LAZULI ~迷子~
「LAZULI」本編開始時点より2年前の秋のお話です。
ディートハルト16歳
エトワス18歳
翠18歳
時計の針は午後6時をまわり既に日も落ちていたが、ウルセオリナの城下町のメインストリートには露店が建ち並んで昼間のように明るく、大勢の人々でごった返していた。その多くが普段とは違う様々な衣装を身に着けて仮装しているのは、今日がファセリア帝国ウルセオリナ地方で恒例の秋の収穫祭の期間中、最も盛り上がる最終日だからだ。
『あと、6時間か……』
日付が替わるのと同時に祭は終了する。この異常な喧噪も、あと数時間の辛抱だった。
「冷えるなぁ」
祭の中心になっている広場近くにいながら、祭に参加しているという訳でも見物しているという訳でもない。ラルフ・ミアーは、人混みをなるべく避けようと大通りから脇道に入った。
『サボってるんじゃないぞ。人目の届かない、こういった場所こそ巡回しとかないとな!』
そう、自分で自分に言い訳しながら、どんどん人通りの少ない方へと進んで行く。
冷たい風が、フワリと甘くて強い花の香りを運んできた。
「ん?」
どの花の香りだろう、そう無意識に探していたラルフは、周囲に視線を走らせたところで細く狭い路地の先に数人の男達の姿を見付けた。酔っぱらいのようだ。
皆が楽しく過ごしている祭の最中という事もあるので、それがただの酔っぱらいなら構わなかったのだが、その男達は地面に倒れた一人の少女を取り囲み、何やら絡んでいるところだった。
「お嬢ちゃ~ん??」
「生きてるかぁ?」
男達のせいかどうかは分からないが、どうやら少女はすぐ目の前の石段で転んでしまったようだった。
俯せに肘をついた状態で、フリルとレースで飾られたスカートが大きくめくれ、足だけでなく下着も見えてしまっている。薄暗いせいで細かいデザインまではよく分からなかったが、至ってシンプルな無地の黒っぽい下着だった。しかも形はボクサーパンツ型だ。女の子のものなのでレース付きだったり薄い素材だったりするものを一瞬期待したのだが、現実は案外期待はずれなものだ。
「お嬢ちゃん、パンツ丸見えだぞー」
「気前がいいな」
「随分色気のねえデザインだけどな」
3人の男が声を立てて笑う。
「……」
転んで怪我でもしたのか、少女はしばらくうずくまっていたが、ゆっくりと顔を上げると男達の方を見上げた。
「そぉら!」
少女が口を開く前に、男の一人が腕を伸ばした。助け起こすのかと思いきや、勢いよく引っ張り上げて強引に抱き寄せる。
「こんな所で会ったのも何かの縁ってやつだな。せっかくだから、俺達と遊ぼうぜ」
「ハハッ、そりゃいい。今日は祭だ。楽しくやろう」
『シマッタ……』
ラルフは思わず溜息を吐きそうになった。ありがちな嫌な状況だったが、祭には付き物のよくある光景なので、気付かないふりをしてさっさと通り過ぎてしまえば良かったのに、うっかりパンツに気を取られてしまったばかりに、立ち去り損ねてしまった。
「……」
しっかり目撃してしまったので、今更その状況を無視する訳にはいかなかった。彼の良心や正義感がそうさせる訳ではなく、それが彼の仕事だからだ。
就職してまだ数ヶ月、これが初めてまともにする仕事らしい仕事になりそうだった。
「スー……ハァ」
一度深呼吸をし、明らかに自分よりも体格の良い3人連れに、内心嫌々歩み寄る。
「何をしているんだ?」
実は緊張していることを悟られないよう、敢えてゆっくりとした口調で、腹筋に力を入れて声を掛けた。
「アァン?」
「何だ?」
すぐに振り返った3人の男達の不快げな視線が、ラルフの姿を捉える。……黒髪に灰色の瞳をした青年は、口にした言葉に反して、ひ弱そうに見えた。
