カキョゥ
2030年代に入りディスコテークブームが再燃していた。都内某所、小規模ダンスホールの『CLUB link』にて月一で開催されるお笑い大会『カキョゥ』は、数あるお笑い大会の中でも明らかに攻めた企画だった。若手からベテランまで演者の芸歴は幅広かった。『CES』を使ったランダムな選抜が基本であるが、事務所推薦枠などしがらみもあるようだ。
しかしいざ大会が始まれば、4名の審査員によるガチな審査が行われていき、その点実力主義な大会だと云えた。回ごとに入れ代わりの多い審査員の好みは大抵バラバラなことが多く、終了後公開される採点シートにも顕著である。
優勝回数が10回に到達すれば、有名バラエティ番組と、年一回開催の『お笑い頂上決戦』への特別枠での参加が確定する。つまりお笑いの『科挙』システムだと云えよう。更には、並居る審査員より全員満点が付けられると、たった一度の優勝で10回優勝同様の権利がもたらされることとなる。『架橋』という意味合いが小さく込められてはいるが、実際それはあってないようなものだと芸人たちからは認識されていた。
以前から吉又は『カキョゥ』への出演時には、楽屋に二つ並んだモニタのうち審査員のリアクションを覗こうとする癖があった。かつて自分がそちら側の人間だったという過去が知らず知らずにそうさせているのだ。
よく笑う審査員は笑いに敏感だが、好みにも偏りが激しかった。憮然とした表情の審査員には、造りこんだネタでなければ響くことがなかった。表情やリアクション、もっと遡れば素の相貌自体、で審査の傾向をおおよそ予測することが可能である。審査員の癖を見抜くためにわざわざ用意された物だ、でなければそもそも必要ないだろう。他の芸人からは置き物同然の扱いを受けている審査員側モニタに対して吉又はそのような考えがあった。
「どういうことっすか……藪田さん」
一瞬、和らいで見えた表情も、元の厳めしい顔つきに戻されてしまった。しばらく答えがない。
「漫才やらへんか……俺と」
沈黙を破り、真剣なままの表情とトーンで藪田は吉又に告げた。憧れの芸人が自分と組む? 確かに破天荒な藪田の芸に近づこうとネタや芸風を寄せていた時期はあった、しかし、声量や荒い声質に圧倒的な違いを次第に思い知らされていき、自分に合った芸風へとシフトしていった過去がある。結局、藪田に寄せられるのは髪型ぐらいのものだった、と。
「俺、藪田さんみたいな圧倒的なものがない芸人ですわ、ボケやし、ない声量をごまかしてぼそぼそ喋る芸風でどうにかなっただけですし」
気おくれ! それをごまかすための言い訳が口を衝いて出る、反面、それは本音でもあったのだが。
「確かにお前らの漫才は面白ろい思てたで、ただな、問題もあんねん、だから西村も逃げてもうたんや思うわ」
「ちょ、それを云わんといて下さいよ」
にわかに、藪田の顔が変化を始めていた。『福笑い』、その形容がピッタリの変幻。藪田は顔つき、のみならず数知れぬボディアクションのバリエーションを得意とする芸人だった。
緊張感にみなぎった場面で不意打ちの顔ボケ……
「ぷっ」
吉又はこらえることができずわずかに噴き出してしまった。
「なんや、オカしいんか?」
「いえ、すいません」
吉又はズボンの裾ごと両脚をつねって必死でこらえた。
「云うとくがステージ降りたら俺はただの人間や」
そう云い切る藪田だが一向に激しい『顔変』が止めどなく。真剣な眼差しを吉又へと向けているにもかかわらず、顔のパーツが一斉に回転しながら行きつ戻りつを繰り返すのである。苦しい……真顔を造りながらも気道では制御が利かずに高速で出し入れされ、過呼吸となって気が遠くなるほど、苦しい。
「見てて思うんはお前のネタ、ツッコミやねん。ボケやない」
藪田はやっと真顔に戻っていた。少しの間吉又は息を整えていった。
「お前西村と組む前にピン芸やっとったやろ」
「……はい、よう覚えてましたね」
