幼馴染
「お邪魔しま~す」
卒業式の翌日、うちにやってきたジウォンとチョルス。
「うわ、部屋めっちゃ綺麗。広くなったね」
一週間前に引っ越したばかりの新居に最初に招いたお客さんたちは興味津々で部屋を見て回っている。
高校進学とともにひとり暮らしを開始した。仕事柄早朝に出て行き真夜中に帰ることが多い。実家だと両親の生活リズムを乱しかねない。家を出てすぐにデビューしたとはいえ、韓国アイドルの宿命である精算システムのため数年間は無給だった。
精算とはデビューするまでの練習生期間にかかったレッスン費用など会社が投資した額を、デビュー後に稼いだお金で決済して、それが全て完了したらようやく初めてのお給料を貰えるシステム。
うちの事務所は先輩たちの功績のお陰で、私もデビュー初期からそれなりに注目された。だから精算も思っていたほど長くは待たず、昨年の夏に無事に初めての給与を受け取った。家賃は学生の間は両親に出してもらっていたがこれからはいち社会人として自分で支払う。
卒業を機に新しい家に引っ越した。前よりも良い家だ。オートロックでセキュリティーもしっかりしてるし、なんなら誰かと同居できそう。慣れ親しんだ家ともお別れして新居の片付けも終わり、広々とした見慣れない空間に若干の寂しさを感じていたところに親友たちが来た。
年末から今に至るまで私は音楽祭や授賞式で、二人も卒業後の進路準備で忙しくしていた。
家でこうやってチキンやジャジャン麺を囲みながらわいわいするのはいつぶりだろうか。そして今日、三人で人生初のお酒を呑む。きっと同級生たちも今頃呑んでいる。
韓国は19歳を迎える年の1月1日には飲酒解禁だが高校生の間は原則として呑まない。
チョルスは酒豪家系だそうでお酒を呑める日を今か今かと待ち望んでいた。今年の年明けにジウォンとチョルスと3人で「卒業したら絶対一緒にお酒呑もうね!」と誓いも立てた。
二人が買ってきてくれた数種類のビールとマッコリ。チョルスがテーブルの上の缶ビールを手にとって、タブに指をかける。
「待って!」
「何!」
ジウォンは妙に緊張した面持ちで携帯を彼のほうに向けた。記念すべき初のお酒、動画を撮るようだ。レンズを向けられたチョルスは私を見て、次にジウォンを見て、頷いた。
「……開けます」
なんだろう、この緊迫感のせいで合法なのに悪いことをしているみたいだ。大きく息を吸ったチョルスはじんわりと指の腹でタブを上げる。タブが上がっていくのを食い入るように見つめて、缶がプシュッと音を立てた瞬間に3人でお互いに拍手を送った。チョルスが「いや〜おめでとうございます〜」とヘコヘコしながらジウォンのグラスにビールを注いだ。
「君たちも呑みたまえ」
今度はジウォンが彼と私のグラスに注ぐ。まるで接待中の上司と部下だ。二人ともまだシラフなのにテンションだけは深夜帯に突入している。
「私たちピュアすぎるでしょ」
口ではそう言いながら私も普段より調子づいている。幸せだ。些細なことも魔法をかけるように大きな幸せに変えるジウォンとチョルスは凄い。
乾杯をして初めて口に含んだお酒は苦味だけしか感じなくて、私の舌にはまだ早すぎたみたい。
目の前のチョルスとジウォンも味を表現する言葉が見つからず2人して首を傾げ、斜め上を見ている。
「案外美味しくないね」
ジウォンはちょっぴり残念そうで、他のお酒をトライしようかと言い出す。
「無理して慣れるもんじゃないよ」
新しく知った味を美味しいと思えるようになったときには、もう二度と戻れないだろうにね。
不味いな。そう思いながらもチビリチビリとグラスに口をつけて、今しか味わえないこの苦味を味わった。
「昨日の卒業式、デヒョンくんのファンすごかったね。まだデビュー前なのに」
ジウォンは感心したように呟く。彼女は実はデヒョンの隠れファン。本人に紹介しようかと何度言っても「カッコ良すぎて無理」とキッパリ断られる。練習生をしているチョルスにも紹介するつもりでいたが彼もジウォンと同じ理由で断った。デヒョンとチョルス、いつかデビューして知り合うだろうから先に仲良くなってても良いのにデヒョンってそんなに近寄り難い男なのか。
