果てしない確信
国民からの並々ならぬ期待に対して、それを凌駕するように驚異的な盛り上がりをみせていた『お笑い頂上決戦』、その第一ラウンドの大トリ。会場は前代未聞の不穏な、重たい空気に包まれ始めていた。籔田の気迫を垣間見た瞬間に、吉又は向かうべき彼らの運命を悟って『ジムノペディ』は空前絶後の無言漫才を、前フリなしの1本目にぶっ込んで、全身全霊演じ続けたのだった。彼らの目の前に設置されたカウンタの表示は、あり得ないほどの重々しさで、ずしり、ずしりと秒数を進めていき、ようやく1分を経過しようというところにきていた。
ステージ上の吉又と籔田は、マイクスタンドを挟んでたがいに斜交いに向き合って、さながら剣術の決闘のごとく睨み合う。たがいの方へと顔を向けているためにステージからはやや逆向きの恰好。とは云え二人は、ステージへとつながるギリギリの境界線上を越してはおらず、よってその死闘たるオーラはダイレクトに客席へと、絶妙に注がれてもいるのであった。
吉又の想像通り、開始後、時とともに高まったざわめきがいったんほころびをみせ、わずかな笑いへと変容していく瞬間を一度は認めたものの、それは長くは続かずますます重たげに、会場の空気全体が、まるで液体金属へと転換されてしまったかのように、肌へと注がれていく圧力がやがて精神にまで侵蝕していくことは手に取るように明らかであった。吉又自身が感じているその『地獄』のような感覚は、観客、そして審査員へとくまなく伝播しているのだと知悉されてやまなかったのだ。
お笑いと芸術の架橋。窮極の『シュール』の権化たる、籔田と、吉又の魂の結晶……『無言漫才』!
しかし。悲しいかなその『面白ろさ』が伝わっていくのではなしに、『不気味なほどの奇っ怪さ』だけが伝えられていき、結句、会場全体にはただひたすらに戦慄のみが、空虚にもたらされているのだと直観した。
笑いが再び起こることもなく、吉又の視界にはカウンタの『4:00』が写っていた、「しゃあない……もう終わるしかあらへん、あとはタイミングや」。吉又は、『観客方向への視線』をことごとく振り切ってしまい、ただ真っすぐに、籔田を見すえるため、斜交いの構えより正面からは完全な横向きへと移すべく足元に更なる力を加えた。
『奇跡的な同調!』
吉又のタイミングと寸分の狂いなく籔田は正面横向きへ! 『お笑い頂上決戦』の大トリという舞台で、狂気の『無言漫才』を演じきった籔田と吉又が、果たし合いの結果五分五分に終わった武士と武士のごとく、お笑いたる戦場の荒野に聳え、真っすぐな視線を鋭く向けあった。
その一瞬だけ。籔田の表情は斜交いに、ネタ時間の始終、透明な無表情、人間離れした驚異的な。しかしそこに冷たさはなく柔らかさを帯び、かと云って燃え盛るほど、熱さを内に秘めた……。だがその一瞬だけは彼の人間味を呼び戻したような、穏やかなる、あたかも苦悶のすえの解放の……死相……「ようやりきったわ、吉又、ようやったでほんま」……そう、吉又に告げているのが言葉を介さずとも諒解できたのだった。
「もうええわ!」
「どうもありがとうございました」
『ジムノペディ』の、笑いの神へと捧げられた『護摩』の4分間がようやく終了した。
注目の結果、漫才大会の常識をこれでもか、と覆してしまった『ジムノペディ』の評価、それは誰しもが目に見えているようなものだった。ステージ裏へと捌けた吉又は無言で佇む藪田をしばし見すえた。だが、何もかもわかっていた、吉又自身、そして相方藪田、それぞれが、もうなにも思い残すことがない、という気持ちを。結果云々よりもっと充実した、芸人としての最大級の誇らしさを、魂の源から呼び起こし、それを勝ち得ていたのである。
結果発表のため漫才のステージから司会者と審査員の待つ隣りのステージに移動する。二人は堂々たる足どりであった。
通路をくぐると神妙な面持ちの梅野と、引きつった表情をどうにか笑顔で持ちこたえているような呉夜が手前に迫り、奥に並んだ審査員のうち、右端の田沼が直後まっさきに見えていた。吉又は一瞬だけ田沼と目が合った。なぜかしら穏やかな表情に見えたような気がした。それから、進行のためコミカルな語り口に戻したプロ中のプロたる梅野へと視線を戻して他の審査員には目を向けることはしなかった。
「いやあ、大変なネタでしたね。会場も騒然としております、とりあえず皆さんが気になっている審査の結果に行きたいと思います」
「はい、それではお願いします」
BGMの大音響が会場に流れていく、拍動の効果音がミックスされたBGMが体躯を突き破って心臓へと侵入し直撃しているような錯覚があった。左から順に、審査結果が開かれていく…………
「さあ結果がそろったようです」
梅野の合図とともに呉夜は固くマイクを握りしめているのを遠く審査員席を見つめていながらも吉又は認めていた、そして、一番左の審査員のモニタをへと視線を固定してしっかり凝視して待ち受けた。
ドーン! という効果音、ついに……開く。
「0点、0点、0点、0点、0点、0点……」
あり得ないネタを演じた『ジムノペディ』の漫才へと下された審査結果もまた、あり得ない点数の羅列となっていく。ことごとく開かれていく最大限の無評価に、観客はざわめきを越えて悲鳴や絶叫までもが生まれていた。『0点』を実況しなければならない呉夜にとっても、あり得ない緊張を強いられてしまう結果となって、図らずも美しいその声は、震え、弱弱しく吐き出されながら、必死で声を絞り出している様子、彼女の声も観客同様の絶叫に近い声にならざるを得なかったようだ。誰しもが予想できなかった晴れの舞台での大珍事、それを残酷にも告げねばならぬという大役……呉夜もまた、全身全霊をこの瞬間に捧げていたのであった。
「……100点!」
ドオオオオオオオ…………!