「お前の一番面白ろい思てるネタ、どれやねん、云うてみい、『カンムリワシ』か、『八宝菜』か」
「いや……」
確かにウケのいいネタだった。しかし思いついたネタは西村と組んだ漫才ではなかった。藪田の云うとおり吉又は漫才師として何かしらの問題があったのかも知れない、そんなことに始めて思い当たっていた。
「ウルトラマンが二人おるヤツか、メガネ掛けて漫才するネタか……」
「『メイドに憧れるオッサン』です」
吉又は気づいてしまった、コンビを組み漫才で追及してきた笑いより、藪田に憧れてピン芸をやっていたわずかな時期の芸のほうが面白さでは上だった、ということに。
「なんやそれ、覚えてへんぞ」
「そうやと思います、ピン時代のほんとに初期のネタですわ、天狗の面をつけたサラリーマンが『メイドになりたいわあ』云うて卵を割るネタなんです、『ちっとも割れへん卵やないか~』云うてるんですけど何パックもボールに割っていきよるんですオッサンが」
下卑た大声で藪田が笑った。
「中々やんけ! 秀逸なツッコミやで」
「なんやねん、純粋なボケやんけ」
一瞬、時が止まり世界は氷に包まれてしまった。
「……すいません、藪田さん」
「なんでやねん、コンビ云うことは同志やで、タメ口で喋るんは普通やないか、それとも、断りたい云うことなんか」
「いえ、俺でいいんすか」
「お前ならイケる思たんや。ただし条件や。お前のはな、ツッコミボケやねん、そんで俺のがボケやで。やからな、お前の思てるボケ云うんをそのまま俺にぶつけたれや」
「わかりました……先輩」
「なんや嫌やったらはっきり断れや。先輩云うことは組まへん云うことやし」
「す、すいません。ホンマに、俺なんかで……なんやろ、藪田さんに先輩とか云うたことなかったはずやのに。完全にテンパってもうてるやん」
「じゃあ決まりやな」
「藪田さん」
「藪田でええ」
「否……でも5歳も上ですよ」
「ホンマしつこいな、でも食らいつくくらいがツッコミにはええかもわからんわ」
「藪田」
「なんや」
「藪田……さん、やっぱしばらくは無理ですわ」
「しょうもない、根性あらへん」
「すいません、よろしくお願いします」
「なら敬語だけでもなんとかせえ。ネタ中におかしなるやろ」
「それは……そうやけど」
「まあええ、今日はクジ運よかったから大トリやがな、さっそくやるで」
「さすがにそれは無謀やんけ! あ、すいません」
「なんであやまってんねん、まあええ、それも面白ろいがな。じゃあ決まりや、全部即興で漫才や、俺が出たら、遅れて入ってこいや」
「……最悪や」
吉又は思わず呟いた。
本当に何一つネタ合わせをせず、とうとう大トリの藪田の出番となった。吉又は二度目の舞台袖、ただし、今回はずっと憧れだった芸人と一緒だった。信じられない光景に、恐れよりも宙に浮いたような心地が上回っていた。
本日最後のBGM、単なるクジ運の大トリであるにもかかわらず、観客のテンションは高く、歓声が大音量のハウスミュージックを上回るようですらあった。
『あ~~偉いこっちゃで~偉いこっちゃで~云うて喉から卵黄出してまんねん云うとりますが、舞台袖で砲丸投げ選手圧縮してジグソーパズルみたいにしてぎゅうぎゅうに敷きつめとったんやもれなくタイツ履いてんねんけど。アイツらうるさいねん、5秒おきにクルクル回転してきよるからやね一向に眠られへんねん、「早よせえや」云われてやね、圧縮して手ごねハンバーグの要領で丸めた砲丸投げ選手投げたった後「うおおおおおおお」云うて振り向いたら顔中サングラスやがな、オッサン何個がけしとんねん訊いたらやね「拙者は鏡モチです」云うてくるからやな時代いつやねん云うて、ミカンが乗ってへんぞ、贋者やないか~! 云うて教えたったわ、まだ真夏やのに』
マイクスタンド一本の漫談スタイル、「出番はいつなんすか」、と吉又が訊くと「安心せえ、合図送ったるから」、と藪田は云った。しかし、どういった合図なのかさっぱり自信がない。