「若造が何の……」
用だ?!と、ヒゲを蓄えた大柄な男がそう言い掛け、すぐにラルフの纏った制服と腰に帯びた剣に気付く。
「いやぁ、別に。何もしてないですよぉ」
酔っていても、面倒事になるのは避けたかったのだろう。ヒゲの男は少女の細い腕を掴んでいた手をパッと放すと愛想笑いを浮かべた。
「このお嬢ちゃんが目の前で転んじまってね。助けてあげたついでに、一人でつまらなそうだったから声を掛けてやってただけで……」
「おじちゃん達は、何もしてないよなぁ?」
「じゃあなぁ、お嬢ちゃん!」
口々に言うと、酔っぱらいの男3人はおぼつかない足取りながら精一杯急いで大通りの方へと去っていった。
「立てるか?」
男達が早々に退散してくれた事にほっとしながら、ラルフはヒゲの男に放り出されて地面に尻餅をついていた少女に歩み寄り手を差し出した。
「……」
戸惑ったような瞳が、窺う様な視線でラルフの姿を捉える。
ラルフの方も、今になって初めて少女の姿を間近で見たのだが、一瞬でその容姿に目を奪われてしまった。
フリルとレースが、ふんだんにあしらわれた黒を基調としたドレスと、緩く巻いた長い髪の両サイドを留めたリボンがよく似合う、目の大きな人形のような顔立ちの少女だった。悪魔の仮装のつもりなのか、その背には小振りの蝙蝠のような黒い羽が付いているが不気味さは微塵も感じられず、ただただ愛らしい。
歳はラルフより少し下の十代半ばくらいだろうか、華奢な体は女性らしい体形とは程遠いのだが、纏う雰囲気のせいか妙に艶やかな印象を受け、酔っぱらいの男達が悪戯心を抱いてしまったのも頷けてしまう。
「……こ、今夜は、こんな裏通りにいたら危ないぞ。しかも一人で」
これが一目惚れという奴なのだろうか。
急に早くなってしまった鼓動を何とか宥めようと尽力しながら、ラルフは少女に冷静さを装って尋ねた。
「誰か連れは?」
「……あ、ええと……。はぐれてしまって。それと、道に迷ってて……」
顔を見られたくないのだろうか、少女は少し俯いて視線を逸らし、ぽそぽそと小さな声でそう答えた。
下を向いているせいで、元々長い睫が余計に際立って見えている。
恥ずかしいのか、それとも怯えているのか、少女のその仕草が酷く可憐に思えて胸が高鳴った。
「……そうか。じゃあ、俺が道案内するよ。」
「えっ!?」
ラルフの申し出に、少女はハッとして顔を上げ困惑したように眉を寄せた。
街灯の明かりを受けた事で、真っ直ぐにラルフに視線を向けたその瞳が、今までに見たことのない鮮やかな瑠璃色をしている事が分かった。海や湖の碧とはまた違う、真夏の抜けるような青空よりももっと深く濃い、少し紫がかった澄んだ青い瞳だった。ふとした拍子の影や光の加減で、微妙に色合いが違って見えている。
「君は、観光客?大丈夫。俺はこの町の警備隊の人間だから、仕事なんだ。君が行きたいところまで連れて行ってあげるよ」
少女が警戒しているのだと思い、とにかく安心させようと慌てて笑顔を作る。
「……」
少女は迷っているようだったが、やがて「お願いします」と、やはり小さい声でそう言った。
「ええと、じゃあ、どこに案内したらいい?」
尋ねると、少女は町の出口まで案内して欲しいと言った。はぐれてしまった連れと町中で合流する事は諦めたらしい。
ラルフは少女を伴い、そのまま大通りには出ずに人のまばらな脇道を進み始めた。メインストリートの数には到底及ばないが、そこにも露店は出ていて、二人が前を通る度に声が掛かった。少女はその呼びかけに全く反応を示す事はなかったが、それでも物珍しいのか、売り物にキョロキョロと視線を巡らせている。
「ちょっと、覗いていく?」
「……」