「同じ練習生でも俺とは大違いだな」
チョルスにだって密かにファンが数名いる。芸能人らしさってものはまだ薄いかもしれないけどチョルスもそれなりに目立つ。少し自信なさげなチョルスの肩をジウォンがバシッと叩いて笑った。
「あんただって私からしたら立派な芸能人よ」
「は、突然褒めんな。照れる」
「照れんな、照れる」
可愛い会話にクスッと笑った。ジウォンはおそらく、チョルスのことが好きだ。彼女自身もまだ気付いてないけれど、チョルスと話してると乙女の顔をしている。本心にも気づかないところがまるで青春映画のようで微笑ましい。正直私は黙って聞いているだけで満足だ。
繰り広げられるやり取りを傍観しているとジウォンの体が突如私のほうへと向けられた。
「ねぇ、あのさ......シウオッパに会いたくないの?」
彼の名前が出てどんな顔でその台詞を受け止めるべきか、混乱し固まった。
「付き合ってたんでしょ?」
シウと仲違いして数ヵ月間、ジウォンは何も言わなかった。気づかないでいてくれるならずっとそのままで、と思っていたがそうではなかったらしい。
「気づいてたんだけど言わない方がいいかなって、でも、流石にもう知らないフリしてるのもおかしい気がして」
彼女は乾杯して一口呑んでから全く手をつけていないグラスを傾けてビールをゆっくりと揺らす。視線の先もまだたっぷりと残っているビールに置いたまま、彼女のいつになく気を遣っている表情に申し訳なくなった。
「ごめんね、気遣わせちゃって。でも付き合ってはないの」
「え?そうなの?」
張りつめた空気がパチンと弾けたように手の動きを止めて私の顔をまじまじと見る。
「ほら〜言ったろ?あの感じは周りは勘違いするって」
「幼馴染みってあんな感じが普通だよ。ごめんね、変に勘違いさせちゃって」
嘘をついた。
本当は付き合っていた。私が高校に入ってから数ヶ月間。付き合い始めたのも突然だったが終わりはもっと突然だった。
ある事件が起きて、罪悪感に苛まれた私は今すぐに別れたいと言い出した。彼はすぐには納得せず、「別れないなら連絡先をブロックする」と言ったら渋々別れてくれた。
ジウォンやチョルスと親しくなっていく途中で既に別れていたけど、幼馴染に戻ったあとも毎日連絡を取り合う仲だったためシウを二人に紹介して、四人で仲良くなった。
私とシウの距離感は側から見たら付き合ってるようにしか見えないそう。別れを選んだものの結局彼に甘える癖は治らず、ただの友だちとは言えない関係になってしまっていた。別れた意味を問われる度に本音を告げることはせず流すばかりで彼を遠くへは行かせなかった。そうなると当然相手はヨリを戻したがる。私にとっては彼を“好きな人“として見ることが難しかった。
彼を見るたびに罪悪感で押しつぶされそうになり現実から逃げ出したくなる。
その反面、彼が他の女の子にとられたらと思うと焦って、ずっと首輪をつけていた。
彼を縛りつけながらも私の心の主は、ずっと他の人。
私にはシウともう一人、幼馴染がいた。
シウの弟のパク・ソヌ。私の初恋の人。
ソヌは私と同い年で、好青年な見た目のシウとはあまり似ず、ヤンチャなルックスだ。高二で188cmにまで成長していたシウと違ってソヌの身長は高一の時点では170cmの私とあまり変わらなかった。
もう何年も見てないから、もしかしたらシウと同じくらいに身長も伸びているかもしれない。
彼が家を出ていってから二年半が経つ。
どこで過ごしているのか、何をしているのか、全く知らないし連絡先さえも知らない。
知る資格も、会う権利も無い。
こうなったのは全部私のせいだ。
シウは優しいから、誰のせいでもないと言うけど彼らのお母さんはソヌが消えてからひどく心を病んだ。
心の陰を隠しつつ無理して笑顔を見せるその姿に私も追い込まれた。
ソヌが知らぬ間に高校を自主退学、家出して遠くに離れていったのはその当時も、いや、今でも私にとって人生で一番辛いこと。この先もずっとそれは変わらないんじゃないかと思うくらい。
