第五話
父が家を出て行ったのは、私がまだ5歳の時だ。
父は私と過ごすのを嫌がる人だった。私が近づくと、苦い表情を浮かべながら逃げられたことをよく覚えている。
それを諌めた祖父とはよく言い争いになっていた。元々2人の折り合いは悪かったため、怒鳴り合いに発展したのも一度や二度じゃない。
ある時、今までにないほどの大喧嘩があった。
お互いの怒鳴り声はおそらく近所中に広まっていただろう。私は外から聞こえる2人の怒号が恐ろしく、必死に耳を塞ぎながら祖母の胸の中で泣いていた。
その喧嘩を最後に父は家からいなくなった。祖父母も父の話はしなくなり、父が残していった私物は時が経つにつれて徐々に少なくなっていった。父が存在した事実そのものが、家から少しずつ消えてしまったかのうようだった。
私が小学校に上がった時に自分の部屋をプレゼントされた。だがそこは元々父が使っていた部屋であったため、複雑な気持ちになった。
私のために用意されたベットと学習机。父が以前使っていたものは全てなくなっていた。
だがある日、押入れの中に小さな箪笥が隠れているように存在していることに気づいた。その中には火のつかないジッポライター、色褪せたタペストリー、サビの浮かんだ十徳ナイフなどのガラクタがいくつも入っていた。
腕時計はガラクタの中に埋もれていた。それが父が普段身につけていたものだと気づいた私は箪笥のことを誰にも言わず、時折腕時計を取り出しては眺め、父のことを思い出していた。
父がなぜ今更腕時計を取りに帰ってきたのかわからない。そもそもなぜ家を出て、帰ってこなくなったのかも知らない。
祖父に理由を尋ねたが満足のいく答えは返ってこなかった。
「じいちゃんと父ちゃんは喧嘩してるんや」
そんな単純な話でないことぐらい、子供の私にもわかった。
祖母には聞く事ができなかった。祖母の前で父の名を出すと、決まって悲しそうな表情を浮かべるのだ。
ならばと思い、松さんに聞いてみることにした。
松さんはずっと昔から祖父の元で働いている人だ。父も昔祖父の会社で働いていたことがあるため、顔馴染みのはずだ。
そう思い、家に来ていた松さんに尋ねると、松さんは困ったように眉間に皺を寄せて答えた。
「勝。子供のお前はまだ知らんでええ」
私は大いに不満だった。
自分の父のことを知ろうとして、一体何が悪いと言うのか。なぜ私の話をまともに聞いてくれないのか。
子供騙しのような誤魔化し方で、私が納得すると本気で思っているのか。
何もかも上手くいかないもどかしさに苛立ちが募る。
私はそのモヤモヤを少しでも吐き出すため、再び先生の家を訪れていた。
「なるほど。そんなことが」
先生は私の話を遮ることなく、最後まで黙って聞いてくれた。
先生の淹れてくれた紅茶を一口飲む。暖かく甘い液体が疲れた喉に心地よかった。
「お父さんが出ていってから、連絡は無かったのですか」
「うん」
「一度も」
「うん」
自分で言って少し落ち込む。思えば、私は父とあまり喋ったことがなかった。父との思い出が少ないことに落胆する。
「お父さん、なんで出てっちゃったんだろう」
父がいなくなってからずっと疑問に思っていた。
その答えを知りたくて、何度も周りの人に理由を聞いたがついぞ答えが返ってくることはなかった。
「なんで誰も教えてくれないんだろう」
「君のお爺さんもお婆さんも、きっと勝彦くんのことを思ってのことじゃないかな」
「わかってる。わかってるよそんなこと」
言われなくても十分に理解している。
祖父も祖母も。いや、私の周りにいる人はみんな私のことを思ってくれている。父のことを教えてくれないのも、その答えはきっと私を傷つけるものだからだ。そんなことぐらい幼いながらに理解していた。
「やっぱり、僕が子供だからかな」
子供である私を傷つけまいとする、周りの大人の優しさが却って辛かった。
当事者であるはずなのに、子供だからという理由で除け者にされている。その事実は受け入れ難いものだった。
「早く大人になりたいな」
この時、私は初めて自分の願望を知った。
大人になれば、みんな自分に本当のことを話してくれる。
大人になれば、屋根から落ちそうになることも、煙突を誤って壊してしまうこともない。
