第九話
父が立ち去った後、私は風呂に入るように言われた。気がつけばひどく体が冷えていた。
湯船に浸かりながら思う。もうこのまま父に会えないのだろうかと。
父と祖父の和解は絶望的に思えた。かつて2人の間に何があったのか定かではない。
しかしあのやりとりを見るに、何があっても埋められない溝があるように思えた。父と私だけがたまに会うことだって、祖父はいい顔をしないだろう。
ならば今日のように内緒で遊びに行けばいいのか。
いいや、そんなことをすればまた心配させるだけだ。今日祖父母が見せた青ざめた表情を思い出すと、とてもそんなことできそうにない。
「じいちゃんとばあちゃんに謝らなきゃ」
きっと怒られるだろう。憂鬱ではあるが、覚悟しなければならない。しかし、私が風呂から上がると祖父は居間にいなかった。
「じいちゃんはもう寝たよ」
1人テレビを見ていた祖母が言う。時計を見るともう10時になっていた。
もうこんな時間なのか。心配されて当然だった。
「ばあちゃん」
「うん」
「ごめんなさい」
せめともと思い、私は祖母に謝罪した。頭を下げる私に祖母は優しい口調で問いかける。
「今日、お父さんとどこ行ってきたん」
「えっと、競艇と焼き鳥屋さん」
「そう。楽しかったんか」
「え、うん」
怒られると思っていたので戸惑った。
「じいちゃんも競艇好きでな、お父さんが子供の頃はじいちゃんとばあちゃんとお父さんの3人でよお競艇見に行ってたんや」
「えっ」
初めて聞く話だった。
「帰る時、じいちゃんが賭けで勝ったら焼き鳥屋。負けたらラーメン屋って決めてたんや。今日焼き鳥屋行ったってことは、勝ったんやろ」
「うん。僕の予想が当たったんだ」
「そうかそうか、あの子覚えてたんやな」
祖母は懐かしそうに笑った。
「今日お父さんと過ごせて楽しかったんか」
「楽しかったよ」
「そうか、ならええよ。じいちゃんは怒ってたけどな、ばあちゃんはかっちゃんがお父さんと仲ようしてくれたら嬉しいわ。黙って出かけられると心配するけどな」
「ごめんなさい」
「もう謝らんでええ。疲れたやろ、今日はゆっくり寝や」
祖母の言葉に従い、私は部屋に上がって寝床についた。
車の中で眠ったせいか、はたまたその日の興奮が冷めやらぬせいか、なかなか寝付けなかった。
布団の中で考える。本当に父とはもう一緒に暮らせないのだろうか。何か方法があるのではないか。
父と祖父の和解は絶望的だと思ったが、本当にそうなのか。祖母の話を聞く限り、父は祖父母と一緒に過ごした思い出を忘れていないのは間違いない。ならば、その頃のような関係性に戻れるのではないか。
子供である今しかできない事がある。先生の言葉を思い出す。これが子供の私にしかできないことではないか。
父と祖父、2人の橋渡しを私ならできるのではないか。
具体的な方法をあれこれ考えていると、却って目が冴えて眠れなくなった。
眠ることができないまま布団にくるまって数時間、外から車の音が聞こえてきた。そして車の音は家の前で止まる。
松さんだな。私はそう考えた。
それからすぐガラガラと玄関の開く音がした。どうやら祖父と松さんが除雪に出たようだ。
祖父が帰ってきたら一度話をしよう。黙って出かけて心配させてしまったことを謝って、父と仲直りできないか話してみよう。
そんなことを考えていると、ようやく眠気が襲ってきた。
窓の外が明るい。
私は目を覚ます。
しかし違和感を覚える。カーテン越しに見える朝の光はこんな色だったか、と。
胸騒ぎを覚えた私はカーテンを開けると、空はまだ暗い。だが遠くに見える地面から空に向かって赤い光が伸びている。
それが燃え盛る炎だと気づくまで時間がかかった。
呆然とその光を見つめていると、消防車の低いサイレンが聞こえてくる。
燃えたのは、祖父の会社の作業員が使う休憩所、そして付近に停められていた一台の車。
休憩所の焼け跡からは二つの遺体が見つかった。
そのうち一つは、父だった。