『まだ寝起きやぞ、気分悪いわ~、俺寝起きやと血液にネアンデルタール人の壁画が流れよんねん、邪魔でしかたないわあ、日雇いやで、毎朝行列作っとるからやな、俺も並んだろ思てたら一人ひとり人工透析せなあかんからやね、大変やで。ほんで抜いてみたらそいつ血だらけや、はあはあ云うて俺のこと睨みつけてきよるからな、ホンマしんどいわ~グミキャンディー噛まんと飲み込んだったわ。こんな顔してんねん』
藪田は顔ボケを始めたらしい、血だらけ人間の形態模写は悲鳴まじりだがかなりウケている。しかし……どこに入り込む余地があるというのだろう、そもそも。今日わざわざ漫才をやる必要があったのだろうか。
舞台の中央で藪田が倒れ込んだ。ザワザワと、笑い声混じり異様な空気が流れる。
『この中にお医者様はいませんか~!』
伏したまま、一声叫び、パッタリと完全に藪田は動かなくなった。しだいに重苦しい雰囲気が会場を満たしていく……。「まさか、これが合図やったんとちゃうやろな?」。しかし、死人のように動かなくなった藪田を見すえて「行くしかないみたいや」、吉又はそう判断する以外なくなった。
眩しい! 舞台上がさっきの出番よりなお一層の『白』に包まれている、と感じる。目を細めつつ吉又は、しずしずと藪田の伏す中央へと向かっていく。
『呼ばれたんやけどここでよかったんか、自信ないで』
イチかバチか! 藪田のリアクションを待ってみるが何一つ応える気配のない死人の藪田。
「どういうことやねん」
思わずぼそりとこぼす。しかし、無反応。会場のざわめきはより悪化していく。「駄目や、何か云わな」。
『俺、医者やねんけど死んでもうた人にはなんも施されへんで』
重たい空気ながら少しだけ笑いが起こる。だが完全に切羽詰まってしまった。藪田との掛け合いでどうにか即興を、ともくろんでいたが、これではただ呼ばれただけ。まさか、死人のボケを本気でやっているとでもいうのだろうか……?
『この中に住職はいませんか~』
苦し紛れのボケ、しかし大してウケはない。このまま藪田が死人を続ければ、最悪の結果になることは目に見えている、もはや、自分の力量では収拾がつかなかった。気が遠くなる……どうして藪田はこの日の舞台に即興漫才をやろうとけしかけたのだろう。マイクスタンドの下方に伏した藪田の少し後方で吉又は途方に暮れているしかなかった。
ちょうど漫才の立ち位置だった、ニョキニョキニョキ、と人影が伸びていった、すると隣の立ち位置にもニョキニョキニョキと。どちらも藪田の幻影だ、そして下方には、死人の藪田。吉又は異様な幻想の光景を漫然と眺める以外、なにもできなかった。
『楽しみすぎるからやね』
『ほうほう』
『眠れなくて鮟鱇吊し切りやりながら行ったんですよ』
『極端か! ほんでフルフェイス被って歩いとったら宇宙服とそんな大差あらへんゾー!』
『ほんで映画始まって3分で熟睡ですわ』
『夜用に代えたんやろーなー、心配なるで』
『催眠ガス撒かれたんちゃうか思ってやね。腹立つわ~あの映画館、オサマビンビン=オ=チンチン勃起罪で極刑やでホンマ』
『お前が寝てへんかっただけやないか』
『いや、寝てる云うねん』
『寝てない云うてたやろ、寝てんのかいな。ほんならさっきの鮟鱇吊しなんやってん!』
『睡眠はとってるよ、10分置きにとっとるがな』
『病気やで~! ブリタニカ百科事典でぶん殴ったるからな』
『失礼なヤツやな、病気やない云うねん! 俺病気やから10分置きに寝えへんかったら逆に病気やで』
『病気云うとるやないか、なんやねん寝えへんかったら逆に病気って。そんなん明太マヨネーズを点滴で輸血やがな』
「何で幻覚どうしが漫才しとんねん」
吉又はしばらく呆気に取られ、しかしとうとう幻覚漫才にツッコまずにはいられなくなった。
「俺何しに来てん、幻覚漫才ただ眺めてるだけやないか」