大人になれば、働いてお金を稼いで、じいちゃんとばあちゃんに楽させてあげられる。そんな、子供っぽい幻想を抱いた。
「先生、どうやったら大人になれるの」
私はその時、すぐにでも大人になりたくてそんな質問を投げかけた。
先生は無言で紅茶を一口飲み、しばらく沈黙する。
「勝彦くん」
しばらくして、もう湯気を立てていないカップを手に持った先生がゆっくりと語りかけてくる。
「苦手な食べ物は何かな」
「えっ」
予想外の質問に固まる。先生の意図が読めないまま、私は答えた。
「えっと、梅干し」
「そうか。私はね、子供の頃熱い飲み物が苦手だったんですよ」
そう言って照れたように先生は笑った。
「でも先生、紅茶好きでしょ」
「昔は苦手でしたよ。紅茶に限らず、熱い飲み物を飲むと喉がカーッとなってしまうのが嫌いでした。冬でも冷たい麦茶ばかり飲んでましたね」
私は信じられない思いで、紅茶を飲む先生を見つめる。
「私が大学生の時でしたか、当時住んでいたアパートの近くにオムライスが名物のおしゃれな店がありまして。初めて行った時、サービスで食後に紅茶が出されたんです」
先生は懐かしそうに遠くを見た。
「最初出された時は困りました。こんなサービスがあるなら初めから断っていたのにってね。でも出された以上もったいなくて、一口だけ飲んでみたんです。するとびっくり。それがとても美味しかったんですよ」
その時のことを思い出しているのか、先生は目を閉じた。
「本当に驚きました。熱い飲み物が苦手だったのに、火傷しそうなその熱さがとても心地よかった。紅茶なんてこれまでまともに飲んだことなかったのに、この味こそが私の好物なんだ、って確信しました」
先生の話は続く。
「その日以降、子供の頃苦手だった食べ物を他にも試してみました。ピーマン、塩辛、浅漬け、レバニラ。するとどうですか、どれもこれも美味しく食べられたんです」
意外と苦手な食べ物が多い人だったんだと驚きながら、私は話の続きを聞く。
「人間の舌には味蕾という味を感じる器官がありまして、その味蕾は成長とともに数が減っていくんです。そうなると味の感じ方も変わって、子供のころまずいと思った味も美味しく感じられるようになるんですよ」
先生の説明を頭の中で咀嚼する。
「それはつまり、先生が大人になったから苦手だった物が食べられるようになったってことなの」
「その通り勝彦くん。私はね、その時初めて自分が大人になっていることに気づいたんです」
興奮したように顔をこちらに近づけてくる。
「いいですか、大人ってものはね、なろうと思ってなるものじゃない。苦手な物が食べられるようになったり、声が低くなったり、あとはそうだね、朝起きた時に使ってた枕が臭くなっていたり。そういったことを経験して初めて、人は自分が大人になっていることに気づくんです」
先生が何を言おうとしているのか、少しずつわかってきた。
「勝彦くんがすぐに大人になりたい気持ちはわかります。でもね、それは無理なことです。君が大人になるまでまだまだ時間がかかる。だから勝彦くんには、子供である今を大切にしてほしい」
「今を大切にする」
先生は私の言葉に優しく頷いた。
「一度大人になってしまうと、もう子供には戻れない。そして大人になって初めて気づく。子供でいられた時間がどれだけ短く、貴重だったかをね」
先生の表情はどこか寂しそうだった。
「子供である今しかできない事がある。今すぐ大人にはなれないけど、その経験も大人になるために必要なプロセスなんです」
先生の話は私にはまだ難しかった。
その話を聞いても早く大人になりたいという気持ちが消えることはなく、子供である今にしかできないことが具体的になんなのかいまいちピンと来なかった。
だけど、先生の言っていることは正しくて、自分にとってとても大切な道標となる言葉であることはなんとなく理解できた。
先生の語ったことを頭の中で何度も反芻する。
考え事をしすぎて少し上の空になったままその日は先生の家からお邪魔した。
先生の家の前にある壊れたままの小屋。あの日置いたままの立ち入り禁止の看板が目に入る。
私はそれがどうにも子供っぽく思えてしまい、急いで片付けて家へと帰った。