0.序章
まだ、死ねないーーー
長い旅に出ることを決意し、メルセテューアを出発してから、1か月あまりが経っていた。黒のマントを羽織った男が、ひっさげた鞄をがばりと開けた。ほぼ空だ。男は苛立たし気な唸り声をあげると、鞄を乱暴にゆすった。ぽとりと落ちてきたのは、皺だらけになったリンゴの皮と、勢いで落ちてきた金色のペンダント。それだけだった。出発時に詰めてもらった食料が、底をつきかけている。今度は水筒を持ち上げ、乾いた口に運ぶ。一滴だけ、冷たい水が口に入ってきた……乾ききった口の中に、冷たさが染み渡る……が、それだけだった。何度振っても、冷気は二度と口の中に入ってこなかった。男は再び唸ると、顔を上げ、前方を見据えた。
男の前には、荒涼とした暗い平地がどこまでもどこまでも広がっていた。まだ昼なはずなのに太陽は見えず、空も大地もどす黒い。果てがない。まるで永久に続く闇の中を歩いているかのようだ。2週間はこんな調子だ。男はいつまでも変わらない景色にため息をつき、後ろを振り返った。ぼんやりして見えにくいが、漆黒の闇の中を男と同じようにとぼとぼと歩く影が、ひとつ、ふたつ、みっつと続いていた。
皆男と同じぼろぼろの旅装束に身を包み、空になった水筒と、空になった鞄をぶら下げながら、無言で歩いている。
彼らは皆、先頭を歩く男の言葉を信じ、ついてきてくれた精鋭ばかりだ。この状態でも文句ひとつ言わず、誰一人としてこの旅から離脱していない。
この疲れはてた一行は、数ヶ月前の勝利を祝うセレモニーで勲章を授かった者たちである。武功戦功は筆舌に尽くしがたいものがある。本来なら今この瞬間もメルセテューアのどこかで、何かしらの祝宴に参加し、人々に祝福されていたであろう。勿論、みな武に秀でていたし、忍耐力も常人の比ではない。
「これ以上進むのは無理、か」
だが男はそう判断した。最初から無謀で、しかも無意味になる可能性の高い旅だった。男は金のペンダントを拾い上げ、ほこりを掃って首にかけなおしてから、無言で杖を振り上げた。鈍い音を立て、荒涼たる大地にそれは突き刺さった。一行はびくりとして、ぼうとした目を見開いて、リーダーを見つめた。
せめてもう少し協力が必要だった。馬には向かないこの不毛な土地を進める動物も、この土地に詳しい案内役も、ここにはいない。
勝利に酔いしれていたのだから仕方ないな。彼らを責めるのは、お門違いってもんだ。
男はそう思うと、一行の方を向いた。彼らは多少驚きながらも、リーダーの意向を理解しているようにみえた。男は彼らの疲れきった顔を見回し、
「すまない」
一言、絞り出すように言うと、地面に突き刺さる杖から手を離した。男たちは微かに反応したが、誰も意義を唱えるものはいなかった。かといって喜ぶものもいない。それほどまでに彼を信頼し、彼の選択を受け入れていた。男はそんな仲間たちの様子に言葉にならぬ感謝の念を覚えながら、帰路の一歩を踏み出した
はずだった。突如、辺りの空気が変わり、煙が立ち込めはじめた。蒸気が音をたてて土から沸きだし、もともと灰色の雲が漆黒に染まり、地面が微かに、だが確実に揺れ出す。
「地震か!」
旅人の1人が言ったが、そんなものではないことは誰の目にも明らかだった。何か、おかしなことが起こっている。
「何事でしょうか、ペレン殿」
一行のなかでも老練といった感じの者が進み出、マントの男ーペレンに尋ねる。だがペレンは返事をしなかった。老練な男は目を凝らし、ペレンの異変に気づいた。
一行の先頭で、彼は前方、煙の向こうを見つめたまま、石のように硬直していた。
「ペレン殿?」
次の瞬間、ペレンはまるで糸を切られた操り人形のごとく、地面に倒れこんだ。
「ペレン殿!」
老練な男は揺れに踊らされながらも走ってペレンに駆け寄り、その上体をあげさせた。石のように動かぬまま、前方を見据えるペレンの顔は真っ青で、返事はなく、わなわなと震えていた。そして狂ったように何かを呟いていた。
「有り得ない‥有り得るはずがない‥有り得てたまるものか‥有り得て‥‥」
その言葉を聞いた老人の表情が硬くなった。彼もまた、何かを予感したようだった。老人は焦った顔で空を見上げ...黒に黒を重ねても黒にしかならないが、その黒は何よりも恐怖を与える...視線を移し、前方に『有り得ないもの』を見た。立ち込める煙が分断され、なかから漆黒の影が進みでてくる。影は人の形をとっていたが、異様に大きく、頭部には二つの大きな角が生えていた。悪魔、これがその影を形容するに最もふさわしい言葉だろうか。二つの真っ赤な光...悪魔の双眼...が、旅人達を突き刺す。
