最後の切符
都内の某多目的ホール。熱戦の繰り広げられたステージと中継された巨大モニタの前には、この日出場した総勢52名のピン芸人たちがひしめきあい、ある意味、殺伐とした異様な熱狂に包まれていた。
『ピン芸人頂上決戦』の進出者を決める『予選3回戦』の演目が全て行われ、約一時間半の選考を待った。客席の大半はまだ、ピン芸人たちの決勝進出の瞬間を見届け、送り出そうと長い待ち時間をいとわずに残っていた。
『頂上決戦』への切符は全部で10枠。その内の9枠はすでに決定し、最後の1名を発表する段取りとなっていた。9枠目の切符を射止めたのは、吉又が現在最も意識する漫才コンビ『シャンティラブ』の曽根川。コンビであるにもかかわらず彼らは、貪欲にそれぞれ、ピン芸人としてこの大会へと参戦し、のみならず曽根川はそれを射止めたのである。
それだけではない。その片割れである北田もすでに決勝進出の1枠を射止め、中継されたステージ上、他の決勝進出者と居並んでいたのだった。
曽根川は最後の1枠を待つピン芸人たちに気を使ってか、大きな喜びを表すことはなくステージへとつながる通路を足早に進んでいった。
『それでは発表します!』
この日司会を務めたベテランコンビのツッコミ担当が発表の掛け声を放っていた。
吉又はまだ呼ばれていなかった。全身全霊で挑んだ一回戦、二回戦は、ピン芸人としては新人ながら順調に勝ち進んだ。『田沼塾』で運命的な出会いを果たした『大御所!タコ入道』の衝撃的な『ピン芸』に触発されて、それまで仕上げていたネタをいったんリセット、更なる『攻め』、を込められるようネタを練り直し、磨き上げた。加えて、あの日、田沼より伝授された『CES』攻略法を融合させ、『賞レース』を突破するための『ネタ作り』と『芸風』を突き詰めていったのだった。吉又の理想とする『シュールを玉』とし、『客への貫通を石』とするなら、一言でそれは『玉石混淆』な、それでいて至高のネタがようやく誕生した。『シュール』かつ『アングラ』なその『芸』は、吉又にとってかつてないほどの鋭さと『面白ろさ』が込められた最高傑作の3本となった。
しかし、最後の最後まで、結果は訪れてこなかった。残された最後の切符は、とてつもなく遠く……掴んでみたところでスルリとすり抜けてしまいそうな。一縷の望みとして吉又の胸の奥へと迫っていた。
吉又と隣り合った『タコ入道』も同じであろう。否、彼にとってみれば19年という更なる積年の思いがその胸に谺しているに違いない。初めての出会いから数ヶ月、吉又と『タコ入道』はかなりの仲になっていた。同じアングラかつ、攻めた、シュールなピン芸を追求する大きな心意気は、精神の深い部分で交感する『同志』として、すでにつながっていたのだった。
出来うることなら二人して『頂上決戦』に進出したかった、しかし、吉又の胸にはもう、そのような甘い考えは消えていた。隣り合う『同志』さえ蹴落とす覚悟は備わっていたのである。「最後の切符はだれでもない、俺が掴むんや!」。吉又の魂は熱く、熱く、燃えたぎっていた。
『「ピン芸人頂上決戦」。最後の1名は……』
テレビ中継されることのない静粛な、独特の雰囲気。会場に待つ観客も、芸人たちも息をのみ、声にならぬ凄まじい気迫だけが漏れだして、会場や、芸人の集められた舞台裏のこの部屋じゅうへと、充満していた。
そこに、大袈裟なBGMなどの演出はなく、無言の静けさが広がるだけだった。
『エントリーNO.11……』
その瞬間、吉又の心臓が一瞬だけ止まった!
1000番台……つまり……ノーシード。この並み居る芸人の内で……ノーシードと云ったら…………!
『……69。「吉又ナオキ」!』
ゴオオオオォォォォォォ!
そのどよめきは並み居る芸人たちの激励だ、と吉又は感じていた。最後の最後……まさかだった……! しかし、心の底では「俺しかおらへんやろ!」、そのような気概と自負が轟いていたのだった!
