深夜の決闘
通常ならば優勝コンビに与えられるポイントでその日の出場芸人たちと打ち上げへと向かい、飲み代を奢るというしきたりがある。しかし審査員全員満点を叩き出してしまったために、その夜は第二位だった『シャンティラブ』が、仲の良い芸人のみを引き連れて小規模な打ち上げをすることになったようだ。
まだコンビ名すらない『藪田メドゥーサ&吉又ナオキ』は、後日のテレビ出演のための打ち合わせを運営控え室にて行うために呼び出されることなったのである。
テレビ局関係者から込み入った話を聞かされた。時期的な関係で、有名バラエティのためではなく、一週間後に開催される『お笑い頂上決戦』の事前番組の打ち合わせを急遽行う運びとなったのであった。
始終神妙な面持ちを崩さずに、聞き逃すまいと集中していた吉又は、大筋は理解できたものの、これまでの芸歴においてほとんど縁のなかったテレビ収録の、専門的な話や用語が多く、自分は本当に理解できたのだろうか、と少し不安になった。
打ち合わせが終わるまでの間、藪田はずっと鼻をほじり続けていた。見るからに視線は宙を漂っていて、彼がうわの空であることは一目瞭然だった。「この人に詳細な部分のフォローを期待するんは、そもそもが無理な話やで」。そう思い吉又は、自分が踏ん張るしかない、と最後まで気を張っているのだった。
夜道を歩きながら昔のことをつらつらと考えていた。
藪田には、「飲みにいくで、めでたい日やがな」。そう誘われたが断ってしまった。こんなことなら優勝ポイントが加算される通常の優勝のほうがマシなのでは? と一瞬考えたが、のちの栄光をイメージするなら、経費の関係上端折られてしまうという不可解なテレビ出演決定者への無ポイントという措置に対して、今は飲みこむほうがいいのだろう、と冷静さを引き戻して無理やりわが身のこれまでの不遇続きのすえの生活苦を納得させるしかなかった。
もちろん先立つ物のないという、物理的な約束事はあった。しかし心の底では、吉又が新しい相方に対する警戒心を潜めていたことが何よりの本音であった。酒癖が悪く出禁の店も数知れないと芸人仲間からは聞かされていた。そもそも、この人はポイントをわずかでも持ち合わせているのだろうか? と穿っては。
ギリギリの瀬戸際で綱渡りを続けている売れない中堅芸人の藪田は、そのような生活苦を一ミリも顧みることはなく、まして、旧い時代から連綿と続いてきたはずの『芸歴の長い者が支払う』という暗黙のルールなど全くお構いなしに、これまでの現場に居合わせた後輩芸人たちからポイントを巻き上げ私腹を肥やしてきた、という恐ろしい噂を思い出してはゾッとしていたのである。しかしその夜からは単なる先輩ではなく、相方であり、曲がりなりにも憧れの存在である藪田へと、悪辣なイメージを優先させている小心者の自分が醜い、とも気づかされて苦しい心地だった。
とは云え、藪田がために消費者バンクへ向かうほかなくなったという世にも憐れな若手の犠牲者もいるのだから、警戒心を優先させることは、コンビを続けていく上でも『悪』ではないのかもしれなかった。
「藪田さん、酔っ払っていつも暴れまわっとるらしいやないっすか? 入れる店この辺にあるんすか」。吉又は思い余ってそう訊いてしまったのだ。
ギロ。と鋭く向けられた視線に背筋が凍った。しかし即座に恐ろしい気配は沈んだ気配へと入れ替わっていた。
「よう云うわ、これでも穴場はいくらでもあんねんで」。しかしそう云うと藪田は一瞬落ち込んだ表情に思えた。
「お前今ポイントいくらやねん」。吉又が左腕のリストバンドを差し出すと、互いに言葉を発することはなくなった。
