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崩壊と花

「ほな、あそこでやんで」

 ペンションの客室はシングルベッドの二つ備わった洋間であるが、藪田と二人で使う分には割に広い空間だった。四畳半の簡易的な和室もあり、それをステージに見立ててネタ作りに挑もう、ということだった。

 低い天井に頭が届きそうな藪田は壁を背にしてこちら向きになっていた。ちょうど窓向きになっていて山道の傾斜が遠景まで見下ろせるようになっていた。畳に上がった吉又は云われるまでもなく藪田の右側に並んだ、つまり客にとって正面左側、吉又にしてみれば前の相方西村の立ち位置だった。以前であるなら自分が立つ位置に新しい相方の藪田が立っている、これは、吉又にとってボケの立つ聖域であった。自分は気分を新たにツッコミとしてステージに立つ、暗黙のリスタートへの表明、思わず吉又は境界線を跨ぎきった自分に、身震いをした。

 大股を開いてやや屈んだ状態の藪田へと斜交はすかいに向き合って、大柄な藪田を見あげるように眼差しを向ける。藪田は真剣な表情を続けているが、不思議と、力が抜けているような感じをもたらすのだった。雑念のないような、澄みきった気迫だった。吉又はその美しいオーラを間近に、言葉を発さない藪田の、始めのアクションを逃すまい、と構えていた。

 しばらく経過していた。依然藪田はひと言も発することはなかった。まったく同じな、ひたむきな面持ちを微動だにせず、吉又の網膜へと直撃する、鋭い一矢いっしを放つかのように……。しかし吉又の目に映る藪田は、それよりもっと奥深い領域をじっと見すえているように思われてならなかった。その視線は吉又の頭蓋を越え背後の空間を越え……つまり延々続いていくこの世の空間をどこまでも越え、超えてしまった先の新世界へと赴き、届ききっているのだ。

 この世ならぬ領域まで見抜いた怪物がすぐ側へ……そして自分はその召喚者であって…………。


 しかし、体感的に10分だか15分だか……下手をすると30分をすでに過ぎていたのだろうか……それほど長い時間藪田はとうとう何も発さずに居続けるのだ……無論、その見届け人としての吉又はそれにならいとことん無言を続けていた。

 さらに10分くらいは過ぎたはずである……冷房は入れているはずであるのに窓から射し込んだ西日が赤く染まっていく様を肌に感じていると、じわじわと汗が滲みだすのがわかった。否、それほどに、気迫に対峙する気概がぶつかり合って、もの云わぬ熱量を生んでいたのだろう…………。


 「まさか、このまま喋らへんつもりやないやろな」、藪田の向かう先に真摯に対峙していたつもりの吉又もさすがに疑念を抱き始めていた。藪田の、合わせようもない視線をしっかりと見定めていたつもりの吉又であったが、もはやゲシュタルト崩壊を起こす段階にまで到達していたのである。改めてみると、野蛮で粗暴なふるまいばかりの目立つこの男も、時を止めたように臨んでいれば、その厳めしい相貌の掘りの深い一つ一つのパーツが、あたかもギリシャのいにしえの聖人のような気高さで浮き上がっていくのであった。むしろ、彫刻によって長い時間を経たすえに呼び起こされて、永遠の生命を吹き込まれたような、超然とした、『非生命体的』な生命力を否が応にも感ぜずにいはいられなくなっていた。

 「ちゃうで……」、吉又はようやく『解』に達していた。

 「もう、始まってんのちゃうか」。

 

 無言の境地。

 藪田という絶対的な芸人の見せつける、窮極の笑い……それはもう、すでに、始まって久しかったのである。

 マイク一本、言葉と、芝居と、アクションと、熱量だけの、体一つという武器だけで生み出されていく芸、漫才。しかし藪田は、ただ、立っているだけ、という究極の『フィジカル』により、『芸』を際立たせようというのであろうか……。

 常人には到底理解できないであろう境地を、この世における、吉又、たる選ばれしたった一人だけが、そこに直に対峙して、それを読み解いていかなければならないのだ。つまりはそういうことに違いなかった。

 そもそも、過剰な物事には覚醒が宿る。安寧なる日常から足を踏み外すほどの認識の壁を遥かに超越した高踏なる領域。あるいは、現世のロマンを圧縮したような、巨大な、知恵と富と自由と欲望の凝結。古びた角質のような常識的観念を洗い流しそれまで考えようもなかった未知の世界を『笑い』は体現して諭している。