「……や……やったで……!」
…………勝者。その栄光の瞬間は思いも寄らぬほどに弱々しい声で放たれた、しかしハッキリと強い実感が込められた、複雑な……だが、太い反応だった。
吉又は決して夢見心地ではなかった。これは、現実に広がる輝かしい『未来』へと続く道だ、そう確信していた。
「よかったな吉又!」
ただ一言。そして隣り合う『同志』は『おめでとう』と強い眼差しで勝者へと語っていた。
「ほら、早く行け! 皆が待ってんぞ!」
告げた『タコ入道』は吉又の背中をばちん、と叩き活を入れた。
夜も深く……。
二人はとある居酒屋にいた。吉又の住む町の、こじんまりとしているが朝型まで営業している、居心地の良い居酒屋。
その居酒屋。
『お笑い頂上決戦』の後、吉又と藪田が朝まで飲み明かしたあの居酒屋なのであった。吉又と藪田の最後の時を過ごした思い出の居酒屋。
吉又の祝賀会と、『タコ入道』の慰労会、残念会を兼ねた、『同志』の愛を深め合うための特別な時間だった。
「今夜は下心なんて余計だ、差しで飲み明かすぞ、どっかいいトコねえのか?」
そう云い出したのは『タコ入道』のほうだった。
もう深夜。二人はかなり飲み明かし、言葉を交わし、完全に、深く、酔っていた。大会の疲労と興奮を鎮めようと知らず知らず、たがいに眠りつつ、会話も途切れ途切れになっていた。
「なあ、吉又?」
『タコ入道』の久しぶりに放った真剣なトーンを無意識的に察し、吉又は急に酔いを醒まされたように真剣な表情を返した。
「どうしたんすか、『タコ』さん?」
「俺らさあ、急激に近づいてさあ……。こんな大事な夜にも一緒にいる仲だよな。もはや鉄板じゃん?」
「なに云うてんすか『タコ』さん、照れるやないすか。ほんま恋人に贈るようなセリフでっせ」
「俺だって恥ずかしさこらえて本音でしゃべってんだからな、茶化すんじゃねえったら」
「いやいや、茶化してる訳やないで」
「……まあいい。俺らが急に近づいたのもな、芸風が似てたからだよ。俺たちは『アングラ』だ。周りに見方なんて基本、誰もいねえよ。こうして出会えたのって奇跡なくらいだ。藪田もそうだよな。俺、アイツ、一番好きだったぜ」
「ほんまっすか? 『タコ』さん」
「ああ……。でもな、お前みたいに近づきやすくはなかったんだよな~。だからほとんど中身、どんなヤツかは知らねえよ」
「そうですか……」
「なあ? 『芸』としてみれば俺、藪田が一番好きだ……お前は二番」
「それは……俺かて……一緒ですわ」
「まあな。でもな、今日のお前のネタ見て、俺、正直、藪田を見てる気がしたんだわ」
「マジっすか『タコ』さん」
「あ~ほんとほんと、まあお前に足りないのは体格だけかもな。でもさあ……お前にはお前の良さがあるんだよ。だから、俺、今日からは藪田も、お前も、一番の芸人になったわ」
あまりの言葉に吉又は言葉を返すことができなかった。
「何が云いたいかっていうとさ。俺、お前には勝ってほしいんだな」
「……そうですね。全て出し切りますわ。そんで優勝できたらなんも云うことあらへん。でも、全て出し切るんやったら……結果はどうであれ……」
「なに云ってんだよ。勝ってくれなきゃ困るぜ。俺はお前に続く覚悟はできてんだから」
「『タコ』さん。こんな若手に云うことやないですよ」
「いいんだよ吉又。でもな、優勝云々じゃねえ。俺、お前には、アイツら。『シャンティラブ』には負けてほしくねえ。お前が負けてるなんて、俺には到底思えねえんだよ。でも、客がどう思うかは……まあ、全部お前次第だぜ!」
「そうすね……、俺かて、アイツらには負けたくないですわ。アイツら、正直この前まで見上げとったんです。でも、そんなんやったら勝負前から負けとるやないかって。そう思い直しとるところですわ。せやから。今は、北田も、曽根川も、蹴落とす気持ちしか残ってませんわ」
『ピン芸人頂上決戦』。
『頂上トーナメント』の4名へ、吉又はみごとに勝ち進んでいた。
『ピン芸人頂上決戦』は7名の審査員、それぞれの持ち点100点により採点が行なわれる。一回戦。その内の上位4名が『頂上トーナメント』に進む。そしてその後2回の『タイマン勝負』により、『ピン芸人の頂上』が決定する。
最も点数を叩き出したのは優勝候補筆頭の『昼顔』。何に対しても『指し棒』ひとつで解説してしまう『解説芸』は、ネタとしての完成度が高かった。
しかしそれにも増して何より盛り上がったのは、『シャンティラブ』の二人がどちらも『頂上トーナメント』に残ったことであった。
手堅い、ポップなネタを作り込んだ印象の曽根川より、吉又がより、意識したのは、体一つで気迫のこもった攻めたネタに挑んだ印象の北田だった。
運命の振り分け。
トーナメントは、『昼顔』vs『曽根川』。そして、『北田』vs『吉又』。
笑いの神はそのような振り分けを行った。
