第四話
それから数日、珍しく雪の降らない穏やかな日々が続いた。
しかし私の気分は晴れやかとは言えなかった。冬になってからずっと続いていた小屋で過ごす時間がなくなってしまったからだ。
煙突の修理がまだ終わっていない。祖父曰く、前のと同じものがなかなか見つからないそうだ。
「じいちゃん、パソコン貸して」
「おう」
我が家には事務所がある。祖父の会社の事務作業はその部屋で行われていた。
メガネをかけた祖父が書類と睨めっこをしている横で、私は事務所のパソコンを使って調べ物をした。
調べるのは私が壊してしまった煙突について。
「じいちゃん、僕が壊した煙突のパーツってなんてな名前なの」
「ん、煙突トップや」
書類から顔を上げることなく祖父は答えた。
聞いた通りにパソコンに打ち込むと、さまざまな形の煙突トップの画像が出てきた。T型、H型、三角形の傘のようなもの、見慣れない形式の物が多く興味深かった。
しばらく画像を見ていると、ようやく見覚えのある形の煙突トップが見つかった。
「結構高い」
隣の祖父に聞こえないように呟く。
画像をクリックすると販売サイトに飛ばされる。
そこに書かれていた値段は4万円ほど。改めて壊してしまったことを申し訳なくなる。
販売サイトの説明によると、風をうけて回転することで風の吹く方向と煙が排出される方向が反対を向き、外部の風が煙突内に入ることを防ぐ構造だそうだ。
「じいちゃん、ネット通販ならすぐに買えるんじゃない」
「じいちゃんネットの買い物はよおわからん」
少し期待してそう聞いたのだが、そっけなく返されてしまった。大人しくじいちゃんが見つけてくるのを待つしかない。
翌日。学校から帰ってきた私はする事がないためブラブラと近所を散策していた。
ふと思い立ち、私は祖父の会社の作業員が使う休憩所を訪れていた。休憩所は村外れの、周りに畑や田んぼしかない敷地内に建てられている。
広い敷地内は建設用の資材置き場も兼ねている。コンクリートブロックや鉄骨などが積み重なった状態で置かれており、以前私はちょっとしたアスレチック場のようになっているこの場所で遊んで、祖父にこっぴどく怒られた事があった。
そんな場所に建てられた休憩所は木造のプレハブハウス。豆腐のような四角くいシルエット。
機能性を重視したその建物は、シンプルな作りでありがなら私が使っていた小屋よりもよっぽど近代的なものだ。
窓から除くと誰もいなかった。
室内は畳の上にちゃぶ台と座布団が置かれていて生活感がある。冷蔵庫まであるため住むことすらできそうだった。
私は中に入ろうと扉に手をかけるが、案の定鍵がかけられていて開かなかった。
残念だ。ここを第二の秘密基地にしようと思ったのに。私は落胆した。
諦めてその場を立ち去る。そのまま家に帰ろうと思ったが、なんとなく小屋に寄ることにした。
寄ってはみたものの煙突が修理されているなんてことはなく、あの日のままの姿の小屋に私は肩を落とした。
「おや、勝彦くん」
小屋の前で佇んでいると眼鏡をかけた男性に声をかけらた。
「先生。こんにちは」
「こんにちは。学校はもう終わったのですか」
私は頷いた。
先生は小屋の真向かいの家の住人だ。学校の先生ではなく、小説を書くことを生業とされているため、地域の人からは先生と呼ばれ親しまれている。
「しばらく小屋を使っているところを見ないけど、何かありましたか」
「煙突が壊れちゃって、じいちゃんが雨や雪が入るから使っちゃダメだって」
「ああ、なるほどね。あの看板は勝彦くんが建てたのかい」
「うん」
私はイタズラが成功したような気分になり笑う。
煙突を壊してしまったあの日、倉庫の中から『立ち入り禁止』と書かれた看板を見つけ、それを小屋の前に置いたのだ。
「ああすれば、誰かが間違って小屋に入ったりしないでしょ」
「なるほど。いいアイディアですね」
先生に褒められ私は少しだけ誇らしい気持ちになった。
「でもしばらく小屋が使えないから退屈なんだ」
「そうですか。なら私の家に来ますか」
「いいの」
「今日一日暇でしたから。勝彦くんが遊びにきてくれると嬉しいですね」
「うん」
喜んで招待していただくことにした。
先生の家はこの辺りでは見かけない洋風の建築で、かなり目立つ建物だ。本を読む事が好きな私は作家である先生と話が合い、何度かお邪魔させてもらったことがある。
リビングに案内された私はソファーに座る。先生は紅茶を淹れてくれた。
「はい、どうぞ。砂糖はここに」
「ありがとうございます」
ほのかに甘い香りを立てる白いカップの中に角砂糖を一つ。両手で持ち、熱さに気をつけながら口をつける。普段紅茶なんて飲む機会がないが、私はこの味が好きだった。
「美味しい。前に飲んだのと同じだ」
私の言葉を聞いて、斜め向かいの安楽椅子に座った先生は驚いたような表情を浮かべた。
「よく覚えてましたね。そう、以前に勝彦くんが来た時に淹れたハチミツとレモンの紅茶です。私のお気に入り」
