確認と再確認②
扉が開くのと一緒にちらりと見えたその人の装いの一部分だけで正体が分かり、この部屋へ入ってくる一連の動きはスローモーションで私の視界を独占した。
ディレクターたちとその人が「おつかれさまです」と掛け合う声も遠くに聞こえる。
彼がこちらを見て、連鎖した周囲の人たちの視線を一身に浴びる。
ぽかんと無防備に開いた唇を閉じて、ポーカーフェイスを作る。
「お疲れ様です」
最近はもっぱら、練習生棟に入り浸っている彼がこっちに来るなんて何事だ。
「あれ、来れないんじゃなかったっすか? さっき打ち合わせが終わったんっすよ」
ディレクターたちは彼の登場にそう驚いていない。ここに来るのを知っていたかのような発言。
そういえば渡されたボーカル譜面に先生の名前があった。本来なら先生もこの場に参加する予定だったのだ。
「今やっと練習生たち見終わって……間に合うかと思ってたんですけど遅かったですね、すみません」
「まぁ、今日はただ打ち合わせだけだったし。リクPDもう上がりですか?」
「ああ、いや、俺は少しこっちで仕事あるんで」
ディレクターが「じゃあ皆んなお疲れ」と言って出ていったのを皮切りにスタッフたちもぞろぞろと後に続いた。
最後の一人が出て行ってバタンと扉が閉まる。部屋が静まり返った。
二人きりになった途端、自分が既にメイクが崩れてボロボロなのを思い出し立ち上がる。逃げ出したい。今日会えると分かっていたらどうにかマシな状態にしてたのに。
「久しぶり」
四ヶ月ぶりに聞いた声。掠れ気味だ。その声を聞くだけでも私の体温はわずかに上がる。気持ちに蓋をしていたというのに先生に一度会ってしまえば、いとも簡単に想いを溜め込み抑え込んでいた蓋は吹き飛び、溢れんばかりの気持ちが胸いっぱいを埋め尽くす。
会わないうちに想いも薄まっていった気になってたのに、全然そんなことない。
むしろ前よりも——
「帰んの?」
真正面に座った彼につられて私もゆっくりと腰を据える。
「どうだった?」
「え……?」
「それだよ、それ」
彼が指すのは手元のボーカル譜面。
「叩かれないですかね……あっちのファンに」
さっきは言えなかった本音が口をついて出る。
「もっと自信を持っていいよ。今回の新曲もすごい良かった。ソロであれだけ上手くやれてるんだから大丈夫」
彼と毎日顔を合わせていた頃とまるで違う。鋭かった眼差しや冷たかった表情も以前の尖った感じはなく、言葉が柔らかく暖かだ。そっくりさんを見ている気分。
しかし実際には、私にだけ厳しかっただけであの頃だって私以外の人が見ていた彼はこうだったんだろう。人は彼を無愛想だとは言っても、薄情とは言わない。心のどこかで、先生が本当は優しい人だと認識していた。
ようやく出逢えた本当の彼。こんなストレートに褒めてもらえるとは思わなくて、嬉し恥ずかしいような、むず痒くて落ち着かない。
「先生、別人みたいですね」
「前は頑張って厳しくしてたからな」
私の目を見て軽く微笑んだ。
そんな優しい顔を向けられたら、私は——
「リク先生……」
私は何故か、無性に言いたくなった。
先生は私が男性に言い寄られていたらどう思うのだろう。
「どうした?」
「同じ会社の、先輩から、付き合おうって、言われて」
言葉のリズムを気の迷いが乗っ取る。語句を一つ一つ細かに区切り、テーブルのどこか一点に視線を集中させながら、慎重に言った。
ゆっくりと言い切って、相手の反応を確かめるように顔を上げた。
「それ俺に言っちゃっていいの?」
困ったように少し笑って、私に問いただす。
「……はい」
「いつ言われたの?」
「二週間くらい前です」
「その時点でそう好きじゃないでしょ。少しでも本気なら即答してるはず」
確かに、もしもその相手がリク先生なら、彼を逃すまいとすぐに答えていた。待たせる間に他の子に奪われるリスクを考えて曖昧な空白期間なんて作らない。
「あと、付き合ってるうちに好きになるかもってとりあえず付き合う人いるじゃん。俺が見てる限り君はそういう心変わりがなさそう」
伊達に四年も一緒にいない。この人は案外、私のことをよく理解している。
人の好き嫌いがハッキリしていることも、一度好きか嫌いか判断したらそのあとなかなか変わることがないことも。
「あのっ、先生!」
私が彼を呼んだのと被せるように彼が口を開く。
「何年も毎日会ってたのに急に会わなくなったから、なんだか懐かしいよ。ユリの担当外れて最初の頃はあっちじゃなくて間違えてこっちのビルに入っちゃったりしてさ」
無邪気に笑う。作り物ではない正真正銘の笑顔に、心臓は跳ねる。くれる言葉も、一言一句こぼさずに掬い上げて誰も触れない所へ隠しておきたくなる。
一体どこにそんな一面を隠していたの?
