第三話
翌日。
気が早ったのか、私はかなり早い時間、というよりも夜中に目が覚めた。布団の中から時計を見れば、まだ3時前だった。
下の部屋から物音が聞こえる。おそらく祖父だ。予想通り除雪の要請があったらしい。
私は身体を震わせながら階段を降りる。
「なんや勝彦、こんな時間に起きたんか」
「おはよう」
部屋は暖房をつけたばかりなのかまだ寒かった。室内なのに吐く息が白い。
祖父が食べている雑煮が随分と美味しそうに見えた。
「食べるか」
「ちょうだい」
「何個いる」
「2個」
祖父は冷凍庫から取り出した丸餅を二つ、鍋の中に入れて火をかけた。
「柔らかくなったら火い止めてや」
「うん」
火の管理を私に任せ、祖父は食事に戻った。
火の温かさが心地よい。だが足元は相変わらず冷たいままなので、何度も擦り合わせる。
そのうち鍋の中の雑煮が煮立ってきた。箸の先で餅を突くとほとんど抵抗なく沈む。私は火を消して中身をお椀に移した。
「いただきます」
食べ終わった祖父がお茶を二つ淹れてくれた。
私の故郷の雑煮の具材は餅だけだ。味噌仕立ての汁に大量の鰹節を入れて、あとは餅を入れて煮込むだけのもの。
以前母方の親戚の元へ遊びに行った時出された雑煮が、豆腐やらワカメやらで具沢山だった時は驚いた。私は結局、餅だけのシンプルな雑煮の方が好きだ。
箸で持ち上げると重みでちぎれてしまうほど柔らかい。味噌の香りとともに温かさが広がる。
夢中になって食べていたのか、気がつけば2個あった餅はあっという間になくなってしまった。
この頃には部屋の暖房も効いてきて、随分と暖かくなった。祖父はお茶をゆっくりと飲んでいる。
「じいちゃん」
「ん」
「今日雪下ろしするんだよね」
「雪降らんかったらな。まあ、多分降らんやろ」
「除雪しなきゃいけないのに大丈夫なの。朝早いし」
祖父は少し驚いた表情でこちらを見た。
「何言ってるんや」
そう言って祖父は笑うが、私は心配だった。
祖父は社長という立場にありがながら、常に現場で重機に乗っているような人だ。
除雪の要請がある日は決まってこんな真夜中に駆り出され、朝の5時ごろまでずっと除雪作業を行う。
そして、その冬の要請は例年以上に多かった。
「心配せんでもええ、じいちゃんはまだまだ元気や。勝彦大学行かせなあかんからな」
祖父は私の前で疲れた様子を見せない。その事がかえって心配だった。
祖父の定年はとっくに超えている。
時々思う。自分さえいなければ祖父は祖母と一緒にもっと楽に過ごせたんじゃないだろうか、と。自分の存在が祖父母の重荷になっているようで、私は常々申し訳なく思っていた。
もっとそんな不安は、決して祖父母の前で漏らすことはできなかったが。
家の外で車が停まる音がした。松さんだ。
「じゃあ、そろそろ行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
祖父を見送ると、雑煮で満腹になったおかげか急に眠気が襲ってきた。
もう一度寝よう。
部屋に戻り布団を被ると、私はあっという間に眠りに落ちた。
その日は幸いにも雪は降らず、比較的暖かかった。
昼食をとって祖父、そして祖母も一緒に小屋へ向かう。
「除雪の道具はどこにあるの」
「倉庫の中や」
勝手口を開けて中に入る。思えば倉庫の中に立ち入るのはこれが初めてだった。昔から中は危ないから入るなと、祖父から口酸っぱく言われていた。
倉庫の中には大きな除雪車だけでなく、工事のため立ち入り禁止と書かれた看板やカラーコーン、ブルーシートなどが雑多に置かれている。鉄と土の匂いがした。
スコップと、それからソリに持ち手がついたような形状のダンプと呼ばれる道具を持って倉庫の外に出る。祖父は折り畳みの梯子を担いでいた。
梯子を広げ、小屋の屋根に引っ掛ける。屋根に積もった雪に梯子が埋まり、うまく固定されている。
「気いつけて登るんやぞ」
小屋は小さいため、屋根の上でもそれほどの高さはない。しかしそれでも初めての経験で胸がドキドキした。
慎重に一歩一歩梯子を登っていく。祖父が下から支えてくれているため揺れることはなかった。
屋根の上に登ると強い風に襲われる。体が少し揺れるほどだったので怖かった。見上げるしかなかった煙突が今は自分の胸の高さにある。こんな近くで見たのは初めてだ。
煙突の先端は円筒状で、それに2枚の板がVの字についている。その板が風を受け、クルクルと回っていた。
「うわあ」
初めて登った小屋の上から見る景色は圧巻だった。
裏手の畑はその全てが一面雪に覆われていた。遠くに見える山は頂上のあたりが灰色の雲と同化していた。
自分は今、村の誰よりも高い場所にいる。そんなふうに思えた。
普段目にすることがない光景に目を奪われていると、下から祖父が呼びかけてきた。
「おーい、このダンプ上げくれや」
慌てて祖父が持ち上げていたダンプを引き上げる。そのあと、祖父が登ってきた。
「さて、小屋の方は勝彦に任せるな。じいちゃんは倉庫の屋根やるで」
「どうやればいいの」
「普段雪かきしてるのと変わらん。だが落ちんよう気をつけろ。下の瓦に足乗せると滑るから雪の上歩けや。端っこに行きすぎると屋根がなくて落ちるぞ、あとはそうやな、下のばあちゃんの上に落とすなや」