ラルフが尋ねると、少女は無言で首を横に振った。話すのが嫌なのか、悪魔の仮装をした少女は話しかけても短い答えを返すだけで、全く自分からは喋ろうとしなかった。しかし、ラルフの方は少女と一緒に歩ける事が嬉しくて、仕事中だという事も忘れてちょっとしたデート気分になり、密かに心を弾ませていた。少しでもこの少女と親しくなりたい。この少女の事が知りたい。その一心で、ラルフはほぼ一方通行ながら何気ない会話を続けていた。
そのうちに、肝心な事を忘れていた事に気付く。
「あ、そうだ。自己紹介してなかったな。俺の名前はラルフ・ミアー。見ての通りウルセオリナの兵士だ。君は……」
その時、近くで轟音が響いた。一つ向こうの通りからだろうか。
「!?」
続いて、人の悲鳴や騒ぐ声も聞こえてきた。
「魔物だっ!!見せ物の魔物が逃げたぞっ!」
「えっ!?」
誰かの声に慌てて周囲を見回すと、早くも背後から凄まじい勢いで何か大きな黒い塊が近付いて来るのが見えた。通行人や露店の主が慌てふためいて逃げ出している。
『げっ……こっちに来る!しかも二匹っっ!?』
ラルフは正直なところ実戦経験はあまりなかった。その上、戦う事自体好きでもないし得意でもない。給料が良かったので入隊し、戦闘に参加する可能性の低い警備隊を志願していた。
『勘弁してくれ……!』
思わず反射的に逃げ出しそうになったが、すぐに傍らの少女の存在を思い出した。
「……」
恐怖で固まっているのか、逃げようともせずに近付いてくる魔物をジッと眺めている少女を置いていく事は絶対に出来ない。何としても彼女を守らなければならなかった。
それに、ある意味これは絶好の機会だと思った。襲い来る恐ろしい魔物を倒して格好いいところを見せたら、もしかすると少女が惚れてくれるかもしれない。これをきっかけに、お付き合いできる可能性もある。
「君は、安全なところに隠れろ!」
緊張と恐怖で鼓動が跳ね上がっていたが、ラルフは覚悟を決め少女を背に庇うと剣を鞘から抜いた。
徐々に近付いてくる黒い影は、主に大陸北部の海岸地帯に生息する魔物だった。刺に覆われたゴツゴツした岩のような塊から、無数のヘビのような足……なのか触手が溢れ出し、ザワザワと蠢いている。その触手に不規則に並んでいる鈍く光る赤い点は、恐らく目のようなものだろう。
『だ、誰だ?!あんな気色悪いものを祭に持ち込んだのは!!』
ザワザワ蠢く足を見ていたら、背筋がゾワゾワしてきた。
『絶対、牢にぶちこんでやる!』
そう思いながら、半分涙目になったラルフは剣の柄を強く握りしめると、すぐ近くまでやって来た魔物に向かって走り出した。
男の意地にかけて、何としても魔物を倒さなければならなかった。しかも、出来るだけ格好良く。
「!?」
手近な触手めがけて切り込んだ剣の刃は、鈍い感触と供に目標物を切り裂いた。しかし、切断面を覆っている粘ついた液体に剣を取られてすぐに体勢を立て直す事が出来なかった。その隙を逃さず、跳ねた二匹目の魔物が、まるで手で獲物を鷲掴みにするかのように触手を四方に広げてラルフめがけて襲いかかる。
「うぅっ!」
悲鳴を上げそうになったが、間一髪のところで逃れる事ができた。
背後から勢いよく走り出してきた少女が、飛びついて……と言うより体当たりしてくれたからだ。
「!」
魔物の触手はそれぞれ独立した動きをしていて、蛇のように獲物を狙っている。ラルフを捉え損ねた魔物は早くも別の数本の触手を二人めがけて伸ばしていた。
すると、ラルフより先に、少女が地面に放り出されたラルフの剣を拾い上げそのまま握り直すと、勇敢にも魔物に向かって走り出し襲いかかってきた触手に体重を乗せて大きく斬りかかった。
ザシュッ!