「今日はええわ、祝賀会は次の機会に持ち越しや」
結局そう云って別れた。
まともにポイントがなかったせいだろうか、そもそも行ける店が近辺にはなかったからだろうか。きっとその両方だったのだろう。
『吉又なんてアホの行く所や』
たびたび思い起こす幼い頃の記憶である。転勤族の父のおかげで様々な地域や学校を移ろいゆく根っこのないような生活。元は関西在住の父母であり、物心がつく頃までの間はずっと関西に住んでいたことはなんとなく覚えている。
お笑いの聖地とも云える関西にあって、なぜだか母は、その象徴『吉又興業』を毛嫌いしていて、それは見事に吉又自身に刷り込まれていった。その後何度となく転向することとなる関西の学校では、『吉又』という名前のせいで、
『お前吉又に入ればええんとちゃうん』
と事あるごとに発せられる、全く面白くないツッコミに対して辟易する以外なかった。それが故か、ますます吉又の『吉又』、ひいては『お笑い』嫌いの体質が造られていったのである。
しかし、何の因果か本当に芸人になってしまった現状に対峙すると決まって、「どうせ芸人やるんやったらホンマに『吉又』にしといたほうがよかったんやないか」。という後悔に苛まれるのが毎度のオチであった。
タクシーで帰るポイントすら持っていない、しかし一時間ちょいを歩いてさえいれば自宅に辿りつける、という地の利だけは、数少ない有り難みの一つだった。
部屋。持ち物が少ない割に散らかったワンルームのアパート、万年床に小さな丸型のローテーブル、小さな冷蔵庫。それ以外の、最低限の必需品すらなくて、家電製品はおろか、衣類ラックや本棚が皆無、そのせいでますます散らかるばかり。
ゴミにしたって何ヶ月分ものゴミ袋が溜められていくのはいい方で、そのまま散逸しているものも多かった。中でも主な食糧源であるコンビニ弁当の殻が所狭しと床に積まれているほどだった。
冷蔵庫を開ける。驚くほど空っぽの冷蔵室を見て舌打ちをする。野菜室を引き出してみると、覚えのない袋入りの野菜が入っている。マヨネーズを取り出して、腐りかけたセロリをかじる。この日はこれで我慢するしかなかった。
空腹をごまかすためにコップも使わずにシンクへと頭を突っ込んでそのまま水道水をたらふく飲む。
『カキョゥ』の打ち上げを当てにして、弁当のストックも空の状態だった。コンビニに勤めるのは、消費期限切れの弁当を持って帰ることができるから、と云い切っても過言ではないだろう。無論、スケジュールの関係でシフトを休日にしてしまったのであるが、それ以上の過失としては、自分自身が優勝し、しかしポイントが全く加算されない、という思いもよらぬ悲喜劇を予想だにできなかったことであろう。しかし、それを予想できる者は、きっと誰もいないはずだ、占い師にだって予言者にだってわかるはずもなかった、そんなあり得ない状況が自分の身に降りかかったのだ、そこに思い当たれば何一つ現実味がなかった。ただ、満たされぬ腹だけが現実的で。
食べきったセロリの空の袋を眺めていて、ふいに記憶が蘇る。事務所の後輩の岩村が珍しく「吉又さん、家で飲みましょう」、と誘ってきたのだ。ほとんど遊んだ記憶すらなかった岩村が、「酒、貰ったんで」、と云い放った言葉に甘えたのだ。
つまみやコンビニのパスタを持参して、酒類もそれなりに用意して訪れた岩村と酒を飲みかわしていると、しばらくして来客があった。
答えは簡単だった、岩村にはそこそこ可愛らしい彼女ができたばかりであり、単におのろけをしたかったのである。要は相手が誰でもよかったのだ。結局それ以来岩村とは疎遠になっている。