吉又はふいに倒れ伏す藪田の口元が目に入る。藪田は口をパクパクさせているのだった。
「そんでアンタが操っとったんかいな」
『たいがい俺空からお空が降ってくるやろ』
『空は降ってけえへんよ、ちょうど! それカタツムリちょうど!』
『でも10分置きに寝てまうからやね、実際は少女のままやねん』
『ほぼ就寝やないか』
『そやねん』
「そんでさっきからなんやねん、夢遊病者みたいなネタ、笑いのポイントが微妙すぎんねん」
『しかもよう見たらソイツ顔真っ白やねん、ダイヤルついとるしやね』
「ほんで盛りすぎやねんさっきから、プリクラやあらへんねんゾー!」
『顔真っ白ってもしかして粉吹いてんのか?』
「なんやねん返しがそもそもオカしいねんコイツ」
『パクパクパク』
「本物~! ついにパクパク云いだしてるやないか」
『仕方ないからごめんなさい云うて全部引き出しに入れてもうたがな、同じタイミングで頷いとったオバハン全員メガネやったで』
『それええなあ、メガネ好きやねん、ジュースがクルクル通っていくタイプの』
「最も特殊なヤツやないか!」
『メガネメガネ』
「なんやねんそのパクパク」
『春巻きがスコールとなって降り注いどんねん、ロマンティックやろ~』
「どこがや!」
『蛾やなかったんか』
『お空に飛んで行ったわ』
「会話になってへんぞ」
『ヒラヒラヒラ』
『だからなんのパクパクやねん』
『臭くてしゃあないからやね、亡命したったわ、さようなら~中華人民共和国!』
『なんやねん亡命先は餡やないか!』
『ますます臭いがな、ボクは餡に取り込まれた、春よ。ボクを巻け!』
「なんちゅうセンスない抒情詩やねん」
『もう飛んでいくわ。さようなら~』
『さようなら~』
「もう戻ってくんな!」
『戻っては来るんやで~』
「最悪や……幻覚と会話してもうた」
『ビョーキビョーキ』
「パクパクで教えんなや、えかげんにせえ! ……はっ」
BGMが鳴り響く。吉又がツッコんだタイミングで制限時間がピタリと合わさっていた。
「まいど!」
藪田は知らぬ間にマイクスタンドの前へがに股で立っていて、挨拶をするやクルリと向きを変えて舞台を去っていった。
吉又は「どうも!」と一声、逃げるようにして藪田の後を追った。すぐに追いついて藪田が振り返る。
「藪田さん! なんやったんすか、訳わからんうちに終わってまいよったわ」
「吉又、初めてやったにしては上出来やで」
結果発表。今夜出場した15組のコンビと司会者が上手から中央にかけて並び、審査員が下手へと向かい合う。
「それでは優勝者の発表を、審査委員長田沼幸平さんよりお願いします」
田沼……。この男は吉又と深い因縁を持つ者であった。『カキョゥ』の審査員の常連であり、委員長を務めることも多い、『吉又興業』に所属する放送作家だった。『CES』の導入にも尽力した経済においても大人物で、芸人育成にも余念がなかった。彼の主催する『田沼塾』は若手芸人のみならず、伸び悩むベテラン芸人の再生工場としても高名だった。よって『カキョゥ』、『田沼塾』はお笑い界の二大登竜門とされていた。
田沼は、辛口審査の傾向の強い他の審査員にもまして、最も辛口で、しかし笑いにおいて最も的確な審査員であると芸人たちからの信頼を得ているほどだった。反面、田沼の参加する回は、『該当なし』の徒労に終わることも多く、この夜の並居る芸人にも、諦めムードが漂っているのは確かだった。
「では、発表します」
と、田沼の一声。
ずうぅん。と重い効果音が鳴り渡った。緊張感が舞台上に、客席に、ヒリヒリするほどに広がっていた。
「15組目『藪田メドゥーサ、吉又ナオキコンビ』」
「えっ……」
吉又は思わず声を上げ藪田を見やる、なぜか藪田は鼻をほじっていた。
「今回の優勝者は、審査員全員が満点でした。おめでとう」
「マジでか!」
言葉を失った吉又に変わり指を右の鼻の穴に突き入れたまま、今度は藪田が大声を上げた。