剣の刃は触手を切り落とす事は出来なかったが、傷ついた標的は他の触手と供にゴムのように収縮し、あっという間に殻の中に収まった。その代わりに、もう一体の魔物が飛び掛かってくる。
「っ!」
触手に払われ、体重の軽い少女は踏みとどまれずに弾き飛ばされる。
受け身を取りすぐに体を起こそうとしたが、フリルの多いドレスと細く高いヒールの靴では思うように動けずに転倒してしまい、掬い上げるように伸ばされた触手が少女の体に巻き付いた。
「!」
少女の予想外の行動に驚いてしまっていたラルフだったが、我に返ると放り出されていた自分の剣を拾い上げて魔物に斬りかかり、何とか締め上げられていた少女を救い出した。
「大丈夫か?」
魔物の攻撃から庇い抱き寄せるようにして尋ねると、少女は何故かまた困ったような表情を見せた。
「君は、隙を見て逃げるんだ!」
そうは言ったものの、少女を庇いながら二匹の魔物を相手にするのは正直とても苦しくて、隙を作る以前に自分の命を守れるかも大問題だった。
『E・Kも出てるはずだけどな……』
ウルセオリナの領主に仕える精鋭の兵達も、今日は城下町を巡回しているはずだ。
『ここに早く駆けつけてくれたらいいんだけど』
……と、弱気になりかけて慌てて頭を振る。
『彼女を守るのは俺しかいないんだっ!』
そう胸の中で自分自身を鼓舞し、改めて目の前の魔物に立ち向かおうと決意して顔を上げる。
「あ!?」
僅かの間に、すぐ間近に魔物の触手が迫っていた。迎え撃つ時間などない。
ただ、この少女だけは絶対に守ろうと、その華奢な体を抱え込んで魔物の攻撃を避ける。
「っ!!」
何とか直撃だけは免れた。しかし、肩と頬に痛みが走り、半歩程横の地面を触手の先端が抉った。
「……だ、大丈夫か?怪我はないか?」
再び同じ事を尋ねて少女の無事を確認すると、少女はキッと眉を寄せ、刺に覆われた魔物の方を見据えた。
「ダメだ、危ない!」
少女がラルフが手放した剣を拾おうとするので、ラルフは慌ててそれを止めた。
「おれは平気だ。あんたこそ怪我してるだろ。早く避難した方がいい」
振り向いて、初めてまともに話した少女の物言いに、ラルフは一瞬驚いた。あまりにその外見とかけ離れていたからだ。
しかし、楚々とした容姿とは大きくギャップのある乱暴で強気な言動が、逆に愛らしく思えてしまう。短時間の間に、それ程本気でこの少女に心を奪われていた。
「君を残して逃げるなんて、そんな真似出来るわけがない!」
「大丈夫、誰にも言わねえから」
ウルセオリナ兵として職務を放棄する事はできない、ラルフがそう言っていると思ったのだろうか。少女の言葉にラルフは笑った。
「仕事じゃなくても、女の子を一人置いて逃げたりはしないよ」
「……」
何か言いたげに少女が口を開く。その時、視界に紫色の光が踊った。
バチバチバチッ
それは光の帯だった。
直後に、目の前を這っていた複数の触手が雷に打たれたように一瞬で焼け落ち、小さな火がブスブスと燻る。
「E・K!?」
かと思ったが、こちらに向かい駆け寄ってくるのは軍服姿のE・Kではなく、黒い服に身を包んだ男だった。祭用の衣装なのだろう。長いマントを身に着け、鍔の広い帽子と仮面で顔のほぼ半分を覆い隠しているため、どんな人物なのか分からない。
しかし、その顔の分からない男を目にした少女は、小さく「あ!」と呟き、僅かではあったが嬉しそうな表情を浮かべた。
知り合いなのだろうか……。少女の様子にラルフの胸は少し痛む。
ぼんやりと薄紫色に発光する抜き身の剣を手にした男は、走りながら襲い来る触手をかわして魔物の本体に近付くと、剣の柄を握り変えて構え直し、触手の束の根元付近を狙って斬り込んだ。
その瞬間、刀身を包む光は眩しい程に強くなり、空気が震える。
絡みつこうと襲ってきた触手は彼に届く事はなく、焼け焦げで地面に落ち、後には黒い煙が立ち上る刺のある固い殻だけが残された。
「……!」
驚き感心してしまい、黒衣の男を呆然と見ていたラルフだったが、やるべき事を思い出し、自分の剣を掴み怪我の痛みを堪えて立ち上がると、もう一体の魔物に向かっていく。無茶は承知だったが、一匹くらいは倒して何とか自分も少女に良いところを見せたかった。