しかし若いわりに気立てのいいお嬢さんと云った感じで、風采の上がらない岩村には正直もったいないほどだと感じた。彼女もスーパーで買ったらしい食材をビニール袋に下げ持参してくれて、手料理まで作ってくれたのだ。
飲み明かした翌日、夕方ごろにようやく目が覚めた吉又は、きれいにゴミを整理された部屋を見て妙な感動を覚えた。それ以来、手料理にありつけた覚えなど、ない。
腐りかけのセロリの匂いが袋から漂って、苦みのあるマヨネーズの味がこみ上げるような思いがしていた。
『テレビ暁』のスタジオは広かった。これでも四番目の広さだというが、吉又にとってみれば十分な絶景の広がりであった。
『お笑い頂上決戦』の事前番組で、深夜、一時間半の生放送であるが、吉又はおろか恐らく芸歴十五年にほど近い藪田にとっても最も大きなテレビ出演に違いなかった。
緊張感の絶えない吉又に対して、しかし藪田はさすがのオーラと云ってよいだろうか、全く普段通りの無関心な様子を貫いているのだった。
収録の前日、藪田から連絡があり「ようやくネタ合わせができる」、と期待して待ち合わせ場所に向ったものの、「コンビ名は『ジムノペディ』にせえへんか」、ただそう云われただけだった。響きが悪くなかったせいか、由来も訊かずに承諾すると、「よっしゃ、ほなよろしく」。そう云って別れてしまった。きっと藪田だって単に耳ざわりの良さを採用しただけに決まっている。それに、藪田にネタを催促したところで無駄なこと。そう納得する以外なかった。それでも、大会を三日後に控えた生放送本番ですら、何の音沙汰もなしにただ鼻ばかりほじっている藪田を、心配になるのは当然であった。また、あの日よろしく即興漫才をやろう、と云いだすのではないだろうか……、と。
生真面目なタイプの吉又は、一時間ほどのリハーサルを何度もイメージしながら本番に向かった、一方、藪田は本番ギリギリでようやく現場入り、とまるで大御所だった。
「さあ、いよいよ始まりました『お笑い頂上決戦』事前番組、頂上を掴むのは俺たちだ」
司会者は本決戦でも司会を務めるベテラン芸人の梅野優作だった。進行のみならず芸人を上手く回してコンビの魅力を引き出すことに長けた巧みな司会者である。吉又は流れに身をまかせてさえいれば大丈夫だ、と思っていた。ただ、藪田がどうしても気に障って仕方なかった。特に、ひな壇のちょうど前、真ん中の段の左端に座っている『吉又』の中堅コンビ『デメテール』のボケ担当林谷の藪田に対する反応が気がかりであった。『デメテール』は今大会において最もベテランコンビであり、藪田の唯一の先輩コンビだった。テレビでもすでに売れっ子であったが、『お笑い頂上決戦』の決勝戦は悲願の初出場であった。
勝気な林谷が破天荒な藪田を快く思っているわけがない。まして、リハーサル時の藪田の態度から本番ギリギリまで入ろうとしなかった無礼、更にはまぐれ当たりのように大会直前突如出場を決めたという意外性まで、林谷は『ジムノペディ』へ、窮極には藪田に対してかなりあからさまに敵意を示しているのがわかったのである。
幸い、司会の梅野が芸歴とは相反するフレッシュなコンビ『ジムノペディ』を上手くいじってくれた。そのおかげで世間の注目も高まるに違いなかった。しかし藪田はとことん無関心を貫いていた。
誰かのボケに合わせて息を合わせて倒れ込む、というお決まりのひな壇芸をただ独り無視して動かぬまま、そればかりかカメラに抜かれたとしても目線を合わせることもなかった。大半は鼻をほじっている時間だった、このクセは何なのであろう、見慣れてしまった吉又でさえ、時々不可解に思い考え込んでしまう瞬間がいまだにあるくらいで。しかしその光景に見慣れない芸人からはなおさら不思議であったことだろう。
