第六話
昼食を摂った後、私は再び先生の家へ向かった。以前借りた小説が読み終わったためそれを返しに行くのだ。
その日は空模様がなんだか怪しかった。
いつもと同じ曇り空なのは変わりない。だけど肌で感じる空気から、今日は雪が降るなという予感がしていた。
小屋は大丈夫だろうか。祖父から聞いた神社の話を思い出すと不安が募る。
そんなことを考えながら歩いていると後ろからクラクションを鳴らされた。
びくりと肩を揺らしながら振り返ると、以前見た大きな車が。
父の車だ。
父が車の中で手招きしている。
恐る恐る近づくと、車の窓を開けた父が声をかけてくる。
「久しぶりやな、勝彦」
「う、うん。久しぶり」
私は動揺していた。こんなにも早くまた父と会えるなんて思ってもいなかった。
「乗れや」
「えっ」
父の短い言葉の意味が理解できずに呆然としていると、反応が遅いことに苛立ったのか、小さな舌打ちが返された。
「遊びに連れてってやるから、乗れや」
信じられなかった。父に遊びに連れて行ってもらった記憶などほとんどない。数年ぶりに再開して、突然の言葉に混乱した。
「でも、じいちゃんに言わないと」
「親父には言ってるから大丈夫や」
子供ながらに、すぐ嘘だとわかった。
だけど、もしこの機会を逃したら父とは二度と会えないのではないかという不安があった。
「わかった」
私は少し悩んで助手席の扉を開ける。車高があるせいで乗りづらかった。
助手席に座ると、父は車を走らせた。
「どこへ行くの」
「いいところや」
それ以上父は何も言わなかった。
運転する父の横顔をバレないようそっと見つめる。記憶の中の父よりも少しだけシワが増えていた。
むせ返りそうなほど漂う芳香剤と、タバコの香り。
スピーカーから流れる洋楽。
少し荒っぽい運転。
車は町の外へ向かっていた。
「勝彦」
しばらく無言だった父がおもむろに口を開いた。
「なに」
私は緊張しながら返事をする。
「最近なにしてる」
「えっと、なにって」
「どんなことして遊んでるかって」
なぜそんな事を聞いてくるのかわからなかったが、私は質問に答えた。
「冬になってからね、小屋で遊んでるよ」
「小屋ってなんや」
「家の近くに会社の倉庫あるでしょ。その隣の小屋。薪のストーブで火をおこして、そこで過ごしてるんだ」
「ああ、あの小屋か」
父はどこか懐かしそうな口調だった。
「小屋のこと知ってるの」
「ああ。俺が子供の頃からあるからな」
知らなかった。父が子供の頃というとざっと20年から30年ほど前になるだろうか。そんなにも古い小屋だったとは。
「あんな小屋寒いやろに」
「そんなことないよ。松さんも休憩所より暖かいって」
「松さん。あの人まだおったんか」
父はしみじみと呟いた。
「お父さんもあの小屋で遊んだりしたの」
「いや、どうだったか」
少し考え込んだ父は思い出したかのように口を開く。
「昔、小屋ん中で餅焼いて食ったことあるな」
私は目を見開いて父を見た。
「僕もよくお餅焼いてるよ」
父との共通点が見つかり、私の声は弾んだ。
「そうか」
父は短く答える。
「小屋で遊んでるって、なにしてるんや」
「えっとね、本を読んだりとか」
「本って、あんなところでか」
「うん。静かだから落ち着くんだ」
「そうか」
父のその短い言葉すら、私の胸を高鳴らせた。
「なに読んでるんや」
「ミステリー小説。最近、近所の人にこれ借りたんだ」
私は持っていた本を指し示す。父は横目でそれを見ると題名を読み上げた。
「ゴルフ場殺人事件か」
「うん、アガサクリスティって知ってる」
「名前は聞いたことある」
「ポアロって探偵が出てくる小説なんだ」
「あー、なんか映画やってたな」
「そうなんだ。それは知らなかったな」
父との会話を続けるべく、私は必死で話題を探す。
「お父さんは、本読んだりするの」
「あんま読まん」
「そっか」
そっけない父の言葉に、私は話題を間違えた事を悟った。しかし、父はしばらく考え込んだ後、ぽつりと語り出した。
