第七話
さらに車を走らせること少し。ようやく父の目指していた場所に辿り着いた。
「ここや」
駐車場に降りると吹く風がひどく冷たい。目の間にはコンクリートでできた見渡す限りの大きな建物があった。
競艇場だ。
「行くぞ」
私は慌てて父の後をついていく。
建物の中は暖かく、随分と人が多かった。大人の男性ばかりだった。子供は1人もいない。全員目をぎらつかせて奇妙な熱を纏っているように見えた。
私は心細さから父の服の裾を掴んだ。
父は売店で新聞を買うと、壁に寄りかかって読み始めた。私はその間なにをしていいのかわからず、ただ場の空気に飲まれてキョロキョロと周りを見渡していた。
しばらくすると急に父が歩き出す。追いかけると機械の前で財布を取り出した。
「ここの券売機で舟券を買うんや」
父は私に説明しながらお札を数枚入れていく。
券売機から出てきたチケットを大事そうに胸元にしまうとまた歩き出す。
父が向かったのは観覧席だった。
「うわあ」
思わず声が漏れる。
ずらりと並んだ座席に、壁一面の大きなガラス。
そのガラスの向こう側に見えるのは一瞬海かと思った。それが視界を埋め尽くすほど大きなレースの舞台であることに気づくまで少しかかった。
レースが始まろうとしていた。カラフルなユニフォームに身を包んだレーサーが船を操ってゆっくりとコースを周る。
大きく外側を走る船が速度を上げる。内側を走る船はまだゆっくりと走っている。
「え、遅れちゃうよ」
思わずそう漏らす。
「あれは助走や。あのポール見てみ、みんなあそこでピタッと一直線になってスタートするから」
直後、父の言った通りの地点で全ての船が綺麗に並んだ。そして水面に白い線を描きながら猛スピードで走り出した。
その迫力に目を見張る。
エンジンの音がガラスの壁を超えて伝わってくる。
コーナーを曲がる瞬間なんて、船同士がぶつかりそうに見えて思わず悲鳴を上げてしまった。
きっちり3周。長いようで短いレースが終わった。
「ああ、クソ。外した」
父が悔しそうに天を仰いだ。
周りを見ると、同じように悔しそうな呻き声を上げる人、歓声を上げる人たちなど様々だった。
「奥にモニターあるやろ。今のレースの順位がでとる」
父が指差す方を見ると、モニターには1−3−5と出ていた。
「あれが1−3−6やったら俺が勝ってたんや。もうちょいやったんやけどな」
父は先ほど買ったチケット破り捨てる。
「次や次。舟券買いに行くぞ」
そうやって、舟券を買ってはレースを観覧するというサイクルが続いた。
しかし父の買った舟券はただの一度も当たらず、父は外れるたびに悪態をついた。
「今日は全然ダメやな。全くついてない。新聞の予想も全部ハズレや」
父は新聞をゴミ箱に投げ捨てた。ガシガシと頭をかきながらため息をついた父は、ふと私の方を見て考え込む。
「勝彦。なんか適当な数字言ってみ」
「えっ」
「子供の勘のほうが当たるかもしれん。お前に賭けるわ」
「えっと」
困惑しながら考え込む。そして、ある数字を思いついた
「じゃあ2−1−3で」
「2−1−3。2か。2が1着か」
おそらく勝つ見込みのない数字だったのだろう。父は唸りながらも、券売機で舟券を買った。
「ほれ、勝彦」
父はなぜか私に舟券を渡してきた。
「ちょっと、タバコ吸ってくる。お前がこのレース見とけ」
そう言って父は裸の千円札を握らせてくる。
「売店もあるし、飯食うとこもあるからな。俺が戻るまで適当に時間潰してろ」
「え、ちょっとーー」
父は私の返事をまたずに去っていった。
その背中を呆然と見送った私は、慌てて舟券とお金をポケットに入れた。
1人残された私はどうすればいいかわからず、とりあえず賭けたレースの結果を確認するために観覧席に戻る。1人ポツリと席に座り込む。どうにも落ち着かない。
心細さを紛らわせるため、父が買ってくれた舟券のレースに集中した。
「2−1−3、2−1−3」
口の中で自分が決めた番号を何度も呟く。ポケットに手を突っ込んで舟券がしっかり手元あることを確かめた。
レースが始まった。
2番の船は大きく出遅れた。1番と3番も後方に位置している。
これはやっぱり負けたかな。
そう思ってレースを見ていた終盤、先頭を走る5番と6番がコーナーで大きく膨らむ。後ろから追い上げてきた2番がその隙間を縫うように進み、さらに1番と3番が続く。