地を揺らすような凄まじい轟音が会場全体に生み出されてしまった。最後に開かれる右端の審査員、つまり大会委員長たる田沼幸平だけが、他の審査員たちの流れとは真逆の評価を、最高得点というこれまたあり得ない評価を下してしまったのである。
この点数には好みの様々な審査員たちの皆が皆、驚きの表情を隠そうにも隠せない様子であった。
「ひゃ……100点が出ました! さあ、今回は意見が真っ二つに分かれてしまいましたので、評価をされた田沼さんにだけお話をお伺いしましょう」
梅野の繊細な機転、この辺りのアドリブの技術が、デリケートでナーバスな雰囲気に引きずられかねない賞レース独特の空気を、軽やかなユーモアへと転換させるのだ。悪い空気を一新させ、その流れをコントロールするおかげで、大会全体としての公平な審査を秩序立てていく、調整役としての力量。そして、梅野のその力量は、不測の事態であればあるほど『笑い』に転換させたり、観客のそれと気づかぬうちに次なる展開へと興味を誘導させて、そつなく大会を捗らせていくという、こういった『特別な場』において、唯一無二の話術なのだった。
「いやあ。正直何が起こったのか? といった感じで……」
口を開くと、以外にも田沼は言葉を詰まらせてしまった。その顔は、しかし幸せそうな表情に見えるのだった。
「……失礼。皆さんね、示し合せたように0点をつけられておられたでしょ? 私も実はね、途中まで揺れに揺れていました。漫才の常識からすればこれは全く評価の対象が含まれていませんからね。ただ、気づいた時には私はこの漫才に完敗してしまっていたんじゃないか、今云えることはそれしかありませんよ。言葉では説明の効かない不可思議な『芸』を見せられてしまいました、そして、結果的に私は、彼らの『芸』へと惹き込まれてしまったんだと思います、それしか云えません。どうして100点をつけてしまったのか、実を云うと自分でもかくとした理由を述べられないです。
これだけが明言でき得る事実というか。途中から……恐らくこの漫才に気持ちを持って行かれた時でしょうか……? そこでこう私は思いました。この、一言も放たれなければ、一切のアクションも生み出されない、へんてこな『漫才』は、0か、あるいは100か。その二択しかないような極端な攻め所を狙った『芸』である、ということでした」
「田沼さんはその中でも100点のほうを出された、そういうことなんですね」
「そうです。ハッキリ云って今から0点にしてもいいかも知れない、そう思ってもいるくらいですから……」
7名いるうちの審査員の、たった1名だけには刺さってくれた。しかも、満点という評価で。しかし現状は、それ以外の者たちには無得点、という屈辱的評価がおおよそでもあるのだ。
このような、極端でもあり、あやふやでもあるような、ただただ、一か八かの『芸』。圧倒的な絶望と、一縷の希望の光のわずかに溶け込んだ薄闇。吹けば消えてしまいそうな、儚さに満ちた。
純度の究極的に高まった『シュール』そのものである『ジムノペディ』の今回における『芸』は、芸術から、お笑いを架橋としてつなぐ圧倒的な支持率を得ることはできなかったのである。
それが、結果の全てだった。こうして、藪田と、吉又の二人。『ジムノペディ』の挑戦は、散ってしまったのである。
『ジムノペディ』の『無言漫才』により波乱を呼んでしまった『お笑い頂上決戦』であったが、田沼の率直な感想への共感や、梅野の全力のリカバリーによって、『頂上決戦』は仕切り直され、再び息を吹き返して温かい空気のもと、結果的には盛り上がりをみせていった。
第一ラウンド2位の『シャダルマ』が、1位の『カモノハシ』を凌駕する最高のネタの熱演を見せて、逆転により王者となる、というドラマによって、『お笑い頂上決戦』は幕を閉じたのである。
番組終了後、『ジムノペディ』の二人は人目を避けるようにテレビ局を後にしていた。吉又と藪田は、6名からの『0点』という屈辱を胸に、それを無理やり癒すようにして、田沼からの『100点』の評価を思い出しながら、二人して、しかし意外なほど清々しい表情を見せているのだった。
