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卒業③

 先生がおもむろに私へと近づく。

 どきり、身体は妙に硬直する。紛れもなく立派な背丈をほんのちょっと小さくした。


「おめでとう。これ卒業祝い。」

 彼が不自然にうしろに隠された左手を出す。手には紙袋が握られている。イヴ・サンローラン。漆黒のマットな素材にゴールドの大きなロゴマークが鎮座する。同じビジュアルの紙袋を貰ったことはあっても送り主が違うだけで格別の輝きを放っている。

 戸惑い、真隣の人に展開を委ねた。先輩は組んでいた肩から腕を下ろし、後傾気味の私を先生の方へ押し出す。反応を返すよりも先に受け取りながらこのウソみたいな状況に「へ?」と腑抜けた声を出した。

 

「わ、私にですか?」

 ぶっきらぼうに「おう」と呟きそっぽを向く先生。

 先輩たちの冷やかしが廊下に響く。

 

「なんだよ、お前。自分からユリをここに呼び出してほしいって頼んできたくせにそういうことだったのかよ。照れ屋だな〜」

 先輩の暴露にも先生は動じない。私の心臓は次から次に押し寄せるビッグウェーブを乗りこなすのに必死だと言うのに。

 

「俺が呼び出すとまた怒られるって勘違いするだろうから、ヒスヒョンに頼んだんだよ」


 事務所の人間の中で先生と一番親しいのが数秒前まで私の側にいたヒス先輩だ。先輩から連絡がきた時も珍しいなとは思ったがまさかそれがリク先生の頼みだったなんて。約束を取り付けた時も先生と会える可能性を出来る限り考えないようにした。そうじゃなかった時に落ち込むから。

 私は喜びを堪えられるわけもなく自然と顔中の筋肉が一気に緩む。溢れる笑みは隠さない。

 

「嬉しいです! ありがとうございます」

 照れている場合じゃない。彼の目をしっかりと見つめてお礼を伝えた。しかし先生はたった一言「うん」と返事をしてまるで何事もなかったかのようにいつものスンとした表情だ。

 

 先生の反応の薄さに違和感を抱く。このプレゼント、紙袋と中身が違うなんてことはなかろうか。はじめは私を少しでも女だと認識してくれていると思い込んで舞い上がった。しかし冷静に考えて先生がそんなセンスがいいものを選ぶわけがない。ひょっとして私の好きな袋麺詰め合わせセットなんじゃないか。ぬか喜びした自分が恥ずかしい。中身を知るのがこわい。本人にこれは何ですかと聞く勇気はない。この紙袋に感情のバロメーターを操作されている。

 それを握った腕をパタリと下ろし、同時に緊張感も解いた。


「リクヒョン相変わらずクールだね」

「もう仲直りしたのか?」

「仲直りのプレゼントじゃない?」

 対面する私たちを好きなだけ観察して満足した彼ら。一人が喋り出せばカットの合図がかかったみたいに全員喋り出す。彼らが言っているのは数ヶ月前の話だ。


 仲直りなんて、ない。先生にとってはただ教え子を叱っただけ。そもそも彼は私との間柄で喧嘩など起こり得ないと思っている。喧嘩できるほど仲が良ければまだいいのにな。


 プロデューサーである彼はこの事務所に二十歳の頃から籍を置き作曲家として働き始めた。

 歌手デビューしてないのが不思議なほど歌唱力があり、アーティストに聴かせるためのデモ音源に歌声を吹き込み私たちのお手本とも成る。

 噂によれば高校生の頃にはすでに作曲者として他の大手芸能事務所に所属していたんだとか。そんな彼をプロデューサーとして育てたかった事務所が試験的にソロアーティストのデビュー計画を練った。その被験者こそ、私だった。

 

 彼と初めて会ったのはデビューする一年前。二〇一〇年デビューのガールズグループとデビュー数ヶ月前まで準備を一緒にしていたにもかかわらず最終的に私はメンバーからは外された。事務所からは「まだ若すぎるから」と言われたがおそらく私の力不足が理由だった。彼女たちのデビューと同時に私は新米プロデューサーと出会う。一年の準備期間を経てデビューした。

 私はもちろんデビューも何もかも初めてだが先生にとっても“プロデュース“は初めて。事務所から力量を試されるているため、彼は過酷な指導を施した。他の人にとって作曲家であり指導者ではない彼が唯一厳しい目を向ける相手が私だ。


 万人に対してクールな先生。私にはクールというより冷酷。手厳しい人だが良い成績を取ったとき、初めて音楽番組で1位を取ったとき、前よりもステージパフォーマンスが上手くなったとき、口数が少ない彼なりに褒めてくれていつしか彼にもっと認められたいと思うようになった。恋というか、たぶん承認欲求でもある。