周りからは悲鳴が聞こえた。
私はポケットの中の舟券を握りしめた。心臓がバクバクと音を立てている。
レースはそのまま2−1−3で決着。
その順番で船がゴールラインを超えたとき、私は思わず立ち上がり歓声を上げてしまった。
周りを見渡し、父の姿を探す。父もこのレースを見ていただろうか。
しかし父の姿は見当たらず、私はこの感動を共有できない寂しさに肩を落とした。
それからしばらくの間、私はレースを見て時間を潰した。
レースは面白かった。子供ながらにどの選手が勝つか頭の中で予想を立て、当てずっぽうではあるが何度か1着を当てることができた。
だが当然、2−1−3を当てたときのような興奮はない。次第に飽きてきた私は父を探しに観覧席を立った。
競艇場は想像していたよりもずっと広い。壁に掲げられた館内マップを見ると、喫煙所だけで4箇所もあった。
ひとまず私は一番近くの喫煙所へ向かう。
透明な仕切りで区切られた喫煙所は人でいっぱいだった。外までタバコの匂いがしてきそうに思えた。父の姿はなかった。
続いて2番目に近い喫煙所に向かうが、そこにも父はおらず、館内全ての喫煙所を回ったが、父は見つからなかった。
歩き疲れた私は館内の食堂で休憩をとる。
「いらっしゃい、坊や何にする」
「えっと、じゃあソフトクリーム」
「はい。少々お待ちください」
人の良さそうな女性の店員に父からもらったお金を渡し、ソフトクリームを受け取る。
お釣りをポケットに突っ込んで人の少なそうな席を探した。周りが大人だらけのせいで、子供の私がここにいるのは場違いな気がしていた。少しでも目立たない席に座りたかった。
壁際に人気のないカウンター席があったのでそこに座る。椅子が高くて足が宙に浮いていた。
冷たいソフトクリームを舐めながら、これからどうしたものかと考える。
競艇場は広い。下手に探して回ると入違いになるのではないだろうか。それならいっそこの食堂でずっと待っていた方が会える確率は高そうだ。
そんなことを頭の中で考えるが、心の中はどうしようもなく心細かった。
初めて来た場所。周りは知らない大人だらけで子供は私1人だけ。どうしようもない疎外感。世界から1人だけ取り残された気分だった。
もしかして。
嫌な想像をしてしまう。
もしかして、父は私をここに置いていってしまったのではないだろうか。また私は父に捨てられてしまったのではないだろうか。
ずっと昔、私に目もくれず家を飛び出した父の背中を思い出す。
そんなことを考えていると手に冷たい感覚が流れる。気がつけばソフトクリームが溶け、白い雫が伝っていた。
私は慌てて食べ切る。しかし食べ切ってしまったことで、食堂の席を占有してしまっていることが申し訳なくなってしまった。私は再び観覧席に戻った。
外は暗くなりかけていた。
「もうこんな時間か」
私は今更ながら、祖父母に黙って父についてきたことに罪悪感を抱いた。
思考がどんどんネガティブになっていく。
祖父母が心配しているかもしれない。私はこのまま父に置いていかれ、もう家へ帰れないかもしれない。
そんな想像をしていると肩を叩かれた。振り返ると父がいた。
「おう、遅くなったな」
タバコを吸いに行くと言ってからもう1時間経っている。
私を1人っきりにしたことに対して、全く負い目を感じていない態度であったが、怒る気力は湧いてこない。ただひたすら心細さから解放されたことに安堵するしかなかった。
「レースはまだあるけど、そろそろ帰るか」
疲労困憊していた私は黙って頷いた。
早足で進む父の背中を追いかけた。もう置いていかれるのはごめんだ。
競艇場の外に出ると一気に寒さが押し寄せてくる。風が強く、雪が横殴りの状態で私たちを襲った。
顔にあたる雪風を腕で防ぎながら父の車に戻ると、私はあることに気づいた。
「お父さん、外行ってたの」
「ん、なんでや」
「来た時と駐車してる場所が違うよ」
私の言葉に、父は言葉を詰まらせながら答える。
「あー、外にタバコ買いに行ってたんや」
「そうなんだ」
私はそれ以上何も聞かず、車に乗り込む。その直前、思い出した。
「あ、お父さん」
「なんや」
「お父さんがタバコ吸いに行く前買った舟券、当たってたよ」
「なんやと」
父の素っ頓狂な声を聞いたのは、これが初めてだった。