮かべている。だが佐倉が夜について尋ねると、その表情が一変した。


「……夜道は歩かれませぬように」


 低く、掠れた声だった。

 それ以上は何も語らず、老婆は奥へ引っ込んでしまった。


 その夜、外の空気を吸おうと宿の前に出た。月は冴え冴えと輝き、影が地面に濃く落ちていた。

 そのとき、背後から声がした。


「外の方ですね」


 振り向くと、白い着物に赤い袴を纏った娘が立っていた。黒髪を肩に垂らし、澄んだ瞳で佐倉を見つめている。

 御影澪――村の巫女だと名乗った。


「この村では、日が暮れたら誰も外に出ません」

「なぜです?」

「……影喰いに見られてしまうからです」


 その言葉を聞いた瞬間、背中を冷たいものが走った。


 影喰い――この村に伝わる妖怪の名らしい。

 佐倉は興味を覚えた。心理学的に説明できる題材だ。人が自らの影に恐怖を見いだすのは当然だ。闇夜に揺らぐ影を錯覚し、妖怪として物語った。それだけのことだ。


 だが澪は真剣だった。

 「振り返ってはいけません。影は、あなたの心の奥底を知っていますから」


 佐倉は笑ってごまかしたが、澪の眼差しには冗談の色はなかった。



---


 数日後、村の神社で行われる神事に立ち会うことになった。

 境内に集まった村人たちは塩を撒き、白い和紙を足元の影にかぶせ、松明で焼いた。必死の形相で影を押さえつける姿は、まるで見えない獣と格闘しているようだった。


「これは心理的な暗示に過ぎません」

 佐倉はノートに書き留めながら呟いた。

 恐怖を具象化し、それを封じることで心の安定を得る――民俗学的にはよくあることだ。


 だが、そのときだった。

 火の揺らめきに合わせて、佐倉の影が“ほんの一瞬、遅れて動いた”。


 胸に冷たいざわめきが広がった。



---


 その夜。

 宿の窓から石畳の道を見下ろすと、ひとりの青年が歩いていた。

 月明かりに長く伸びる影。その影が、ふいにゆらりと立ち上がった。


 佐倉は息を呑んだ。

 影は青年の背後で裂けた口を広げ、笑っていた。


 「――見たな」


 耳の奥に、声が響いた気がした。


 翌朝、その青年は山中で発見された。

 命はあったが、瞳は虚ろで、声も発せず、ただ地面に座り込んでいた。

 村人たちは口々に言った。


「あれは影に喰われたんだ」


 佐倉は必死に説明した。

 「強い恐怖体験による心因性の症状です。心理的ショックで解離したんでしょう」


 だが、誰ひとり耳を貸さなかった。

 澪だけが、静かに呟いた。


「影喰いは、人の心を食べるのです。欲望も、罪も、後悔も……隠してきたものを」


 佐倉は笑い飛ばそうとした。

 しかしその瞬間、足元に映る自分の影が、にたりと笑ったように見えて――喉の奥で声が途切れた。



それから数日、佐倉は村を歩き回り、影喰いの言い伝えを調べた。

 古老たちは口を濁し、若者たちは話題にすることすら拒んだ。

 ただ一つだけ、皆が同じ言葉を繰り返した。


「影を振り返るな」


 その夜、また異変が訪れた。

 宿の部屋で書き物をしていると、灯りに照らされた自分の影が、ふと“笑った”。

 まぎれもなく、口角を吊り上げる仕草だった。


 心臓が跳ねた。

 「錯覚だ、疲れているだけだ……」

 そう言い聞かせるが、背筋に氷のような冷気が走った。


 ノートを閉じたとき、不意に耳元で囁く声がした。


 ――おまえは見た。

 ――もう、逃げられぬ。


 佐倉は振り返った。だが、背後には誰もいない。

 ただ、床に落ちた影が、別人のように嗤っていた。



---


 翌日、澪が訪ねてきた。

 「顔色が優れませんね」

 心配そうにのぞき込むその瞳は澄んでいたが、佐倉は苛立ち混じりに言った。