「付き合ってないにしてもシウオッパはユリのこと好きだったじゃん」
ジウォンは途端にあの人の話しかしなくなった。この数ヵ月間、ひとりでずっとあれこれ考えていたのだろう。
「それは幼馴染みとしてね」
「わざわざユリの誕生日まで待って留学したんじゃん。好き以外ないでしょ!」
シウの二年間の留学が決まって、この先二年は会えないと知った去年の七月。しかもその一ヶ月後、私の誕生日の翌日には出発で、急すぎる展開についていけず怒りを彼にぶつけた。初恋の人の代役だったはずがいつしかそばにいてくれないといけない人になっていた。
いつかは離れなきゃと思ってたし、近いところにいる限り離れられなさそうだったから彼が勝手に遠くに行く決断をしてくれていて助かったとも思った。
ニューヨークで生まれ育った彼らが韓国に来て慣れない土地で暮らし始めた頃に、私のママが先生として働いていた韓国語学校に兄弟でやって来た。
初めて見た時からソヌのことを好きだった。いわゆる一目惚れ。
八歳の私にとって初めての経験だった。もう十年も経つのに初めて会った日のことを覚えてる。
その日は偶然私が家の鍵を忘れて小学校からそのまま母親の仕事場に行ったため、その兄弟と出会うことになった。彼らの家と私の家が目と鼻の先な上に母親同士が意気投合し、仲良くなるきっかけができた。
シウは年上だが、韓国に来たばかりで韓国語もよくわかっておらず私に「シウって呼んで」と言った。本来なら必要な“オッパ“を付け忘れたのだ。この国だと年上を呼び捨てするのってすごく無礼なこと。私は当然同級生だと思い込んでいて、母から「ソヌくんは同い年だけどシウくんあなたの二つ上よ」と言われるまで知らなかった。彼はそのままでいいと言った。それからもずっと呼び捨てだ。
アメリカ育ちの彼らは兄弟でありながら同い年の友達みたいなフランクな関係で、私も仲間に入れてくれて親しくなっていった。
私は小さい頃から人見知りだし引っ込み思案で人付き合いが得意な方ではない。人と長時間一緒にいるのも苦手で練習生時代に宿舎に住む子たちが大半な中、実家に住み続けた。
彼らは私を理解してくれた。自分の家に帰るようにして彼らの家を訪ね、話したいことを話すためだけに数分だけ一緒にいて満足したら帰る、みたいなこともよくしていたしそれを受け入れた。
二人にはわがまま言えて居心地が良くて、正直親よりもよっぽど私のことをわかってる。
中学生の頃、シウやソヌ程まで親しい友達は全くできなかった。友達ができないというより練習生だったせいか妙に浮いていた。そんな私に対してソヌたちは友達作れなんてこと言わずに、むしろ「大親友がここにいるからいいじゃん」と言った。
それで満足だったはずなのに、馬鹿な私はその先を求める。自らの手でぶち壊した。親友を、そして好きな人を失って、安定していたように見えた三人の関係性は互いの我慢があってこそバランスを保っていたのだと知る。
唯一の親友を失って少し経った頃、ある女の子が教室で声をかけてくれた。あれは初夏。私は入学直後にデビューして音楽活動が一ヶ月続いたためクラスメイトが学校に馴染んでいる中、輪に入っていけず一人でポツンと佇んでいた。バリアが張られたみたいに人が近寄らない。しかしその女の子だけは違った。
「ずっと来てなかったでしょ。ノート見る?」
後の親友、ジウォンとの出会いだった。すぐに打ち解け、彼女の隣の席のチョルスとも仲良くなり一緒に過ごし始めた。私とチョルスは勉強をする時間がなかったため、シウを紹介して家庭教師を頼んだ。前の家は四人での思い出がたくさんある。過去はすべて、あの家に置いてきた。
「シウヒョンが前に、元カノが一人いるとだけ教えてくれたんだよ。どんな人か知ってる?」
平然を装い、二人のグラスの残量を確認する。知らないなぁと気のない返事をすると同時に、ジウォンに飲み物は何がいいかと尋ねることで彼らの注目を分散させる。彼女はそれ、と私のそばにあるいつものジュースを指す。いろんなお酒に手を出していたがやっとストップをかけた。
「絶対に超美人だよ。じゃないと釣り合わないって」