吉又は藪田を誘い、テレビ局のある都心からは離れて、住み慣れた町へと戻ってとある居酒屋でたった二人だけの慰労会をすることとなっていた。
たまに落ち込む瞬間が見られるものの、普段通りの堂々たる風情を取り戻した藪田を見て吉又は心強く感じていたが、しかし、破天荒な勢いはどこかしら削がれているようでもあり、少し寂しい気分もない交ぜにしていた。だが、それゆえに、藪田の聞きしに勝る『酒癖の悪さ』が先に来ることはなく、そればかりか、合宿以来、大会を経て一挙にコンビとして信頼を勝ち取り、たがいに濃密に思いを寄せ合って覚醒された、新たな関係性が生まれる予感があったのである。
それでも、やはり藪田のペースは尋常ではなくて、大柄で酒は強い男であるが、しかしそれでもかなり酔っている様子だった。とは云え、時間を追うごとに悔しさの不思議と増していく現実との対峙に、じりじりと追い込まれていき、酔うことでしか回避できようもない、放っておけばふつふつと沸いてくるような『屈辱』が胸に木霊しているので、やはり吉又も藪田同様、飲まれるほどに酒を浴びせるのであった。
かなり飲んでいた。深夜、芸人が、ふたり。
吉又はテーブルに肘をつきうつらうつらしていた。藪田はイスに片足を乗せてもう温くなってしまった熱燗の徳利を片手持ちしながら胸のあたりでぷらぷらと何気なしに動かしていた。お猪口も使わずに藪田は、直接徳利を口につけてグイッとその中身を一気飲みしてしまった。
「おい、吉又! ……聞いてんのか、吉又! なんやねん、寝てんのかいな」
首をがくっと落としながら高い所に戻していくがすぐに再びがくっと。何度も同じ様を繰り返しながら眠りの淵に落ちかけている。
藪田の息を吹き返したような大声に、ようやくしつこいくらいの眠気を覚ますことができた。
「藪田さんどないしたんすか」
吉又の態度に藪田はやや怒りを顕わにしているようだった、しかし、すぐに表情からそれは抜け落ちた。代わりに、優しげな表情で吉又を見つめ、軽くひと笑いした。
「なんですのん、藪田さんにしては……なんか気味悪いですわ」
「お前いつまで敬語使っとんねん、藪田でええ云うとるやろ」
「いや……それはもう、ないんちゃうかな思いますわ」
「なんでやねん、ナメてんのか」
「逆ですわ、今回の大会、悔しいですよ、でも、つくづく、藪田さんのやっとることに従っとる自分が、ほんまに正しいわ、思とるんですわ。要は、藪田さんを心から尊敬したんですわ。せやからタメ口は……ないわな、思いましてん」
「アホか! まあええ、お前は頑固やで、そこがええとこやって俺思うわ」
「頑固やなんて……。怒らせるんやないかて冷や冷やしますね」
「まあな、俺もそうやわ。悔しいで、ほんまはな。理解されへんのは慣れればそない堪えへんもんやで、不思議なもんでな……せやけどな、なんか知らん今回はほんま、悔しいねん」
「俺もですわ……」
「なあ、吉又! 俺、ほんでな、今、悲しい気持ちになっとんねん」
「悔しい、やのうて悲しいですか? 藪田さんは悲しなる必要あらへんのに」
「否、実は悔しい云うより悲しいのほうが上やで、ひょっとしてそれだけかもわからへん」
吉又は藪田をじっと見すえて聞き逃すまいと集中していた。
「みんな上玉や、思いこんどったらな! 案外。並かそれ以下やった」
「……それは、芸人に云うてますの? それとも……」
「まあ、どっちにもや。芸の道はとことん己との勝負やとわかってくるもんやで、昨日まで確信しとったはずやのに、昨日より今日、今日より明日、そうしてどんどん確信は果てしなく膨らんでいきよるんや。己との対峙……果てのない道やで。吉又! そうやって一流のもんだけが強くなっていけんねん」
この夜、かなり打ち解け、コンビとして深め合い、大袈裟な話、愛を深め合った、と思っていた。
しかし、これ以降、藪田が吉又の前に現れることはなくなったのである。