ただ、それさえ梅野の手に掛かれば美味しい材料だったのである。しだいに藪田の破天荒さがフィーチャーされていき、皆が倒れ伏すアクションのさなか、動くことのない藪田の『鼻ほじり』を抑える、というパターンが出来上がって本番は結果いい流れへと向かって行ったのだった。
本番が終了した、どうにかトラブルを回避して本番を終えたことを吉又はホッとしていた。更には梅野から「お前ら面白ろいわ~、噂通りやったで。期待してるからな」。と、有り難い言葉を貰うくらいだった。
その日は決戦前、しかも深夜だったということもあり、打ち上げは行われなかった。
ようやく解散となった瞬間だった。
不意打ち、とはこのことであろうか。何事もなかった、という解放感をひそかに味わっていた吉又を尻目に、振り向き様林谷が罵声を浴びせた。
「テメエなんて態度してんだよ!」
ギクリ、としてしまう。梅野の優しい言葉に完全に油断してしまっていた。しかし、吉又はあえて謝罪を行なう状況ではない、そう判断した。林谷は明らかに藪田に怒っていた、ならば、藪田の態度に全てをまかせてみよう、と。
「なんやねん、テレビ慣れしてるヤツの戯言かいな」
「先輩だぞ! 少しは敬いやがれ」
「先輩かしらんけどアンタに払う敬意は湧いてけえへんで」
「ふざけんな! 調子に乗ってんじゃねえぞ、梅野さんがどんだけ神経使ってくれてると思ってんだよ、テメエらの実力なんてコレっぽっちも関係なかったんだからな」
「かったるいわ~。テレビ的な話はいったん度外視しようやないか……あ、あと、芸歴も一回リセットしようや。あの仕来たり云うんかな、ホンマに効率悪いねん」
「テメエ干されんぞ、撤回しろよ!」
「別に……俺テレビに出たくて芸人やってるんとちゃうで」
「見栄張ってんじゃねよ、テメエらが喜んでたって話はすでに耳に入ってんだよ」
「まあ、厳密に云えば嬉しいで、注目されて大きくなっていくんはな、でもや、お前らのしとることみな本末転倒や! なんやねんアレ、面白んないぞ、笑いの基準値低すぎんねん。しょーもない視聴者に媚びるために魂売んのか? どっちが大事やねん、芸の神様か? 視聴者の安心立命か? お前らどっちに魂売んねんな」
ここで林谷の言葉が切れた。運悪くこの修羅場に居合わせてしまった四組のコンビは動けなくなっていた、スタッフもざわめいているが、しかし気迫に押されて触れられなくなっているようだ。これでは収拾がつかないか、あるいは、藪田の口の強さを信じるか、そんな状態だった。
「まあどっちでもええ、お前らがどっちに魂売ろうと関係あれへん、でもな、そんなしょうもないこと強要せんといてくれるかな~、そんなん反吐が出るわ。お前ら冷静な目で見たらどう写っとるかわかるか? 買われた猫やねん、そんなもんがお前らの理想やったんか、そもそもこの国があかんねん、あかんヤツらがのさばりすぎたせいやろ~な~、ま、くつがえす力も持たんヤツはお前みたいに騒いどるんやろうけど……うるさいねん、黙れや」
「おうおう、場外乱闘はアカンで」
救いの神が来た! そう思った。収拾のつかない現場の情報を聞きつけて梅野が舞い戻ってくれたのである。
「お前らが衝突するんはしゃあないで、芸風も違えばテレビ慣れも違うからな。でも、悪いけど俺、どっちの気持ちも痛いほどわかるわ~。でもな、今回はネタで刃を交わすための決戦やがな、ほんなら倫理観ぶつけたあったって本末転倒やで、ここではネタが全てや、それに、面白ろいヤツが勝てる、ただそれだけのことやねん」
梅野の懐の深さによって、この日、深夜の場外乱闘は、どうにか収拾がついたのだった。