BGM。『ピン芸人頂上決戦』、一回戦には自己紹介的な煽りのVTRが流される。しかし、『頂上トーナメント』からは余計な演出が施されずに、シンプルに、熱気と、緊迫感とを煽る、BGMのみの演出となっていた。『頂上トーナメント』第二組、いよいよ吉又の戦闘相手、先行の北田の出番であった。
しずしずとセット裏から登場した北田は、ステージの中央に立っていた。先ほどのネタはセンターマイクを中央に据えた漫談だったが、今度は趣向を変えてきた。小道具やセットなどの飾りの類は一切なかった。ステージにはただ、北田の肉体ひとつ。
ネタが始まってからしばらく、北田は全く動きを見せず沈黙するばかりだった。漫才コントで踏襲されるしぐさ。立ったままの状態で両手を肩の高さよりやや上方まで上げて、指先を正面にしてこぶしが握られている。つまり布団をかぶっている、というお決まりのしぐさだった。
異様だった……。ネタの冒頭からずっと無言のままでストップモーション。硬直してしまった北田は、目を閉じた状態でしつこいくらいに動こうとしなかった。
顔の売れた甘いルックスの色男がなにもせず立ちつくす……しだいに『沈黙』の舞台から『間』、が生まれていき『笑い』へと変容していく。何もしないことで客席にはますます笑いがじわじわと倍加する『空気』、が広がって行く。これは知名度と人気を逆手にとった仕掛け、他の芸人ではこうもうまくはハマらなかったに違いない。
北田は持ち前の『しつこさ』で一つのボケを効果の最大限まで絞りつくす。この傾向が北田の顕著な『芸風』だった。
『はっ』
突如。
北田は目を見開いた。また固まる。客席は北田のしつこさにすでに同調しきっているがゆえ、北田のちょっとした変化にも敏感に反応するのだった。まさしく北田は、引きつけてから攻め込む、『引きの芸』だと云えた。
『はっ』、の一言だけでかなりの時間を使い切った……初っ端から北田は攻めていた。
『朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん、朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん…………』
まるで九官鳥みたいに同じセリフを繰り返す。
就寝中のしぐさをやめ、正面左側へと移動して、ドアを開ける素振りをパントマイムで続けている。体ひとつ、という姿勢は同じであったが、今回のネタはアクションを多用するためにセンターマイクは余計なのだろう。
その間じゅう『朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん』は息継ぎなしと思えるほど延々と繰り返されていた。
『朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん、朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん…………』
延々。
しかしカギがかかったようにドアノブは固くなりひねることができない。
『朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん、朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん……。』
ここで、ようやくセリフが途切れた。再び沈黙により、客を引きつけ『間』が生まれていく。
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
左へと横向きになっていた北田は首だけまっすぐ向きにして突如、謎の擬音を早口で放った。それから『朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん』が再び始まって固いドアノブをひねり始めた。
『朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん、朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん…………』
すると、ドアノブが右へ左へ逃げていくようなパントマイム。北田はかなりストレスを溜めていき……
『ぼうぼうぼうぼうぼうぼうぼうぼうぼうぼうぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
ドアの面に向かって尖らせた指を連打で突いていき、『ぼうぼう……』の掛け声から『ぼうわああああっ!』の掛け声で両腕をドア面中央から外向きに広がしてドアをとうとう破壊してしまった。
『朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん、朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん…………』
