袋小路でみかけたら
星のかけらはいつ輝きを失うのだろう。夕暮れ空をぼんやりと眺めているとふとそう思うことがある。月を横目に見つつ歌を歌っているうちに、道に躓き迷子になりかけるのはこれで何回目だろう。いや、なりかけではなかった。あの瞬間においては完璧なまでに迷子だった。軽々と道に伏すことができたならば、金輪際すれ違わなかったであろう類の迷子だった。私は途方に暮れた。
でも一つだけ良かったことがある。耳の尖ったハリネズミの巣穴から前脚が出る前から私はずっとそうだということだ。あの点滅している街灯の真下にミミズがいる間だけはそうではなかったかもしれないが。生まれてこの方そんな瞬間は3度ほどしかない。公園でソフトクリームを落とした時、薬が2回目に上手く飲み込めた時、あともう一つは忘れてしまった。たぶん、最近だったような気もする。まあいい、頻繁に呼び出しがかからない限りそんなのは些細なことだ。
遠くでカラスが鳴いている。あの鳴き声がオレンジ色の看板を旋回するまで私は迷子だ。カラスはビー玉によく似ていると思う。最近まで気づかなかったのが不思議なくらい似ている。余りにも似すぎてよく見間違える程だ。色も形もそっくりだし、真夏のひまわり畑にもぴったりだ。似ていないところと言えば真夜中に煌々としたクレープ屋に置いてあるか否かぐらいだ。そうはいっても悩ましいのはその品揃え。え、全然似てないって。そんなはずはない。よく見て。じーっと。袋小路に出会ったときに事象の裏側が透けて見えるぐらいに。ほら、ぼんやりと見えてきたでしょ。だって2つとも星のかけらそのものだもの。
さあ先を急ごう。橙色の糸に引きずられながら。止まっていることは進むことに比べて難しいものだ。そして戻ることはさらに難しい。でも戻っていると進みたくなる。そう上手くはいかないものだ。その点引きずられるのは悪くない。引きずられることは引きずることだ。シーソーはギッタンバッコンするものだ。そうでなくちゃならない。凹んだフライパンには南京錠を、歪んだ眼鏡には段ボールを。そんなことは100年前の百貨店のうたい文句から決まっていることだ。何せ引きずられることは気分がいい。初めはそんな風には思えないかもしれないが、地面に顔を擦り付けてみるといい。抉られた頬の肉に哀愁の念を送りつつパンを拾うんだ。どんなパンかって。それは象を容易く覆い隠してしまうぐらい大きくて、球よりまん丸で、風に流されていく雲ぐらいふわふわで、そして何より大事なのがとびっきり軽いってことだ。ただし決して食べてはいけない。一口ぐらいかじるのは構わないけどね。それ食べているって。いやいや、かじるのは食べるのと全然違う。全く違う。ある磁石のN極と別の磁石のN極ぐらい違う。そう。分かってくれなくともいい。分からないことは分かることのきっかし37倍貴重なのだから。そしたら、パンを捨てなさい。なぜかって。持っていると呪われるからだよ。食べれなかった人の怨念がひっきりなしに襲ってくるんだ。利き手から10度時計回りに外れた方向から。うっとおしいったりゃありゃしない。名残惜しいだろうけど、諦めて捨てたまえ。所有することは、所有しないのとほぼ同義だから気にすることはない。するとどうやら驚くべきことに世界がすっかり変わってしまいました。この世界の要素は実はすべてお菓子でできていました。という風な劇的な変化が訪れることはもちろんない。全く変わっていないように見えるでしょう。ように見えるというのが肝である。実際に変わっているとか変わっていないとかそんなことは本当に本当に些末なことだ。パンと肉を思え。それを思い返す間ぐらいは輝きを失わないだろう。