 その中でも、突き詰められたレベルのものだけ、お笑いと芸術アートの架橋である『シュール』な表現でいることができるのだ。

 漫才であって、言葉を発さない藪田の『極北』漫才は、シュールというロマンと覚醒の核融合炉に違いなかったのである。

 「読み解いていかな……」。これまで経験したことのないネタ作り、これは藪田という怪物の試金石であり、また、その相方となるためのイニシエーションなのだ。

 

 「はいどうも~」といってステージに上がる漫才師の二人、云うや否や二人はマイクスタンドを挟んだ状態で向き合ったままストップモーションをかけられている。観客は何事かと思うがその急変にいったん反応して軽い笑いが起こる、しかし通常手渡されるはずのツカミやフリやボケを一切吐いてはくれない。考えてもみなかった事態に直面して客はしだいに静けさをましていく。想念が一巡したところでこれは新手のボケであったかと理解する。何もしていないのであるから面白い訳がない……かつての前衛芸術家、日用品を美術品であると云い切ったり、無音に曲名をつけたりしてそれを表現だと主張していた時代もあったようだが、今となっては全てがまやかしだったことを知ることができた。ネタを書いてこず、これぞ漫才である、と主張するこの無言の漫才師は、どうせまやかしに違いない……。

 笑いを垂れ流してくれる『お笑い大会』という絶対的な安穏を逆手にとったような最大級のボケ。しかし、単に何もしない、ということだけなら、素人にだって誰にだって可能だ。それはただの詐欺師の手口でしかない。こうして客席は興ざめが漂い包まれていく。

 だが、無言で立ちつくす人間を、制限時間内のたった4分の間だけでも、眺めていたことはあるだろうか……? ひょっとしてたったそれだけの短い時間の経験すら、実は過ごしたことがないのかもしれない。もしあったとして、そのような特異な状況は、恋人との別れ話か、仕事で絶望的な失態を犯した場合か、それとも愛する人の死に際であるか。そんなシリアスな場面でしかなかなか経験できることではないのだ。そして場面がシリアスであればシリアスであるほど、何かの拍子で笑いのツボに入ってしまったとするなら、その笑いの誘惑を、かき消すことはできない。なぜなら事の重大さとその誘惑は綺麗な反比例であるからだ。

 ボケるタイミングでボケない、その集積。

 ボケない以上全てがボケへのフリの時間となる、そしてその全てに返すボケは放たれない。

 翻って何も生まれない非ボケな空間全体が、じわじわと……究極の……巨大な……ボケとなって……変容していくのだ…………


 ゲシュタルト崩壊。


 そこでようやく観客は気づく、そうだ、これは、日用品の美術でも、無音のクラシック音楽でもない……そこに立っているのは、れっきとした芸人二人……ステージ上に、そこはかとなく漂っている二つの肉体がことごとく、否、とにかく、宇宙の、確固たる何某なにがしかの存在者であり、メッセンジャーである、それは二つの芸人の、無言の、不動の、言霊となって堂々と放たれているのではないか!


 無言漫才への想像力への飛躍から、真理の覚醒の瞬間、一挙に吉又の視界には現実世界が戻されて、無言でたたずむ孤高の芸人相方藪田と、それに対峙する自分自身とに遭遇して、「これ以上のボケなんてあらへんわ」、と理解していたのである。


「もうええわ」

「ありがとうございました」

 吉又の締めの言葉に藪田は挨拶を返す。

 この瞬間、笑いの神の下、コンビの契りを交わした吉又と藪田はしばらくの間、再び無言で見つめ合った。



 翌朝早朝の出発を控えた最終日の午後、藪田が「せっかくやし、外でも散策せえへんか」と云った。

 究極的なネタ『無言漫才』から始まって、それぞれのこれまでのネタを合わせていったり即興の漫才やコントをやってみたり、実際色んなアイデアを出していき互いの発想を寄せ合ってネタを作りそれを膨らませていったり、というお笑い合宿に相応しい濃厚な二日間を過ごしていた。

 確かにかなりの集中力と気力を使ったのだと思う、いったん解放されなければ、本末転倒で、明日の本番いいパフォーマンスができないかもしれない。吉又はそう考え同調した。

 始めは肩を並べて山奥の道を歩いていたが、しだいに本能に忠実な奔放な藪田の足どりに並んでいるのが困難になり始めて、気づけば後ろから背中を追いかけるカタチとなっていた。藪田の歩みを追っていくのは大変なことだったが、真夏の鮮やかな緑と、標高の高さによる風による葉擦れの音や涼やかさに視界は満たされて悪い気分は全くなかった。

