本物の芸人
すでに晩夏であった。黄昏の空はうっすらとした雲を幾重にも塗り重ねたように浮かべていた。陽は水平線に隠れきろうとしている、朱色と濁ったような雲の陰翳が溶けあう辺りをぼんやりと眺めていると、なぜかしらおぞましい心地に捕らわれてしまった。「ほんま、空なんか久しぶりやで」。ある面において、喜ばしいことであったが忙しさのすえ、空など見る暇もない非日常的な日常をしばらく過ごす毎日だった。それから……別の面にて、何一つ、希望などない、そのような意味で、空すら見ない日々が待っていた。
吉又の心を占領する無二の相方『藪田メドゥーサ』が失踪して、すでに一年が過ぎていた。『お笑い頂上決戦』の第一ラウンドの大トリ、『無言漫才』という前例のない破天荒な『芸』をやってのけた後、吉又に手渡されたのは、思いもよらぬほどの、世の中からの注目の連続が待ち受けるという、嘘のような日々だった。
あの日、会場を唖然とさせた『ジムノペディ』の『無言漫才』は、視聴者にとっては話題性の高い『ネタ』、であることには違いなかった。それがゆえテレビ番組のゲストとしてはうってつけの『引き』と『目新しさ』が吉又には宿っていたのだと思う。それに加えて、注目を集めるさなかにもかかわらず、人々の関心の的から突如姿を消した相方の片割れという、不名誉な『キャラ』も相まって、吉又の『一時的』な人気は上々であった。
まあ、今となっては全てが単なる『駒』に過ぎなかったのだと悟る。しばらく続いたゲスト出演も終息して、結果的にレギュラー番組の獲得にいたることもなく終わってしまう。全ては、泡と消えたのだ。
その後、地方のイベントのゲストとして呼ばれることが度々あったが、客の関心は『無言漫才』と『片割れ』という本来の『芸』とは違った興味であることは明白だった。それをチャンスと見なして自分の『面白ろさ』を売る、という気概が、機会を重ねるごとに、しだいに、削がれていってしまったのだった。
せっかくの好機であったのだろう。しかし、『藪田』との濃密な日々のイメージが、強力に吉又の内部に巣食ってしまい、その至高とも呼ぶべきイメージに浸っていることだけが吉又に残された数少ない喜びでしかなかったのだ。
それ以外のものなど、錆びついた、灰色のイメージしかもたらしてくれなくなってしまって、他のきっかけをもってしてモチベーションを起こそうという心地など、毛頭生まれてはこなかったのだった。
地方営業による収入はかなりのもので、その後の吉又が食いつなぐための唯一の当てとしてじわじわと消えていった。テレビ出演からの多忙の日々の流れから、それまでの生活の頼みの綱だったコンビニのアルバイトも辞めてしまった。
すべての災難がたがいを引きあうようにして大きくなっていき、やがて制御不能の状態に陥ってしまう……吉又は、全てにおいてみるみる魂を失っていったのだ。
人々が吉又に求めるものと吉又自信が求めているものとのギャップから逃げるように、時々舞い込む営業さえ、拒否するようになった。そればかりではなかった、『ピン芸人』として再始動するための、奮起しよう、という心情にさえなれなかった。もう姿を見せてはくれない『藪田』の相方として、最高の相方にとってのツッコミ担当としてしか、芸人たるアイデンティティを自分自身に見いだすことができなくなってしまったのである。せっかくの『カキョゥ』への一度の出演権も、見送ってしまったほどだった。
ついに仕事を拒否し、何一つ事務所からの要請に応えることができなくなった又吉は、完全に自宅へと引きこもってしまった。時に事務所の人間が自宅へと押しかけて、揉めてしまうこともあった。しかし、ほとんど、あきらめのようなものが蔓延ってしまい、たがいにそれ以上進展を望まなくなってしまった。
その日はテレビ出演の収録日であった。消えてしまったタレントを見世物とするような汚らわしいバラエティ。生活費が尽きた吉又は、事務所からのおおよそ半年ぶりの仕事の依頼を了解したのだった。
収録が終わり、局の売店で缶ビールとカップ入りの焼酎を買った。海沿いのスタジオ。海浜公園から晩夏の黄昏を望みながら石造りの広い階段に腰を下ろして酒を飲んでいた。