ペットボトルの蓋を開けて、注ぐ。彼女はコップに手を添えて、液体が注がれるのを見つめている。注ぎ終わったら「ありがと」と聞こえるか聞こえないかの声でぼそっと呟き、続け様に「ユリもそう思わない?」と本題の同意を求めた。
「どうだろうね」
反応を小さく、はぐらかした。
「ヒョンかっこいいもんなぁ」
シウは小さい頃から本当に綺麗な顔をしてる。おまけに今では高身長だしスタイルもいい。
芸能界にスカウトされたことも、なんならうちの事務所のスカウトマンから声をかけられたことまである。
「シウオッパとユリ、本当お似合いだと思う」
自信ありげな口調と真剣な表情。隣のチョルスもうんうんと深く頷く。
「テキトーなこと言って」
「本当だよ、オッパにはこんないい匂いするお姉さんがお似合いでーす」
ジウォンが向かいからこっちに移動して、私に抱きついた。
「ユリ今日いい匂いする。香水?」
「あ、うん」
少し照れて、俯いた。
リク先生からのプレゼントは香水だった。
初めての贈り物が香水ってちょっと意味深。私を幼いだとかガキンチョだと言ってる先生がこんな素敵なものをくれるのが不思議だった。私たちの関係が今までとはほんの少しだけでも変わった気がして、淡い期待を抱いてしまう。
シウとはほぼ縁が切れたも同然。私の悪事を何も知らない人と出逢いたい。
「私、そろそろ彼氏作ろっかな」
「えっ、恋愛宣言?」
「だってもううちら大人だよ?」
「良い人見つけたらちゃんと教えろよ! 隠し事無しだぞ!」
深夜零時。
部屋の片付けを終えようやく一息ついた。今日三人で撮った写真や動画が共有フォルダにアップロードされている。ソファーに寝転がってそれらを見返す。横へスクロールしても尽きない。一度遊ぶだけで膨大なカット数、一体何ショット撮ったのだろう。瞬間的なブレのある写真が表示されて声に出して笑った。業務の如く指を画面の上で滑らせて、今日の思い出を巡る。
画面上部に一件の通知が現れて指が止まる。先生からカカオトークの返信がきた。咄嗟に横たわっていた上体を起こす。
前日の夜にプレゼントに対してのお礼を送ったのに対してほぼ一日経っての返事。たった一言【よかった】だけ。
担当だった頃は数時間以内には返信があった。あの頃は優先順位が高かったのだと気づく。
私のことなんて今は本気でどうでもよさそう。
リク先生ってもしかして誰にでも香水あげる人なのかな?
お酒のせいかいつもよりも大胆な私は彼に尋ねた。
【先生ってこの香水の匂い好きなんですか?】
彼からすぐに返事がくる。
【いや、別にそういうわけでもない】
なんだ、それ。先生のことだしそんなことだろうと思ってた。どうせ私の知らない女の人にオススメされたものなんだろう。先生は事務所以外での交友関係があまり見えないしよく知らないけどモテないはずがない。彼女だっているかもしれない、いや、それにしては女心に無知すぎる。
先生、筋金入りの鈍感だからこの際はっきり好意を見せようか。私がアタックしても周りに言いふらすような真似はしないと思う。
【先生って彼女いるんですか?】
四年も一緒にいたのに一度も聞かなかった事。以前は全くもって興味がなかったし、好きになってからは聞けるわけもなかった。でもこの際、彼女がいると分かった方がしっかり諦めがつきそうだから。
返事が来た途端、内容は確認せずに一度画面を伏せて大きく深呼吸した。
先生に彼女が居ないわけない。お願い! もういっそのこと長く付き合ってて同棲してる彼女が居るとでも言って!
目をぎゅっと瞑ったまま携帯を表に返してゆっくりと片目ずつ開く。
【ずっとひとりですけど?】
返事を見た瞬間「はぁっ、よかったぁ〜」と躊躇なく口に出していた。心の底からの安堵の声が漏れ出て、自分の本音が溢れる。
こうなったら全部聞いてしまおう。
【好きな人もいないんですか?】
【おらん】
【先生ってどんな人が好みですか?】
【好みとか無いな。好きになった人が好き】
勇気を出して聞いたのになに一つヒントは貰えず。
【むずかしい人ですね】
なんて可愛げのない返しで終わらせた。