 「君たちは、皆で幻を信じ込んでいるんだ。影喰いなんて存在しない。心が作った虚像だ!」


 澪はしばらく黙っていた。やがて静かに口を開いた。

 「先生……影に笑われたのですね?」


 佐倉は言葉を失った。


 澪は神社へ案内すると言った。

 そこには御影家に代々伝わる記録があった。

 古びた巻物にはこう記されていた。


 ――影喰いは人の心を映すもの。罪を隠すほど影は濃くなり、やがて己を食らう。

 ――影を恐れる者は、すでに呑まれ始めている。


 佐倉は冷や汗をかいた。

 心の奥底に沈めてきた罪。

 かつて研究のために追い詰めた患者の顔がよぎった。

 自分が作り上げた理論で、心を砕かれた人間がいた。

 それを「研究成果」と称して蓋をしてきた。


 「……違う。私はただ……」


 その瞬間、影が呻くように蠢いた。



---


 夜。

 宿の部屋の四隅から影が広がり、佐倉の影と溶け合った。

 背筋に氷を流し込まれるような感覚。

 膝が震える。


 ――罪を思い出せ。

 ――悔いを思い出せ。


 声は頭の中で渦を巻いた。

 目をつむっても影が見える。

 やがて影が立ち上がり、佐倉の喉を掴んだ。


 「やめろ……!」


 必死に叫んだそのとき、襖が開いた。

 澪が駆け込み、手にした御幣で影を払った。

 光のような音が響き、影は床へ沈んだ。


 「先生、影は完全に憑いています。もう時間がありません」


 澪の声は震えていた。



---


 翌日、澪は決断を告げた。

 「神事を行います。影を祓うには、影と向き合うしかない」


 山の神社にて、松明が焚かれた。

 円陣を描き、村人たちが塩を撒く。

 中央に立たされた佐倉は、灯火に揺れる己の影と向かい合った。


 影は人の形をしていた。

 だがその顔は――佐倉自身の顔だった。


 「おまえは人を壊した。己の欲で」

 影はそう告げ、口を裂いて笑った。


 佐倉は否定しようとしたが、喉が詰まった。

 かつての患者の泣き声が耳の奥で響いた。

 「先生が正しいんですよね?」と縋る声。

 それを突き放したのは自分だった。


 膝が崩れ落ちる。

 影は口を大きく開き、佐倉を呑み込もうとした。


 その瞬間、澪が祈りの言葉を叫び、鈴を振った。

 影が裂けるように震え、耳をつんざく悲鳴をあげた。


 「先生! 影を認めてください! それが唯一の道です!」


 佐倉は震える唇を開いた。

 「……私は、人を壊した……それを、隠してきた……」


 影がぴたりと動きを止めた。

 やがて煙のように揺らめき、地に吸い込まれていった。



---


 夜が明けた。

 村には久しぶりに穏やかな空気が流れていた。

 佐倉はぐったりと座り込み、空を仰いだ。


 「終わったのか……?」


 澪は頷いた。

 「影は先生を喰らい尽くすことはできませんでした。ですが――影は消えてはいません」


 その言葉に、佐倉は背筋を冷やした。


 足元に目を落とす。

 朝日を浴びて、長く伸びる自分の影。

 それは確かに、自分と同じ動きをしていた。


 ――ただ、口元だけが、わずかに笑っていた。



---


 御影村を去る日、佐倉は澪に別れを告げた。

 「君のおかげで助かった」

 澪は首を横に振った。


 「影は、人が生きる限り離れません。先生の心にまた罪が積もれば……必ず戻ってきます」


 佐倉は答えられなかった。


 車を走らせ、鳥居を抜けた。

 後ろを振り返ると、村が霧の中に消えていく。

 ふとバックミラーを覗いた。


 ――助手席に、自分の影が座っていた。


 笑みを浮かべて。



---



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