 沢の音が近づいているようだった。山道の右側に斜面があり、大木の太い根がまるで岩のように張っていて、それはよじ登らなければならないほどの大きさで頭上に迫っていた。藪田はなぜかしらそれに手をかけて登り始めた。上りきった藪田が吉又を無言で見下ろしている。仕方なく吉又も上っていった。

 上りきると入り組んだ岩山が高い所まで連なっていて沢が下りていた。藪田はすでに岩山を段々に渡り歩いて結構高い所に達していた。吉又はさすがにそれについていく気持ちは起こらずに藪田の帰りを離れて待った。

 足場のなくなった藪田は、垂直に近い岩肌の急斜面に手をかけて徐々に上り始めるのだった、危険を感じた吉又は、

「なにしてるんすか~藪田さ~ん、怪我するから止めてくださ~い」

 と大声を出す。しかしまったく聞き入れる様子のない藪田。すでに足を掛け本気で上る段階にまで来ているようだ。一瞬、足を掛けていた岩が風化してボロボロッと剥れ藪田はふらついた。「ここで怪我をしたら明日の大会は出られなくなる、元も子もないじゃないか……」。


「なにしてんねん、戻ってけえや!」

 吉又のツッコミを聞いて、藪田はきびすを返して戻って来た。

 それからは藪田も大人しくなった。ゆったりと、たがいのペースに合わせるように。合宿の疲労を癒すような、そういった散策となった。

 陽も傾きかける時間に違いない、そろそろ暗くなるかもしれない、戻った方がいいのだろう。そう考えてみたが、ペンションがどこかはわからない。それでも藪田の勘を信じていれば大丈夫な気がしていた、野生には野生のやり方が通用するのだ。万が一行き道を失ったならば、ポケットにはスマートフォンがあるのだから。


 藪田についていくように肩を並べる。自然たがいに身に着いた定番の立ち位置で。

 視界には岩が減り、植物が増えてカビの匂いの交じった安息香が漂っている。何度も起伏があったため元からどのくらいの高さになっているのか全く掴めていない。ただ、目の前に見えている斜面は、なぜだか厭な予感が全くしなかった。

 それを上りきる直前、やや遠景に宿泊中のペンションが見えた。山中の内部をぐるりと経めぐって長い時間をかけて裏手へと通じたのである。なんだかんだで藪田の勘は当たっていたのだろう。

 息を吹き返したように先を急ぐ藪田へと続いて吉又もようやく、完全に斜面を上る、すると、息を飲むような光景が漂っていた。

 高い樹木に密集していた山道の中で、その一帯だけが開けていた。驚いたのは緑に慣らされた視覚にギャプをもたらしたからに違いなかった。


 一面に広がる緋色の花。


 立ちつくす藪田にしずしずと近づいていく。

 吉又は藪田より、やや後方に立ち止まった、そして藪田越しに燃え上がるような緋色ひいろの花畑を眺めた。圧倒されるほどの凄まじく素晴らしい景色だった。しかし、藪田はその全体を眺めているのではない、そう、吉又はなぜだか直観していた。

 ちょうど中央にそれは咲いていた。鮮烈な、他の花々に並んで……。

 しかしそれは、より一層の『』。

 何よりも、圧倒的に濃く、周囲の花々が淡く感じてしまうような本物の『』色の花だった。

 吉又は、一筋、零れた藪田の涙をかいま見たのだった。



 翌朝。かなり早い時間であったがお世話になったご主人と挨拶を交わし、合宿場を後にした。 

 もうやることはやったのだ、確かに、ネタ合わせの時間は他のコンビには劣るであろう。しかし、この合宿を通して、『真』のコンビとなった藪田と吉又は、紛れもなく『ジムノペディ』として大会のステージに立つ権利を得たのだ、そう実感していた。それは言葉で確認し合わずとも確信できることだった。他のコンビ同様、漫才コンビとして最高の漫才大会へと真っ向から立ち向かうことのできるその心境を手に入れたのである。

 漫才コンビ『ジムノペディ』はその足でその夜『漫才頂上決戦』の開催されるテレビあかつきへと向かった。 

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