黒衣の男の様に、器用に魔物の本体である殻に接近する事は出来ないので、手近な触手を地道に1本ずつ叩き斬る。
続けて4本、力任せに剣を振るったところで手の感覚がおかしくなった。痺れてしまい、うまく柄が握れない。
ガガガガ
「!」
その時、突如現れた氷の塊が魔物に降り注いだ。
今回は黒衣の男ではなく、駆けつけたE・Kが放ったものだった。遅ればせながら、ラルフの同僚の兵達も数名、E・Kに続いて現れる。
結局、ラルフが一人で魔物を倒す事は叶わなかったが、ほどなくして町中での戦闘は終わった。
「おい、ラルフ、大丈夫か?」
同僚の兵に声を掛けられ、ラルフは頷いた。
「ああ、なんとか……」
疲労困憊し地面に座り込んで呼吸を整えていると、E・K達が黒衣の男に向かい敬礼している姿が目に入った。
「逃げ出した魔物の数と、被害の状況は?」
黒衣の人物の声は若い男のものだった。
「はい、合計3体、この二体で全てです。大通りの露店が数件倒壊したようですが怪我人はほとんどいません」
『…………』
知り合いではないが、絶対に知っている気がするこの男は誰だろう?ラルフは一生懸命考えた。E・Kが敬礼し報告しているという事は、この黒ずくめの服を着た男は身分が高い人物という事になる。
「あ」
ラルフは黒衣の男の正体に気付いた。
E・K達と同じ術を使い、E・K達が敬意を払う相手は限られている。
『ウルセオリナ卿だ……』
ラルフの暮らす、ここウルセオリナ地方の次期領主エトワスだ。
彼はE・K達と言葉を交わした後、触手の残骸の中に立っていた黒いドレスの少女に歩み寄った。
少女の頬には少しだけ煤が付いていたが、それでもやはり完璧な人形のように美しく愛らしい。そうラルフは思った。
「いつの間に消えたんだ?」
そう言ってエトワスは笑みを浮かべた。すると、その口元に小さな牙が覗く。黒ずくめの衣装に牙――吸血鬼の仮装なのだろうか。仮面を着けているのは、人目を避けての事なのだろう。
「捜しまくったんだぞ」
その口調に、少女を非難している様子は全くない。
スッと手を伸ばしたエトワスは、「汚れてる」と、少女の頬に触れて煤を擦り取った。その何気なく為された行為は、二人がごく親しい間柄であることを物語っている。それは、酷く羨ましいものとしてラルフの目に映っていた。
しかし、次期公爵のお相手では、自分の恋などどんなに努力しても進展が望めるはずもない。ラルフはがっくりと肩を落とし、大きな溜息を吐いた。
『皇女と婚約するかもって噂なのに、二股かけるなんて!』
と、噂でしかないのだが、ラルフは嫉妬で勝手に憤っていた。
「そっちこそ、いきなりいなくなるなよ。おれだって大変だったんだぞ。道は分かんなくなるし、やたらと酔っぱらいに絡まれるし」
そう話した少女の言葉に、吸血鬼姿のエトワスは心配そうに少し眉を寄せた。
「まさか、ただ祭で浮かれて、飲み過ぎてしまっただけの善良な人達を、襲ったりしなかっただろうな?」
「何もしてねえよ。っつーか、“おれが”襲われたんだ!どこが善良なんだよ?ウルセオリナの野郎共は、みんな発情してんのか??」
愛らしい少女の唇から、およそ似合わない言葉がポンポンと飛び出してくる。
「どうかな?みんなって訳じゃないと思うけど」
ラルフも含め、供にその様子を見ていた同僚の警備兵も少なからず衝撃を受けていたが、エトワスの方は馴れた様子で返している。
「ウルセオリナの野郎共を代表して、お詫びに何か奢ってやるから機嫌直せよ」
エトワスの言葉に少女はムッとした様だった。しかし、機嫌が悪そうな表情ながらも、しっかりと要望は口にする。
「向こうの通りで売ってた超特大サイズのシュークリームがいい。それか、”ドルチェ”のチョコ」
超特大サイズのシュークリーム……それは、揃えた両方の掌ほどの大きさで、生クリームとチョコのクリーム、そしてフルーツがたっぷり入ったものだった。”ドルチェ”というのは、カフェも併設されている帝都にある高級チョコレート専門店の名前だ。