祖母は下の雪を用水路に捨てていた。
「わかった。やってみる」
それを聞いて頷いた祖父はまた下まで降りて行った。
屋根の上にはこんもりと雪が積もっていた。おそらく自分の腰の高さまで積もっているだろう。よく小屋が潰れなかったものだと感心する。
ダンプを足元の雪に突き刺し、手元に体重をかけるとごっそりと雪が持ち上がる。それに勢いをつけて前へ押し出すとつーっと滑るように屋根から落ちて行った。
面白い。
普段やっている雪かきとはまた別の感覚。屋根に傾斜がついているため、雪が重力に従って勝手に落ちていく。
再度雪にダンプを突き刺す。体重をかける。前へ押し出す。何度も何度も繰り返す。
気がつけば汗だくになっていた。上着を脱いでその辺りに放り捨てる。
ふと隣を見上げれば、小屋よりもずっと高い位置にある倉庫の屋根で祖父が同じ作業をしていた。しかしさすがというべきか動きが違う。小さな小屋の上で作業している私とは比べ物にならない速度で倉庫の上に積もった雪が消えていく。
負けられないと思った私は速度を上げる。だがそれがいけなかった。
端のほうの雪を降ろしていると、片足が雪を突き抜けた。その下にあるべきはずの屋根がなかった。手からダンプが離れ、そのまま下へと落ちてカーンと甲高い音を立てた。
私は咄嗟に近くにあった煙突に掴まることで、辛うじて落下を回避できた。
「大丈夫かっ」
倉庫の上から祖父の慌てた声が響く。
「大丈夫っ」
そう返事を返したが、私の心臓はバクバクと嫌な音を立てていた。汗ばむほど体が熱かったのに、一気に冷たくなった。
祖父が忠告した通り、端っこに伸びた雪の下には屋根がなかった。
慎重に落ちた片足を引き上げる。
しばらく腰を落として呆然としていると、隣に祖父が来た。
「やから気をつけえ言うたやろ」
いつになく厳しい祖父の口調に体が震えた。
「ごめんなさい」
気落ちした私はほぼ無意識にそう言った。
「落ちんかってよかった」
心から安堵した祖父の表情。私は申し訳なくなった。
「勝彦、ダンプは」
「あ、そうだ。ばあちゃん大丈夫っ」
下には祖母がいたのだ。慌てて下を見ると、祖母がダンプを拾ってこちらに手を振っていた。
「大丈夫や」
ほっと胸を撫で下ろす。
「かっちゃん、これも落ちてたけど、なんや」
祖母の手には、円筒状の金属の塊があった。
それは煙突の先端だった。
「えっ」
振り返ると、煙突のてっぺんの部分がなくなっていた。先ほど掴まった時に折れてしまったようだ。
「ど、どうしよう」
とんでもないことをしてしまった。祖父の忠告を無視して落ちそうになっただけでなく、小屋を壊してしまった。
怒られる。
青ざめながら祖父の様子を伺えば、折れた煙突の断面をじっと見つめていた。
「腐っとるなこれ」
ポツリとそう呟く。
「え」
「経年劣化や。まあ古い煙突やし、しゃあないやろ」
どうやら、怒っていないようだ。
「どっちみち、とっかえなあかんかったな」
「ちゃんと直る、これ」
「じいちゃんが直しちゃる。やけど、直すまで小屋使ったらあかんぞ」
安心したのも束の間、祖父の言葉にまた奈落に突き落とされた気分だった。
「使っちゃダメなの。上の方が取れただけだよね」
「あれがないと煙突の中に雨やら雪やら入ってくるからな。ストーブ焚いてる時に薪が濡れると臭い煙が出るぞ。煙もうまく外に出んようなるし」
「そんな」
直るまでどれくらいかかるのか、いつになったら小屋を使っていいのか。そう問い詰めようとしたができなかった。壊してしまったのは私自身なのだから。
「早めに直したるから安心せえ。それより、雪下ろしどうする。もうやめてもええぞ」
気を遣った祖父がそんな提案をしてくる。そのことが私にはかえってショックだった。やっと雪下ろしを任されたのに。
「ううん。やるよ」
せめてそれだけはやり遂げたかった。
下にいる祖母からダンプを受け取り、私は黙々と雪下ろしを再開した。
最初に感じた胸の高鳴りはもうなかった。
やってしまったという思い、祖父の忠告をしっかりと聞いておけばよかったという後悔で頭がいっぱいになり、どうかそれが忘れられるようにと雪下ろしに集中した。
やがてところどころ雪の跡を残しながらも、小屋の雪下ろしは終わった。祖父はとっくの昔に倉庫の雪おろしを終わらせ、私がするはずだった小屋まで手伝ってくれた。
「ほな帰ろっか」
「帰ったら風呂沸かさんとねえ」
道具を片付け帰ろうとしていた祖父たちに、私は声をかける。
「先帰ってて」
「ん、小屋使ったらあかんぞ」
「わかってる」
祖父母を見送った私は再度屋根の上に登る。
折れた煙突を覗き込むと中は煤で真っ黒だった。雨や雪が入るとこの煤汚れが下のストーブまで落ちてくるのだろうか。そんなことを考えると気分が落ち込んだ。
祖父の言った通り修理が終わるまで小屋は使えそうにない。
「あ、そうだ」
小屋から降りて倉庫に入る。探し物はすぐに見つかった。
私はそれを小屋に仕掛ける。イタズラを企んでいるときのようなワクワクした気分になった。
遠目から見てうまくいっていることを確認し、私も家へ帰った。
その日は疲れのおかげでよく眠れた。