老人の予感が、確信に変わる。
まだ、死ねないーー
「逃げろおおおおお」
誰かが叫んだ。だかそれよりも前に一行はばらばらに駆け出していた、聞かなくても本能が警鐘をならしていた。あるものは荷物をかなぐり捨て半狂乱になって逃げ、あるものは一行のリーダー・ペレンだけでも助けようと彼の方へ向かおうとした。
まだ、死ねないーー
石につまずいて転げた者がいた。彼は立ち上がろうと足を持ち上げた。何かが落ちた音がする。足の感覚が消える。男は不思議に思い、一秒後、有り得ないほどの壮絶な痛みと鮮血と共に、自分が攻撃されたことを知った。男は絶叫した。
物の数秒で辺りは地獄絵図と化した。一行の断末魔が響き渡る。斬撃も何もない。ないはずなのに、次々と血飛沫があがる。旅人達は一人ずつ、文字通り血祭りにあげられていった。
老人は冷静だった。自分はおそらく、否絶対に助からない。ならばすべきことはただ一つ。
老人はペレンのもとに駆け寄ると、今もぶつぶつと何かを呟くペレンの腕を掴み、無理やり背負い上げやうとしたが、体が上がらない。重い。老人は自分の体の衰えを呪った。だが今はそれどころではない。やるべきことをやらなくては。
「くぉぉぉぉぉぉ!」
老人は全身に力を込め、ペレンを何とか背負うことに成功した。そして惨劇に背を向けると、土を一歩一歩踏みしめ、元来た道を戻り始めた。
惨劇から逃げまとう旅人の一人は、老人がペレンを背負って歩くのを見つけた。旅人は即座にその意図を理解し、
「くらいやがれぇぇぇぇぇぇぇ」
雄叫びをあげ剣を抜くと、回れ右して悪魔に突進していった。次の瞬間男は処刑場の灰に散ったが、後悔はなかった。
悪魔は飛びかかってきた男を瞬殺すると、真っ赤な目をぐるりと回し、すぐに目的の男を背負う老人の姿を捉えた。悪魔は邪悪な笑みを浮かべると、まっすぐ老人のほうへとびかかろうとしたが、
「させるかッ!」
地面に倒れていた片足を失った死にかけの男が、折れた刃をがむしゃらに悪魔に突き刺した。悪魔は苦しむこともせず腕を一振り、一瞬でその男の喉をかききった。悪魔にしてみれば、無駄なあがきに価値はない。
だが、それはまだ生き残っている男達には十分だった。
「ペレン殿を守れ!」
「絶対に……死なせない!!」
口々に叫ぶ男達が、次々と悪魔に飛びかかっていった。
剣を振る音、やられた者の絶叫を背に、今だ正気に戻らないペレンを背負った老人は歩き続けた。老人は自分の頬に水が、涙が伝っているのに気づいた。ペレンの為、そして……人々の為に、彼らは死をも恐れずに戦っている。まだ未練もあるだろうに命を散らしている。私だってそうだ。ペレン殿の為に、最期まで。
次の瞬間、爆風が襲ってきて、老人は吹き飛ばされた。地面に強く打ち付けられ、老人は咳き込んだ。ぐわんぐわんと痛む頭を押さえ、口のなかに入ってきた土を吐いて顔をあげ、ペレンを探した。すぐ見つかった。ペレンは老人よりも四メートル程先に倒れていた。意識はなさそうだが、呼吸をしている。生きているようだ。安堵した老人はペレンの傍らに光るものを見、それが彼の大切にしているペンダントであることに気づいた。それを見ていた老人は突如、背筋の凍る冷たい気配を感じて振り返り、そして絶望した。
爆風の原因たる漆黒の影が、唸りながら憤怒の表情でこちらに向かってきていた。いつの間にか手に握られた真っ赤な長い杖が、恐らくは爆風を引き起こしたのだろう。他の男達の姿は何処にも見えない。恐らくは、今の攻撃で全員死んだのだろう。悪魔は目標を見つけると、立ち止まりニヤリと笑い、死を宣告する赤い杖を振りかざした。
老人は全ての覚悟を決めた。痛みを堪えてペレンをかばうようにして立ち上がり、鞘に手をかけ、剣を引き抜いた。メルセトゥアの紋章が刻印された刀身が、闇の中で鈍く輝く。
「私は」
悪魔の攻撃がまっすぐ向かってくる。しかし老人は怯まず、剣を握りしめ、構えた。
「私は、メルセトゥアの大将にしてペレン殿の一の騎士、カルゴ・エルドリール」
そして突進していった。刹那、両者は爆発かのような大きな音を立てぶつかり合った。再び爆風。だが当然吹き飛ばされたのは老人……カルゴの方だった。悪魔は乾いた笑い声をあげ、杖をくるくる回した後、それを地面に倒れたカルゴの体に突き刺すと、ゆっくりと目標の方に向かっていった。
まだ、死ねないー----
カルゴは杖が腹部を貫通し、もう虫の息だったが、今にも閉じてしまいそうな目を、必死でペレンの方に向けた。ペレンは相変わらず目を閉じ、倒れたままだ。最期にすることといっては、ペレンが一秒でも長く、その命の灯火を燃やすことを、祈るばかりだった。