「分かった。じゃあ、これからそのシュークリームを買いに行こう。それと、ドルチェの方は今度二人で一緒に行こう」
これで少女があっさり機嫌を直すと、エトワスは口元に笑みを浮かべた。さりげなくデートの約束をしているように聞こえるのは、ラルフの気のせいだろうか。非常に仲が良さげな二人のやり取りを見ていると、やはりまた切なくなる。
「フゥ」
溜息を吐きフラリと立ち上がったラルフは、少女には声を掛けずに立ち去る事に決め、同僚の兵士に肩を貸してもらい立ち上がった。本当は未練があったが、次期公爵と張り合うには分が悪すぎる。諦めるより仕方がなかった。
「お~、やっと見つかったんだ?迷子の悪魔っ娘」
ちょうどラルフの前方から歩いてきた黒髪の男が、すれ違った直後にそう言ったのが聞こえた。少女は二人の連れを捜していると言っていたので、彼がそのもう一人なのだろう。やはり黒い衣装を着ていたが、尖った牛のような角と尻尾が付いていた。彼もまた悪魔の仮装をしているのだろう。
「またはぐれちゃわないように、オニイチャン達と手ぇつないで歩こっか?」
「誰に言ってるんだ?」
「ディーちゃんに決うッ……」
呻き声が聞こえた。
ディーちゃんが革靴で悪魔男の臑をガツリと蹴ったからだ。
『ディーちゃんって名前なのか。愛称だよな?じゃあ、ディアナとかディートリンデとかって名前なのかな……』
ふと耳に飛び込んできた新情報に、ラルフは思わず足を止めてしまう。
「そんな、狂暴な事する娘だと、皆に怖がられちゃって彼氏が出来ないよ?」
「俺は怖いと思わないけど」
「誰が娘だよ。っつーか、お前らいい加減にしろよ。お前らがこんなふざけた服を用意したせいで、酷い目に合ったんだぞ!」
エトワスがさらりと言った台詞は流され、ディートハルトは再び機嫌を損ねた様子で文句を言う。
「何言ってんの~。ゲームに負けたのはディー君なんだし?今更そんな事言ってもらってもねぇ」
祭に仮装をして参加するという事で、エトワス、ディートハルト、翠の3人は、”負けた者の衣装は勝った二人が決める”というルールでトランプをした。”神経衰弱”だった。何故か異常に気合いを入れてやっている二人にディートハルトは惨敗し、その結果が現在の無駄な布が多いフリフリドレス姿だった。
「女装させるなんて、最初に言ってなかっただろ!」
『…………』
「えええぇっ!?」
足を止めて会話に耳をそばだてていたラルフは、思わず振り返っていた。
ディートハルト達3人も声を上げたラルフに注目する。
「おっ……お、男ぉっ!??」
茫然とするラルフの目に映るディートハルトは、やはり女の子にしか見えていない。
「……」
「……」
ラルフの反応に、ディートハルトは複雑な表情で眉を寄せ、ディートハルトを必死で庇いながら魔物を相手にしていたラルフの様子に、薄々事情を察していたエトワスは薄く苦笑いして視線を逸らし、自分なりに状況を把握した翠は提案した。
「なんなら、脱がしてみる?」
再び、翠はディートハルトに先程と同じ足を蹴られた。
「……」
ラルフは衝撃を受けていた。
「あぁ、そうだ。ラルフ、さっきはありがとう」
騙したようで気が引けたディートハルトは、ぼんやり立ちつくしたままのラルフに歩み寄ると無表情ながらも礼を言った。
「あ……あぁ、いや」
ラルフは、ふるふると首を振った。未だに事実を受け入れられないでいた。その上、大きな瑠璃色の瞳に視線を向けられると相変わらず鼓動が早くなるし、名前を覚えていてくれたという事が嬉しくてたまらない。ヒラヒラした服装に目が惑わされているのだろうか。
まるで幻の中にいるようなスッキリとしない気分のまま、ラルフはディートハルト達とその場で別れ、同僚と供に祭の会場近くの詰め所へと戻った。
そして、その日の夜はまともに眠る事も出来ず、悶々としたまま夜を明かし、寝床の中で何度目になるか分からない寝返りをうったところで朝になっていることに気付いた。
「ハァ……」
寝床から這い出ると、自分が昨日と全く同じ格好でいる事に気付いた。いつ誰に襲われるというのか、戦地にいる訳でもないのに装備までしっかりそのままで武器も所持したままベッドに入っていた。