「俺が中学の頃、図書室で西村京太郎読んでたな」
意外な言葉に私は驚く。
「西村京太郎って」
「知らんか。電車のミステリーばっか書いてる人や。昔から何回もドラマやってたからよう読んどった」
「そうなんだ。小学校の図書室にはなかったな」
今度町の図書館で探して読んでみよう。いや、もしかしたら先生が持っているかもしれない。
「他には、どんな本を読んでたの」
「本はそんな読んどらん。俺が子供の頃はーー」
それから父は幼少期のことをたくさん語ってくれた。
今は建て替えられた小学校のこと。
近くの川で鮎を捕まえたこと。
資材置き場の休憩所を秘密基地にして遊んだせいで祖父に怒られたこと。
今まで全く知らなかった父のことについて、私はたくさん知ることができた。
嬉しかった。
こんな当たり前の親子のような会話ができるなんて、奇跡みたいだと思った。
父とこんなふうに語り合ったことはない。私はこれまでできなかった父との時間を取り戻そうとするかのように、早口になりながら会話を続けた。
しかし、興奮のあまり気が緩んでしまった。
「お父さんは、今なにをしてるの」
まずい、と思った時にはもう遅かった。父の顔がみるみる強張っていく。
「お前には関係ないやろ」
それっきり、父はなにも喋ろうとしなかった。
私もこれ以上どう話しかければいいのかわからず、ただ俯くことしかできなかった。
静かになった車内で洋楽だけが響く。
外は雪が降り始めていた。
しばらくすると、父はコンビニで車を停めた。
「ここに来たかったの」
恐る恐る質問する。
「違う。喉乾いただけや」
父はぶっきらぼうに答え、車から降りる。
「お前はどうする。なんか欲しいか」
「うん」
喉がカラカラだった。
車から降りると冷たく澄んだ空気を感じる。車内の匂いに酔いかけていたためありがたかった。
私を置いてさっさとコンビニに入る父を追いかける。いらっしゃいませー、とやる気のない店員の声に迎えられた。
何を買おう。いや、そもそも私はお金を持っていない。
父は買ってくれるだろうか。そんな不安を抱きながら飲み物コーナーを物色し、すでにカウンターにいる父の元へ向かう。
「14番。後はちょっと待って、勝彦決まったか」
「うん」
私は恐る恐るペットボトルを差し出す。
「なんやサイダーか。こんな寒いのに」
父は呆れていたが、私はサイダーを受け取ってくれたことにホッとしていた。
支払いを済ませ、車に戻る。
「ほれ」
車の中でサイダーを手渡してくる。
「ありがとう」
受け取りながら礼を言うと、父はそのまま車を出した。
プシュッという音と共に蓋を開け、ペットボトルを傾ける。冷たい炭酸が喉に心地よい。
父は缶コーヒーを飲んでいた。
片手でハンドルを捌きながらコーヒーを飲む父が、子供の私にはやけに大人っぽく、カッコよく見えた。
「ねえ、お父さん」
「なんや」
「コーヒーって美味しいの」
「飲んでみや」
そのまま熱を持った缶を渡される。私は一口舐める用に飲んだだけで顔を顰めた。
「苦い」
すぐさまサイダーで口の中を洗う。
「まだまだお子様やな」
その様子を見ていた父が揶揄うように小さく笑った。
「僕、紅茶は飲めるんだよ」
お子様と言われてムッと来た私は子供っぽく言い返した。
「紅茶なんて家で飲むんか」
「ううん、近所の人の家で」
「ほーん、どうせ砂糖入りやろ」
図星を突かれた。
「その人が言うにはね、子供の頃苦手だったものが飲めるようになって初めて大人になったことに気づいたんだって」
「まあそやな。俺も子供の頃コーヒーなんて飲めんかったし」
「僕もコーヒーが飲めるようになったら大人かな」
「大人になる頃には飲めるかもしれんけど、飲めたからって大人になったわけやないやろ」
「そうかな」
大人になるのはまだまだ時間がかかりそうだ。私はそう思いながらもう一口だけコーヒーを啜る。
さっき飲んだのと変わらず、苦いままだった。