濃密な煙
深夜放送とは云え初めての全国放送の生番組を終えて帰宅した頃には、外は薄っすらと明るくなり始めていた。藪田の、林谷との一悶着のせいもあってかしばらくは興奮して寝つけなかった。一向に進展のないコンビとしての不安もあったのだろう。ピン時代から西村との漫才期まで、一貫してネタ作りを担当してきた吉又であったが、憧れの芸人藪田といざコンビを組んでみると、自分が先導しようという気持ちは驚くほど湧いてこなかった。自身の欲する芸へのイメージ……これまでははっきりと掴めていたはずのものが、藪田との関係上、プッツリ途絶える瞬間を直観してしまった。まっさらになった吉又の芸人像は、完全に、相手のイメージをひたすらに待ちわびているばかりだった。想像を絶する芸へのイメージ……自分は本当にあの人と組んでよかったのだろうか? 自分は、あの、芸の巨人を、わずかでも理解することができるのだろうか。目に見えるカタチでネタを提示することのない、その相手への眼差しは、単純に、それが巨大すぎるがゆえ、眩しすぎるがゆえに、明視することが適わないだけに過ぎないのではないだろうか…………
着信音が吉又の眠りを破った時、体内時計は狂いに狂っていた。思考は停止してしまい、肉体は制御不能のまま、鳴り響く電子音がいつまでも通過していくのだった。じわじわと感覚が宿っていく、長い眠りのようだが、実はそれほど眠っていた訳ではないだろう……カーテンを突き破り真夏の午前中の日差しと蝉の声が動かぬ体躯を刺激していた。その間じゅう、いつまでも携帯は鳴り続けていた。
気だるい覚醒が訪れて、経験したことのないほどのしつこい電話先の相手を確かめると、『藪田さん』の表示に飛び起きた吉又は、フトンの上にて図らずも直立してしまった。
「吉又か?」
何分くらい呼び出されていたのだろうか? 藪田はそれについて一切ツッコまずいつもの調子の荒々しい声で要点へと急行した。
「藪田さん、おはようございます。すいません、眠ってましたわ」
働かぬ頭を必死に働かせようと自然追いこむので、体が追いつかずにめまいがした。
「ネタ作るで、合宿や」
「えっ!」
一瞬にして目が覚めてしまった。
「合宿って……どういうことっすか」
「まあ説明は後や、大会の日までには間に合わすで、今からそっち迎え行くから宿泊の準備して待っとけや」
都心から離れてどんどん緑が深くなっていた。車内、しばらく会話を続けていたがしだいにお互い無口になってしまった。
沈黙が続いていく。助手席に乗った吉又は漫然と風景を眺めたり運転する藪田を見やったりした。この状況に置かれていてもさほど苦痛でないのが不思議な感じだった。沈黙を嫌ってわざわざ必要のない会話を投げかけるようなことを、それぞれがすることはなくて。
吉又は、そもそもからして藪田が運転免許を取得している、という真人間な一面をかいま見て意外で仕方なかった。ただ、下手をすると、運転の技術オンリーの、無免許である可能性は充分現実的であり、その方が藪田のイメージにはばっちりと合っている。吉又はそれを、わざわざ確認するような野暮な真似はしなかった。それに、最悪もし、それが事実であったとしても、現に人間界の乗り物をまともに操っている破天荒芸人という『絵』は、それだけで異様な光景であり、また、興味深い非現実性が漂うのであった。
藪田の話によると、車持ちの後輩芸人から借りた、ということだった。何の変哲もない白の、見るからに中古のセダンであったが、みすぼらしいというほどの悪いルックでもなかった。『グレッキ』という別事務所のコンビのツッコミらしいが、その沢村という若手は、吉又とはほとんど面識がない芸人だった。それにしても、名もない若手芸人が自家用車持ちとは……家がよほどの金持ちだろうか? それとも親御さんの車を拝借したのだろうか? そう穿った。
更には、向っている郊外のO町の山奥にあるというペンションは、吉又とはすれ違いで芸人をリタイアした、同一事務所の藪田の後輩芸人の実家であるらしい。藪田は、『お笑い頂上決戦』のための合宿に使うべく、事情を伝えて無料で宿泊と食事を提供してもらうよう交渉したのだった。「ガソリンも満タンやし、余裕で往復できるやろ、なんも心配いらんで」。そう云い放った藪田に、その王様然としたオーラや行動性に感心せざるを得ない心地と、そこに服従してしまう、恐らくは氷山の一角にすぎないだろう『被害者』に思い当たって、自らも恩恵を受けている立場とは云えども、気の毒な心地がしてならなかった。
平野部をかなり進んだ、もうそろそろ山道へと曲がって行く辺りに違いない。