『着替える手間が省けたな……』
ぼんやりとそんな事を思いながら兵舎を後にする。
非番の日だったので、とりあえず装備だけは解いて町に出た。祭の後の町は露店も片付けられ嘘のように静かになっていたが、街路樹に飾り付けが残っているところもあり未だその名残を留めている。
『どこか店に入って、コーヒーでも飲んでスッキリしよう』
昨夜の事は、祭という特殊な状況下で起きた幻のような出来事だったんだ……そう考えて、朝食の取れそうな店を探して歩く。
一晩色々と思い悩んでしまったが、柔らかな秋の朝日を浴びていると、何だか立ち直れそうな気がしていた。
『ここにしよう』
ふと目にとまった看板に”朝食セット”の文字を見付け、ラルフは一件の店の前で足を止めた。
中に入ると、ちらほら他の客の姿がある。
入口に近い席に座り、“朝食セットB”を注文した。
『もう、大丈夫だ』
温かい食事を胃に入れ、ミルクも砂糖も抜きの濃いコーヒーを喉に流し込んだとき、そう思った。
あの少女の存在自体が幻のようなものだったのだ。短い時間だったが、いい夢を見た。そう、考えられるようになっていた。
『神様、ありがとうございます。もう立ち直りました。俺は元気です』
ほぼ無神論者が、何の神に祈っているのか自分でもよく分かっていなかったが、ラルフはすっかり食べ終えた後、何かの神に心の中で手を合わせた。
支払いをすませ、生まれ変わったような清々しい気分で店を出た時、彼とちょうど入れ違いに店に入ろうとする客がいた。
「あ」
二人連れが、ラルフに気付いて立ち止まる。
「あぁ、昨日の。当直明け?お疲れさん」
二人連れのうち、一人は角と尻尾が付いた悪魔の仮装をしていた黒髪の男で、もう一人は瑠璃色の瞳の少女――ディートハルトだった。
ラルフが祈った神は悪戯好きだったようだ。もしかしたら、食前ではなく食後に祈ったのがまずかったのかもしれない。
つい今し方、祭の夜の幻として片付けたばかりの姿が、目の前に朝日を浴びて実在していた。とはいえ、今日はドレス姿ではなく黒っぽいズボンにライトグレーのシャツと、やはり無彩色に近い色の上着を羽織っている。髪も緩く巻かれた長髪ではなく、すっきりとショートになっていた。ただし、顔はそのままだ。
昇った朝日の光を受け、夜とはまた違った煌めきを宿している瑠璃色の瞳を見ると、吹っ切れたはずなのに、やはり心臓が高鳴る。
「……ど、どうも。おはよう」
ディートハルトに向かい、玩具の機械仕掛けの人形のようなぎこちない笑顔を向ける。
「怪我の具合は?」
単なる社交辞令に過ぎないのかもしれないが、気に掛けてくれたディートハルトの言葉が嬉しくて、思わず顔がほころんだ。
「ああ、大したこと無い」
こうして改めて見てみると、ディートハルトに女の子っぽいところは見た目以外なかった。ただ、だからといって男らしいかどうかと言われればそうとも言えなかったが。
「今から朝メシ?オレらは朝メシ調達して、これからエトワス君と一緒に帝都に帰るとこ。ディー君がここの店のマシュマロ入りのホットチョコとチョコチップクッキーが好物でさ。お持ち帰りしたいって言うんで来たとこなんだ」
男に戻ってもあまり喋らないディートハルトに代わり、黒髪の男――翠が色々と説明してくれるおかげで、ディートハルトに関する新情報がどんどん入ってくる。
ラルフは現実になった幻を目の前にしているうちに、だんだんと自分でも予想外の気持ちになってきた。
『別に、男でも、いい……かな?男なら次期公爵とくっつく事はないだろうし……』
と、淡い期待まで抱いてしまい、自分が分からなくなる。
短い会話の後、再びディートハルト達と別れたラルフだったが、その心中は複雑だった。
秋の黄金色の朝日が、色付いた街路樹にさらなる彩りを添えているだとか、濃く香ばしいコーヒーで気分が晴れたような気がするだとか、そんな事はどうでも良かった。
『ああああ……!!』
葛藤の渦の中へ再突入していた。
翠の親切のおかげでディートハルトのちょっとした個人情報を知ってしまったラルフは、その後、ディートハルトの全く知らないところで、随分長い間迷い続ける事となった。