水平線に浮かぶ雲の線の重なりには斑点のようにどす黒い紋様が点在していて、その周縁から侵入する、ずうんと目映い朱色とのコントラストが毒毒しい印象を与えるのだった。それから数分経たなかったと思う、急激に空の色彩が変容していき、赤や朱に掛かったイメージから、神々しいほどの麗しい紫にその一面を染めあげていったのである。
あまりの美しさに呆気にとられながら、吉又はカップ酒をひと口、喉の奥へと流し込んだ。
その時。なぜかしら藪田の面影がふいに紫の背景に浮かび、あの、荒々しい声が耳まで迫っているのだった。
都心に訪れるのは久しぶりである、もう、これが最後になるかもしれない。酒を二本飲んでみて、やや飲み足りない気持ちに囚われてしまった吉又は、この世の最後の贅沢に、と、局の近くの居酒屋へと入り、カウンターで独り、飲んでいた。
和風の店構え、かなり古くからの営業のようで、その内装の汚れやほころびもまた、味になっている、というようなレトロな雰囲気だった。カウンター以外にはテーブルがいくつかあるだけの小さな居酒屋であり、テレビ局関係者の常連も多いのであろう、壁には芸能人のサイン色紙がいくつも飾られてあった。
ガラガラ、と扉の開く音。場所柄に似合わず昔風の和式の扉だった。
スーツ姿の年配の客はテーブル席ではなく吉又と二つほど間隔を空けカウンターに座った。恐らく身なりからしてテレビ局のお偉方か何かであろう、隣の客にはそっぽを向いて、吉又の鼻孔には整髪料のような色っぽい香りだけが届いていた。
店の主人とのやり取りで常連でありテレビ局関係者であることはすぐに分かった。空になった徳利を持て余して、二人の世間話が終わるまで待ちわびた。
「あれ? 君は」
その大きな声にやや驚くとともに、どこかしら聞き覚えのある声の記憶をたどりながら又吉は隣りへと振り向いた。
ピッチリと横分けにしている髪型から違和感を感じてしまう、しかし、彼が田沼幸平であることを認めるまでそう長くはかからなかった。
「あ、奇遇ですね……田沼さんやないっすか」
「吉又君……だよね。いやあ、本当になんと云ったものか……驚いた。君……私が気にすることじゃないかも知れないが、実は少しだけ心配していたんだよ」
「……え? そない云うても俺、田沼さんほどの偉い人に気に掛けてもらうような人間ちゃいますけどね」
「はははは、そうかそうか。今日、もしかして収録だった?」
「……はい、まあ、まぐれみたいなもんすわ、世間様の、どえらい見世物ですわ、情けないことですけど……」
田沼はそれだけで事情を察したのだろう、首をコクリコクリと頷かせて、少しの間柔らかい笑顔を吉又に向けた。
「そっち移ってもいいかな……?」
「あ、席っすか? 別にええですけど……」
どうして自分などに関心を持つのだろう、そう思う。しかしただ事ではないように、例え過去に深い因縁をもつ関係であったにせよ、現在、業界人としてはほとんど無関係であるお偉方の田沼は、なぜかしら親身な態度をとり続けていて、そのせいでむしろ、明らかに不審に思われて仕方がない。
隣合った男は威風堂々としていた。さすがは、お笑いのみならず、経済界における偉人である。中背の吉又に比べると、ひと世代以上である田沼のほうが上背である上にがっちりその体躯は鍛えられていることがはっきりとわかった。
先ほどまでの馴れ馴れしさがどこかへいってしまったように、しばらくの間たがいに無言になってしまった。吉又は間近で見る機会もないだろうと、失礼を承知で、田沼をじっくり眺めながら、彼との関係性を振り返るように色々と想起するのだった。若かりしころ味わった苦い思い、それから7年ほど経って『カキョゥ』における抜擢からの、『お笑い頂上決戦』で受けた100点という奇跡的な評価。その流れを考えると、例え様々な栄光の道のりをくぐり抜けたであろう彼の人生においても、自分は、彼にとって特別な人間のひとり、といっても過言ではないだろうか、そのような奢った考えが不思議と湧き起るのだった。