先生は角砂糖を入れず、そのままカップとソーサーを持ち上げて紅茶を飲む。その姿は洗練された大人の姿のように思えてカッコよかった。
「冬の間はこれが欠かせなくて。何せこの町は寒い。私がここに越してきて、そうだね何年になるかな」
「4年だよ」
「ああ、そうだそうだ。もう4年か。でもこの寒さにはまだ慣れませんね」
先生の部屋は暖房がよく効いている。紅茶を飲んだ私は暑くて上着を脱ぐほどだったが、先生は厚着をしていて、シルエットが丸く見えるほどだった。
「煙突が壊れたと言ってましたが。何かあったのですか」
先生の質問に先日の苦い記憶が蘇る。
私はそのモヤモヤする気持ちを誰かに吐き出したくなり、あの日何があったのかを先生に説明した。
「なるほど。勝彦くんが屋根から落ちそうになって、そのはずみで壊れてしまったと」
「うん。僕のせいなんだ」
「そんなことありません。君に怪我がなくてよかった。それに、元々煙突は古くなっていたんでしょう。勝彦くんが古くなっていたことを発見したと思えばいいんですよ」
「うん、そうか。そうだね」
先生の言葉は穏やかで優しい。その言葉に救われたような気持ちになった。
「でもあの小屋で本を読めなくなっちゃったのがね、残念だよ」
「はは、本なら家でも読めるのに。勝彦くんは風流ですね」
先生は笑った。
「それで、勝彦くんは最近は何を読んでいるかな」
「えっと、スタイルズ荘の怪事件を読んだよ」
「ああ、名探偵ポアロか。君の歳でアガサクリスティとは。難しくありませんでしたか」
「ちょっとだけ。でも面白かった」
私は小説であればなんでも読んだが、その中でも推理小説が特に好きだった。物語の中の探偵たちのように、難事件を解決することを何度も夢想した。
「でもね、うちの学校の図書室にはその一冊しかないんだ。ポアロって何冊もあるんでしょ」
ポアロに限らず、学校の本はほとんど読み尽くしてしまった。町の図書館は少し遠いため車を出してもらう必要があるが、祖父母への遠慮からお願いしづらかった。
「それなら私のを貸しましょう。ポアロが出てくる小説は全て持っていますか」
「本当っ」
先生は頷くと、私を書斎へと案内してくれた。
初めて立ち入る先生の書斎は広く、本の香りでいっぱいだった。
大きな書棚に囲まれた部屋の中央には見た事がないほど立派な机と椅子が置かれている。
先生は棚から数冊の小説を取り出し、渡してくれた。
「はい。読んだら感想を聞かせてくれますか」
「ありがとうございます」
宝物を持つように両手で抱えた。
「ねえ先生。この中に先生が書いた本もあるの」
私は先生がどのような小説を書いているのか知らなかった。
「もちろん。ありますよ」
「今度読ませてくれる」
そう言うと、先生は少しだけ困った顔をして答えた。
「そうだね、君がもう少しだけ大人になったら読ませてあげましょう」
暗くなる前に先生の家を出た。
借りた小説を胸に抱え帰宅する。すぐにでも読みたいという気持ちが自然と私の足を急がせる。
ふと、足が止まる。家の敷地に見慣れない大きな車が停めてあったからだ。
誰か客が来ているのだろうか。そう思いながら玄関に目を向けると、私は信じられないものを目撃した。
「え、お父さん」
それは、数年ぶりに目にする父だった。
玄関の前で父と険しい表情をした祖父が対峙している。
「英信。何しに帰ってきたんや」
普段とは違う祖父の剣呑な声。父は舌打ちしながら答えた。
「忘れ物を取りに来ただけや。俺の部屋に腕時計があったやろ」
「知らん」
「だったら俺が探すって言ってるやろ。入れろや」
「お前には二度とうちの敷居は跨がせん言うたやろうが」
子供の私にもわかる一触即発の雰囲気。
このままではよくない事が起きる。そう予感した私は決死の覚悟で父に声をかけた。
「ぼ、僕知ってるよ、腕時計」
父がようやく、私の存在に気づく。
一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに目を見開いた。
「お前、勝彦か」
まじまじと見つめられる。
「僕の部屋の箪笥に入ってるやつだよね」
「僕の部屋やと」
父が祖父を睨みつけた。
「今は勝彦の部屋や」
祖父も負けじと睨み返しながら苦々しく吐き捨てる。
「取ってくるからお父さん待ってて」
父の返事を待たず、私は家の中へ駆け込む。
慌ただしく二階に上がり、自分の部屋の古い箪笥の引き出しを開ける。中にはごちゃごちゃと色々なものが入っていた。
その中から腕時計を取り出す。金属製で少し重い。
私は外に出て腕時計を父に渡した。
「はい。これでしょ」
自分の声が震えていないか自信がなかった。
「ああ」
父は短く返事をすると、私の顔をじっと見つめてきた。私はその視線に耐えられなくなり俯く。
「勝彦。お前、今いくつや」
予想外の質問に、一瞬頭が真っ白になるが、かろうじて答えを返す。
「も、もうすぐ11歳」
「そうか」
父はそれ以上何も言わず、車に乗って去って行った。嵐のような出来事に私はしばらく呆然とする。
私はその日、先生から借りた本を読む事ができなかった。