北田は後ろ向きになったり右や左やに移動してやがて洗面台へと向かう。その間ずっと『朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん』…………。
そしてちょうど中央へ正面向きのポジションでようやく立ち止まった。
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
またである。突如謎の擬音早口。しかしパターン化された狂気は、ハマればむしろ客側に期待が生まれて根づいていく。『天丼』は客と演者の共有物となっていき、笑いを生み出す架橋という『装置』になっていく。
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
北田蛇口をひねる。
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
北田歯ブラシをとる。
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
北田歯磨き粉をチューブよりしぼり出す。
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
北田歯磨き粉の乗った歯ブラシを蛇口の水につける。
北田はいちいちのアクションに些細な変化を施している。『歯磨き』のパントマイムではややうつむきになるが、『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』を繰り出す時には北田はドヤ顔で正面を向くのだった!
ようやく歯磨きの準備が整った。
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
北田は注がれた水で口をすすぐパントマイムをしながらの発狂。
先ほどからの些細な変化だが『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』を客へ視線を送らず放つという裏切り。その変化は北田に集中している客にはうまくハマっている。
狂気が静まってやっと黙った北田はニタニタと嬉しそうに笑い歯ブラシの先に乗った歯磨き粉のペーストを眺め恍惚とする。
しばらくの沈黙………そして堰を切ったように狂った素振りで歯磨きのモーションを始めていった。
『朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん、朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん、朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん、朝起きてすぐ歯ぁ磨くんが今一番のマイブームやねん…………』
歯を磨きながら! 北田はこの瞬間、『叫び歯磨き芸』という新たなジャンルを世の中に切り開いたのだった。
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』
…………また! 水のくだりだった。しかし今度は腰を屈めた状態から完全に首から上だけを起こして正面向きになっていた。
そして途中からは口をすすぐことすらしなくなり『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ!』のみを客へと向かって投げつけるばかりだった。
ようやく『歯磨き』が終わる。
北田、心なしか疲弊した様子もある。
『出発するで』
ここに来て初めてまともなセリフを放った北田。会場はもはや完全に彼の世界観に染めあげられてしまっていた。
『行ってきま~あああれ?』
北田は驚きの表情をする。
そして指を差し、
『あれえええええ? お母さん凍ってもうてるやないかああ!』
もはや意味不明。狂気の北田シュールワールドが放たれていた。
別を指差して。
『あああああ、お姉ちゃんなんか氷柱になってもうてるで~~』
そう云い放った直後、
『出発するで』
常人に戻るあたりがもはや狂人!
『行ってきま~あああれ?』
北田困る。
『ドアがひねられへんぞーー! 凍っとるやないか~~!』
北田は足を踏ん張って両の拳を握った恰好になる。
『ぼうぼうぼうぼうぼうわああああっ! ぼうわああああっ! ぼうわああああっ! ぼうわああああっ! あああああ~~~!』
北田突然ひっくり返って地面に倒れ伏した。
『ぼうわああああっ! ばっかり云いすぎてまる焦げになって死んでもうたやないか~~~』
訳のわからぬオチの一言が北田より放たれて会場には勢いよくBGMが流れていった。
客ウケは相当なものだった。北田は吉又に対して狂気の『叫び』パントマイム芸を仕掛けてきた。
吉又の演目は、CMも挟むことなく、どよめきと歓声の交じり合う完全に『北田』ムードの会場、『アウェー』感へと飛びこんんでいくカタチとなった。
出番が来た。