「なあ吉又、『売れる』云うんはどういうことやと考えるか?」
再び、藪田が会話の口火を切った。
「そうですね、手っ取り早い答えはテレビに出るようになる、云うことでしょうね、今の時代『CES』が全てみたいなとこもありますし」
「逆やで吉又。『CES』で上位にのし上がるからこそテレビに行けんねん。お前の得意分野ちゃうかったんけ? それとも忘れてもうたんか」
「否……実際芸人になって思てんのはそこが溶け合ってしもうとるから不分明や、云う感覚ですわ。もはや何が先なんか全くわかりませんよ、せやから皆必死になってテレビに食らいついとるんやないかな、と今となっては思てます」
「まあええわ。お前、テレビにずっと出れるようになりたいか?」
「それは、そうですね……ただ、一番重要なんは本人が面白ろいかどうか、芸が磨かれとるかどうか、そう云う根本的なとこやと、やっぱ思いますわ、改めてみると」
「おお、そうやで、それが『解』やがな。それもわからんとテレビなんか出とってもしゃあないで」
すると、藪田は胸もとから煙草を取り出した。
「吸うか?」
「いいんすか」
「ええで」
「ありがとうございます」
二人は煙草をくゆらせていった。
「まあ云うたら煙みたいなもんやで。『売れる』云うんは広く、せやけど薄~く、煙みたいにして拡散していくもんやで。せやからな。笑い以外に魂売ってもうた状態でどんどん世の中に拡散していくんはめちゃめちゃ危険なことやで。追求していかなあかんのはそっちやないんや。吉又! 俺らは芸人や。芸人云うことはつまり、自らに向かってネタを、芸を、濃くしていくしかないんや」
藪田は大きく吸い込んで濃密な煙を吐き出した。
「ほんでネタ云うもんは果てしなく生み出していかな……そうでないもんが売れてしもうたらな、やがて無意味になるで、全て泡と消える。俺らはコンビとして自らに向かわなあかんねん、とことんやで! そうやって初めて、『売れる』云うことが機能してくんねん」
藪田の言葉を反芻しながら吉又は吸い口を吸って、煙を吐き出す。
「吉又? 俺って面白ろいか?」
「面白ろいです」
「お前には伝わるやろ。どうしてかわかるか? この距離やから伝わんねん。でも見ず知らずのヤツらには中々伝わらんのも事実や、それは俺かて身をもって経験しとる最中やからな。俺のことがお前に伝わったようにそれをコピーして拡散できる、それがテレビの魔法や。そこに人気がどうやとか云う、そんなもんは本質的に、芸として見れば、な~んも関係あらへんねん。全てはな! 面白ろいことやってるかどうかや」
短くなった煙草には口をつけず、藪田は大きく深呼吸をしたように見えた。
「面白んないやつがどんだけ人気が出ても何にもなれへんねん。ただ、面白んないことが全国へと広がっていくだけやねん……拡散する意味なんてなんもあらへんわ、そんなん」
藪田は続けざまにもう一本火を着けた。先端が赤くなりチリチリと紙を灰に変えた、それからフーっと煙を吐いた。
「でもな、面白ろい、云うこと、ネタ、云うもの、それは難しいことへの挑戦やねん。吉又? お前と組もう云うたあの夜や。お前に話したやろ、お前はツッコミボケや、云うて。ほんで純粋なボケ……難しいねん、それはとことん難しいわ……」
吸い込んで煙を吐く。
「ツッコミボケをなめとったらあかんで。そもそも客はどこで笑ろとるかなんて目に見えとるやろ?」
「そら、ツッコミいれたタイミングですよ」
「せや。つまり客が笑う云うことは本当のボケはボケやなくツッコミ云うことになるわな」
「それは云いすぎちゃう? ……あ、すいません」
「謝るなや! ええ調子やで」
「ボケが面白ろうないとどんだけツッコミがテンション高くて切れのいいワード当てたところで……そら、笑いはガンガン取れるかもわからんけど……ベタを好まん客を笑かすくらいの中身のあるネタをぶつけていかん限り本当の面白ろさは生まれへん、勝てへんのやないか、と俺は思うけど……」
「そうかもわからん、でも、それはお笑いちゃうからな、シュールなアートやねん。つまりな吉又、純粋なボケを追窮したら客は魅入られたようにシーンとするもんやで」
「あっ!」
吉又は夢幻的な情景をふいに想起した。あれが現実のものであるか自信はなかったが、しかし藪田と初めてステージに立ったあの夜、死人の藪田に対してシーンと静まり返ったあの雰囲気が今藪田が話している内容と一致したのである。
「まあ……云うたら前衛劇やら美術館やら、あんなもんに近い感覚やな。張りつめたような雰囲気がずーっと続いていくんや……。ほんで、多幸感のオーバーフローに陥った者だけクスクス気づかれんように笑いをこらえているはずやな。そういうんが本当の笑い云うことやで。お前な、せやったとしてや、ベタとシュールはどっちが面白ろい思うか?」