「藪田君はどうなんだ、消えたらしい、と噂は耳にしているが、もしかして会っていないの? それとも……」
「ああ」
吉又はふうっと息をついてしばらく無言になった。
「会いたいですわ……。正直、俺んなかでの絶対的な相方になってもうとるんですわ。もう会ってませんね、あの大会で田沼さんに100点貰ろうて……それから……他の審査員からは0点貰ろうて……ははは、あんなネタ、ようやりましたわホンマ、あれ、全部藪田さんのアイデアですねん。俺、あん時、逃げようとしてました、逃げのネタを一回戦にぶつけて、うまいこと勝ち進んだら決勝であのネタやりましょ、藪田さんに云うてて……でも、そんなんやってたら負けでしたわ、そんなん、意味あらへんで、例え、0点出さんかってても、完全に負けや。田沼さん云うたら、芸人の間では絶対的な眼力持ってるお笑い界の裏の頂上ですわ、逃げへんかったから、評価して貰えてたんやって、今になってはっきり思えてるんですわ、藪田さん、ほんま、素晴らしい芸人ですよ。ほんで、あのネタに100点付けてくれた田沼さんは、本物の偉人ですわ」
吉又は沈黙を取り戻すように、ずっと、誰ともしゃべらず引きこもった月日の反動のように、心中に眠っていた思いを一挙に噴き出させてしまった。
「そうか……藪田君は本当に……。でもね、私にとっては、藪田君と同じく、素晴らしい芸人だと思っているよ、君のことを」
「え……」
偉人から褒められた、藪田のおかげではなく、自分個人として……。
それからしばらくはなにも云えなくなった吉又をしばらく待って、それから再び田沼が言葉を継ぐ。
「藪田君はね……全く『売れる』要素を持たずしてずっと芸人、続けていたんだよね、あははは、そういうことにお構いなしっていうところがとことん私のような立場からすると格好よく見えててねえ……彼はそんな状態で15年近くずっと劇場一筋の芸人を続けていった、彼は、彼の芸は、本当に、至近距離でなければわからない真価を潜めていたね。逆に、それがゆえ、ライブで彼に対峙すると、それが本物の芸だと一瞬でわかるんだよ。だけど、その通訳者がいなければ、一般のお客さんには、魅力をそうやすやすと伝えることはできないんだよね。でもね、彼の相棒を務めることのできる芸人なんて、ほとんどいないんだよ、きっと、ね。だが、それを君はやってのけたんだ。君も、彼に引けをとらぬくらいの、本物の芸人なんだと思うよ」
田沼の真意を聞き出すことができ、吉又は震えを隠すことができなかった。「偉人が、本当に自分を褒めたのだ! そして、客観的に、自分を、藪田の相方に相応しい芸人だと、認めてくれた」
震えつづけた吉又はやはり、沈黙を続けるしかなく、
「恐縮です……」
と、消えそうなほどの小声で一言発するだけだった。
しばらくそれぞれ飲み、肴をつつき、会話は途切れた。
そして、田沼は立ち上がった。吉又はそれを察してすぐさま自分も立ち上がり、田沼に近づいた。
「今日の分は私が払うから」
「そんな……」
「いやいや、私が払わないなんて逆に酷い話だ。それより、一度、『カキョゥ』を辞退したことがあったね」
「……ああ、あん時、もしかして田沼さんの回やったんですか?」
「そう、楽しみにしていたんだが。まあ、代わりのコンビもなかなかのものだったけどね」
吉又は何一つ返せなくなった。
「ねえ、吉又君? ピン芸で、再起してみる気はないのかい?」
その言葉に吉又は田沼を凝視した。
「うちで指導してあげたっていいよ、どうだい?」
「『田沼塾』すか? いや、でも俺事務所ちゃいますし……」
「いやいや、無論、ライバルに教えることなんてしないさ。だけど、もし君がこのまま潰れていってしまうのならば、もったいないよ、可能性のある芸人が目の前で潰れていくのを見送ることなんて私にはできない」
田沼の本音をこれでもかと噛みしめた。
「まあ、縁があったら、また会うとしよう、その時には、連絡して」
そう云うと田沼は彼の名刺を吉又に手渡していた。
「じゃあ。今日は楽しかったよ」
手渡された名刺には、『吉又興業』の名が記されてあった。