 でもそれとは別に先生ってどんな人と恋愛をしてきたんだろう、この歌は誰を想って書いたのだろう、もっと彼の人間らしい部分をみたいと思うようになった。恋心なのかナニゴコロなのかはっきりしない気持ちを持ったまま一緒にやってきた。

 

 そんな私たちに不和が生じたのは去年の秋。彼が春から次期ボーイズグループの担当PDプロデューサーになるため、私の担当を降りると告げられた。いつかこんな時が来ると分かっていながらも、心構えができていなかった。

 本気で好きになる前に離れられてよかったのかも。彼と会えなくなるのを悲しがってはいけない。何度も頭の中で繰り返して自分を納得させる。

 それを知らされたとき、精神的に落ち込んで仕事へのモチベーションが下がった。私の変化にいち早く気づいた彼はひどく叱った。

 

 何か苦言を呈す時、声を張り上げるタイプではなくいつものトーンで淡々と私を責め立てる。

 ある日のレコーディングスタジオで録音中、先生に「ちょっと出てこい」と言われた。ブースから出たら先生は腕を組んでテーブルにもたれかかっていて明らかに不機嫌だ。

「色々あるだろうから見守ろうと思ってたけどさすがにだらけすぎ。もう一ヶ月は経つぞ。なんだ? さっきの歌。俺じゃないど素人が作った歌かと思った」

 その日は朝から学校へ行ってきて制服のままだった。収録、レッスン、学校を一週間繰り返して充分に疲れきっていた。堪えようとスカートをギュと握りしめる。すみません、と言いかけたところをすかさず

「謝罪は要らない。集中できないならもう帰れ。いつか戻ると期待してたけどまだお子ちゃまだな。初心を忘れるには早すぎる」

 トドメを刺された。

 自分が惨めで何も言わずにスタジオから飛び出す。すぐそこには休憩所フロアが広がり、人を回避してエレベーターに逃げ込むことも許されない。顔を上げなくともそこに誰かがいるのが分かった。ガヤガヤとしたざわつきはしっかりと耳に届く。誰かと顔を合わせるのも嫌だから小走りでそのまま外へ出ようと思った。それなのに後ろから追ってきた悪魔は珍しく大きな声で私を呼び止めた。

 立ち止まって斜め四十五度、ゆっくりと振り向くと彼は私のリュックを押し付けた。

 

「帰れ」

 内心、引き止めにきたじゃないかと期待した。こちらの心情など気にも留めない表情を見て気抜けた私は彼の方へ振り返る。彼と親しい人はよく彼のことを“目が死んでる“と表現しているけどまさしくそんな感じだしおまけにその日は顔も死んでた。先生も新しいアルバムのための準備で毎晩遅くまで仕事をしている。怒られても当然だ。

 

「先生……」

 少しずつ冷静さを取り戻し、彼へ次にかける言葉を時間をかけて選ぶ。

「自分に対してイラついてるなら戻れ。ここで帰ると後悔するぞ。俺に対してイラついてるならさっさと帰れ。あれくらいで拗ねてるようじゃまだ半人前だ」

 言葉が過ぎるけど言ってることはなんら間違ってなくて余計にカチンときた。送迎をしてくれるマネージャーには何も言わず、黙って帰宅した。

 その日の夜にヒス先輩から【あんまり口出ししない方がいいのかもしれないけどさすがに人前でああいうことはするなってリクにもちゃんと注意しといたから】とメッセージがきた。あの時に居合わせていたのはスパボのメンバーだったということが判明した。


 その場では取り乱したが自分の幼稚さに嫌気が差した私は翌日には先生に謝りにいって普段通りの練習を始めた。彼は申し訳なさそうな顔をした。あの直後、スタジオでの言動をスパボのメンバー達に説明したら皆んなから「それはないよ」と呆れられたそう。彼は「ごめん。女の子の扱いはうまくないんだ」って珍しく困った顔をして謝った。先生が女慣れしてないことにちょっと喜んだ自分もいた。


 そんなことが数ヶ月前にあってからというもの、私と先生が絡んでいるだけで「おっと〜? おふたりさんはまた喧嘩ですか〜?」とからかわれる。それどころか“ユリの初恋はリクPDだ“なんてヒヤヒヤするジョークがいつの間にかできていて存分にいじられる。

 

「ユリ、恋愛するにしてもヒョンみたいなのには気をつけてね」

「あれだけいじめられててマジで好きなら相当なドMだろ」

 私は相当なドMかもしれない。もちろん叱られるのは嫌だけど、あれだけ叱られても嫌いにならないって絶対その気質がある。

「いや、先生は百パーないわ」

 怪しまれないよう、必死で嘘をついた。

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