「本当は今日も話したかったから、急いで仕事切り上げて来たんだ」
幻想としか思えないシチュエーションに狼狽する。
どうしよう。気持ちを再確認してしまった。もう黙ってられない。
だけどこんな所で気持ちを伝えたら非常識な子だと思われる。
テーブルに置いた携帯と資料をガバッと手につかんで、椅子が倒れる勢いで立ち上がった。その人の目も見ずに「お疲れ様です」と言ってドアの方へと足早に向かう。
まるで去年の秋にこの場所で、先生と大喧嘩した時みたい。あの時と違って別に私は怒ってるわけじゃないのに、今日もまたうまくいかない。
背後から手首を掴まれ、引き止められた。
振り返った時には既に涙がボロボロと溢れ出していた。
「どうした?」
目の前の彼は困惑している。
彼の方へ少しだけ足を踏み出して、寄りすがる。
せっかく保ってきた適度な距離を壊してしまった。
人の温もりが私を受け入れる感触は、いつまで経っても感じられない。
やっぱり駄目だった。
肩をがっと掴まれ、体を引き離される。
逃れられない状況にその瞳はゆらゆらと揺らぎ彷徨っている。
「ごめん。事務所の人とは付き合わないって決めてるから」
「私が事務所の人じゃなかったら……いいんですか?」
後には引けず、じっと見つめた。傷つくのが分かっていながら、自ら引き金を引く。彼は数秒間、眼を右往左往させてこの場の混乱を充分に味わったあと、無慈悲にも私を抱き締めた。
耳元で彼のため息が聞こえる。たった今の抱擁とは緊張感も、二人が作る数ミリの距離も、何もかもが違う。さっきよりも遠くて冷たい。
「ユリは大事な教え子だから」
漂うタバコのにおい。彼はヘビースモーカーだ。
タバコを吸う人は苦手だ。彼に恋をしてからはそんなことはどうでもよくなった。むしろ嫌いなはずのタバコのにおいがトキメキの材料へと成り代わる。それを強く感じれるほどに密着しているんだ。
そうやって簡単に私を傷つける。
気づいてるくせに、近づいたと思ったら次の瞬間に私を突き放す。
「だいっきらい!!!」
彼を突き飛ばして部屋をあとにした。
振られた。
気持ちさえ伝えれず、先手を打たれた。
シエン先輩が、刺さらない人はこっちがどれだけ努力しようとも落とせないと言っていた。先輩の正論は頭では理解できる。だけど私って幼稚でわがままだから、その理論は受け入れられない。
メンタルがズタボロの最大値まで振り切った状態で帰路につく。
深夜に一人で帰る時はいつもタクシーだ。車内の静寂のせいで傷心中の胸の痛みがより響き、涙がひっそりと頬を伝う。
外の空気を吸いたくなった私は家よりもだいぶ手前でタクシーから降りることにした。
運転手さんは私の顔をチラッと見て何かに気づいたようにハッと息を呑み、「お気をつけて」と言葉を掛けた。人が気を遣って素知らぬフリをする優しさまでもが沁みる。
私の住むマンションは大通りから少し入った所に位置する大きな公園を抜けた先にある。深夜だが大通りにはぽつりぽつりと人気があり車もそれなりに通っている。
私を降ろして走り去るタクシーの後ろ姿を見送り、深いため息をついた。
五月末だというのに昼間は初夏の暑さでも夜中は肌寒い。
サーっと吹く冷たい風にさらされ、あの人に抱き締められて上昇した体の熱もすっかり引いてしまった。
急いで帰る必要はない。ふらふらと気怠い足を引きずり歩いて、ジーンズのポケットに入れていた携帯を手にした。カカオトークを開いてちょうどその時一番上にあったデヒョンとのトークルームを開く。
【今度俺らも夏のライブに出ることになった!】
友だちであり、同僚でもあるデヒョン。
彼から、卒業式の数日後に告白された。彼とは時たま二人で遊ぶ仲で、カラオケに行ったりゲームセンターに行ったり気兼ねなく遊びに誘える間柄だった。
告白されたあの日も二人で出掛けていて、その日は一日を通してデヒョンが妙に静かで体調でも悪いのかと思ったら帰り際にひと言、好きだ、と。随分と長い間想いを募らせ、卒業を機に告白するつもりでいたことも打ち明けた。
最初から好意には気づいていた。親友たちにはデヒョンのことを「弟みたいな子」と説明しながら、全部知っていた。彼を男として見れなくて、鈍感を装った。あと一歩は寄せつけないよう予防線を張っていたが、相手は先を望んでしまった。
告白は、彼のデビューまでの道を邪魔をしたくないとの理由で断った。
本当は全然興味が無かっただけ。でも妥当な理由で振ったほうが彼を失わずに済む。こんな時のためにもああいう理由をつけといて良かった。
彼の報告メッセージには適当に返して、その後に【会いたい】と続けた。
すぐさま既読がつく。
【俺も会いたいけど、どうしたの?】
私の返事も待てず、電話までかかってきた。
通話ボタンを押す。彼は電話越しでも分かるくらい浮かれた調子の声色だ。
「なに急に、何かあったの?」
「ううん、ただ会いたくなっちゃったの。ごめんね、私の方からデヒョンは練習生だからって断ったのに」
「そんなことない。俺のためを思って断ったんだろうし…でも、会いたいって言ってくれたのすごく嬉しい」
振ってからは一度も会ってない。変な期待を抱かせないためにも会うのは控えた。しかし、リク先生がデヒョンを含めた練習生たちの担当に就任したことにより、以前に増して私たちの共通の話題が増えた。彼の相談相手は私しかいないため連絡は絶えず取り続けた。返信の速さや言葉の端々から、彼の気持ちが変わっていないことは明白だ。
「だけど俺、ユリのこと友だちとしては見れないよ」
「私たち、もう友だちはやめよっか」
「えっ、それって————」
別に、先生への仕返しのつもりなんかじゃない。
デヒョンのことは大事に思ってる。
でも、当てつけのつもりは微塵もないかと言うと嘘になる。
これで何かが変わるわけじゃないのに。