「そら、どっちも面白ろいことやと思いますけど、でもやっぱりシュールのほうが面白ろいですよ」
「せやろが、それが正常やがな。でも考えてみい。シュールとは一体どこから来てんのか……」
「あ、ほんまや」
藪田はニヤリとした。
「シュールは芸術の世界から始まってますよ」
目的地のペンションはかなりの年数を経ているようだが、それが味になっているような風合いのログハウスで、部屋数がさほど多くないようなこじんまりとした規模である、とは云えシーズン中のこの時期にとつぜん押しかけ、しかも無料で、という破格の条件を飲んでくれたほどだ、よほど藪田の交渉が上手かったのか、あるいは破天荒藪田の殺人的なプレッシャーの賜物であろうか。恐らくは後者であるような気がするのだった。
「ああ、お待ちしてましたよ、藪田さん、お久しぶりだね」
「この度はほんまにありがとうございます、コイツが新しい相方の吉又です」
「よろしくお願いします、吉又と申します」
藪田らしからぬ丁重さに吉又は面食らっていた。しかし考えてみれば舞台というフィールド以外では破天荒、という『芸人としての見栄』を切る必要はないのだ。実はかなり常識的な部分を底に持っているのが『藪田』という男の本質なのではないか、と吉又は初めて考えた。
「清晴がいれば挨拶をさせたんだけどね、はははっ。あいつ、藪田さんに気おくれして逃げてしまったみたいだよ」
そう云うとご主人は更に笑ってみせた。
「アイツは俺のほとんど同期やから、アイツが芸人時代はかなり仲良うさせてもらっとったんです、せやけど、それだけでこんなご恩をいただけるのは、ほんまは厚かましいことやとわかってます」
「いやいや、気にすることない。私はね、あいつが芸人をやめて帰ってきたことがとても苦しかったんだよ。そしてあいつも相当苦しんでいた。藪田さんほど、あいつは本物の芸人ではなかったからね、だけど、夢を追ってきたのはわかっている、面と向かってそうしたわけじゃないけれど、私はあいつを応援していたんですよ。でも夢破れてしまった。あいつね、藪田さんのこと、よく私に話しましたよ、特に晩酌の時にはね。本物の芸人は彼だ、藪田だってね」
「恐縮です」
「そんなわけで、まあとにかくあの大会に藪田さんたちが出ると聞いて家族みんなで喜びました」
「そうですか、ほんまおおきに」
「だから、ウチを使ってネタ作りの合宿をやってくれると聞いて、とても驚きました。ぜひともお越しいただけるよう手配なさい、って、正直私のほうが一番乗り気だったんだよ」
主人がまた笑った。
「藪田さん、出世払いと仰られてて、私はとても嬉しかった、お返しをしてくれなんて思ってませんよ、それより、いい結果を期待してる、ただそれだけです。それが私にとって一番ですよ」
案内された部屋でしばらくくつろいだ。しかし、そればかりではいけなかった。すでに一日目の夕方。二泊したのち早朝にはテレビ局へと直行しなければならなかった。
藪田はまだ動こうとしない。お笑い合宿である……いい齢の男二人が相部屋で。吉又はソファに掛け、藪田は少し離れた場所の畳張りにあぐらをかいていた。
吉又は動かない藪田にいかに同調できるか思案してみて、藪田がどのようにネタを発想し、作り上げていくのか、そしてネタに応じて、自分がどのように藪田の世界観へと溶け込んでいくことができるだろうか……ということをイメージすることにした。
藪田は持ち前のアクションで笑いを生んでいくタイプだ、それに、言葉を融合させていく。しかし設定やボケはその場の空気を踏まえた上でのアドリブを徹底的に重視しているであろうことは、吉又は見抜いていた。つまり、作り込まれたネタを、練習して、本番にぶつける、という一般的な切り口は、藪田らしくもなければ、彼の面白さを失わせることにもなりかねない、下手をするとそんな気さえするのである。そう考えると、どうして漫才コンビを組んでしまったのであろう、と不可解な因縁にポジティヴではいられなくなる。
しかし、組んでしまった以上、自分も、それに乗ってしまった以上、藪田という大船の、舵を取るのは吉又であり、藪田自身でもある、それが、自分たちの組んだ理由で、因果で、使命なのだ、そんな強い気持ちを吉又は見いだすことができた。
すると、仏像のように不動であった藪田が、ようやく、ゆったりと立ち上がり、吉又の元へと近づいた。
「ほんなら、ぼちぼち動くで」
吉又はコンビを組んで以来、初めて、藪田が前進している姿を見たのだった。




