藪田とカワズ
浜岡から聞かされた『藪田の失踪先』話に、吉又が受けた衝撃はかなりのものだった。『吉又』移籍後、じわじわと再起モードへ進んでいき、自分の目指すべき道、『鋭さとシュール』の追求、を少しずつ見定め、その核へと突入しつつあった吉又の行くてを阻むかのように、突然の、過去からの呼び声が立ちはだかって、その巨大な声を一身に浴びてしまった。
不意打。内部よりしずしずと巣くっていくものがあった。不本意なるブレーキの強要……やがて吉又の、『行動性の領域』にまで達してしまったその、魔力のような絶大なる『負』のエネルギーが、吉又の精神全体を覆いつくしてしまうまで、ほんのわずかな時間をも要することがなかった。
新天地にて、極力、考えることを避けていた藪田のイメージに引き込まれてしまった吉又は、芸人生活の新たな礎だった『吉又Loop』での公演へのモチベーションが、ほどなく削がれていった。「藪田さんのいるかもしれへんO町へ行ってみようか、でも今さら行ってみてどないすんねん。今、もし、藪田さんに会うてしもうたら、それこそ全てが瓦解してまう気がするわ……」。
『Loop』での初舞台から一貫して『新ネタ』にこだわり続けていた吉又であったが、減退してしまったモチベーションから、新たな『面白ろさ』を生み出すための鮮烈なエネルギーを呼び起こすことは不可能だった。モチベーションに漲っていたここ数ヶ月間、例えば多忙なスケジュールの結果『新ネタ』を卸せなかった回があったとしても、『過去ネタ』を再利用することは避け、白紙の状態から全て即興で舞台へ上がる、という挑戦的な試みがなされ続けた。それは舞台上での失敗すら芸人としての闘争本能を刺激して新たな発想を生む、という完全な『攻め』の体制の現れだった。それまでの芸人人生において経験することのなかった好調さを誇っていた吉又にとって、いかなる悪条件であっても『新ネタ』を絶やすこと、というジンクスの否定は、守りの姿勢であって考えられない『逃げ』の遂行だった。
しかし、ジンクスは破られた。それまで太陽のごとく燃焼状態を続けてきたモチベーションの炎が吹き消されてしまった以上、白紙からの奇跡を起こす霊感はもはや通り過ぎた風のように逃げ去ったかつてのイメージにすぎなかった。
芸人を続けているというあたかも天駆るようなある意味狂ったハイテンションが思いもよらぬほどにバランスを失い、むしろ常人としては並、の心情に転落していくほかはなかったのである。それは芸人としての瀬戸際。吉又は危機一髪における英断を駆使して、結果として芸の道の危機より首の皮一枚にてつなぎきることをどうにか成功させていた。つまり通常の芸人たちと同じ目線に立つということを引き受けていく道であった。思えば数ヶ月間というわずかな時間の中で、知らずしらずのうちに吉又は、世の中における最前衛を走り続けていたのだ。そしていったん、意想外にも呆気なく、凡人にすぎなかった素の自分自身へと戻されることになった。
高踏の極致という永遠の時間感覚への没入から引き戻された吉又は、数ヶ月間のデジタルな時間感覚に立ち会い、それを一つひとつ振り返っていくように、それまで演じてきたネタを再演していった。
結果的にハイテンションを煮詰めた先の混じりっ気ない『素の芸』を吐き出し続けていた状況を見いだしながら、一連のネタの数々に立ち会うきっかけを作ることで、吉又の新たな次元へのブレークスルーとなった。ひたすら自らを追い込み、追い込まれた状態すら苦痛ではなく変わりない日常とて染まっていた吉又の『芸』、との対峙を、今度は足元から見つめ直す『芸人』としての自分、との対峙へと移行した。芸の『荒』などお構いなしに勢いに任せて進み続けた濃密な期間からの解放は、想像を絶する類のネタを生む『ダイナモ』である全能感の喪失と引き換えに、『芸』の未熟さや未完成なネタと次々対峙していく中で生まれる懊悩の連続が手渡された。
「確かに突っ走ってこんな遠いとこまで来れたんは驚きや、せやけど……藪田さんはまだまだ遥か地の果てや……俺からはまったく見通せん領域を……更に、とんでもない速度で突っ走っとるがな…………」。
藪田への意識を振り切り、藪田の教えを忠実に体現するように『自らに向かう』ことを続けた。しかし、どれだけ吉又『自身』を煮詰めていったところで自身は藪田にはなれなかった。追いつくことのできぬ、決して、越えることのできぬ巨大な断崖は、吉又の行く手にただただ影を落とすだけのものであった、と今になって知らされるばかりだった。
それでも、自身の芸を今度は外側から対峙して、少しずつでも『芸』の弱さや綻びを知っていかねばならないのだった。吉又は新たなネタへのモチベーションを失っておよそ一ヶ月、『Loop』におけるネタを再演しては、その傾向を見いだし、分析し、その微調整を施していくことで、少しずつ、別のアプローチにより、自分の『芸』を研いでいったのだった。
藪田の失踪を知った前回の『ナギサと達磨』の収録からひと月が経ち、その日は『芸の振り返り』の始まりから初めての収録日だった。
元々、『分析的』であった吉又は、自らを分析していく日々の集積の成果により、以前にましてなおさら周囲の芸人やそのコンビの持ち味を敏感に感じ取ることができ、番組の中心的役割をそれまで以上にかなり上手くこなせたという手応えを持ち帰ることができた。
そんな中、番組内で思いも寄らぬ出来事があった。約2週間後開催される『テレビX』系列の全国放送、年末のゴールデン生番組『お笑いネタの祭典』へ、吉又と『カッタン』の二組の出場が決定した、との報告を番組スタッフから受ける、というサプライズ。『お笑いネタの祭典』は全てのネタ番組の中で最も出場者の多い高視聴率番組で、今、を代表するお笑い芸人が若手からベテランまで集結する、代表的なお笑い特番だった。『お笑い頂上決戦』のような『賞レース』の部類ではなくて、あくまでネタの披露こそが目的の番組だが、しかし数々のお笑い大会の歴代のチャンピオンがこぞって参加しているという意味では、数ある賞レースを凌駕するほどの『戦い』がそこでは繰り広げられるのであった。
急激に吉又の目下へと最大級の試練が迫った。『Loop』にて新ネタを作り続け、ようやくその意味合いを知り始めているという境遇である吉又は、この突然のステップアップにおいてピン芸人『吉又ナオキ』としての活動の集大成をぶつけていかねばならない、と激しく沸き立つ思いで見定めた。
『テレビX』の敷地に面する海浜公園。レギュラー番組を持つことで思いもよらず月一度通う縁となり、その移動のさなかに見やることも多かった海沿いの景色。しかしスケジュールにおける最短ルートを逸れてわざわざここへと足を踏み入れたのは、今ある多忙な毎日を掴むきっかけとなった『吉又』所属の発端である『あの日』以来だった。
午後の凪いだ海、その先にすっと引かれた水平線、冬のはじまりのくっきり鮮明な青空。漫然と景色を横目に見ながら埋め立てされた硬い地面を歩いていた。
「これで『CES』のランクもうなぎ登りですよ、吉又さん!」
嬉々として話しかける『カッタン』のツッコミ江越には、ぎこちない笑顔を取りつくろうことしかできなかった。『お笑いネタの祭典』の『ウケ』しだいではそうなれるかもしれない、しかし、この結果がどう転ぶかなど現時点では何一つわからないのだ。江越の云うように『ナギサと達磨』の人気が浸透したおかげで『CES』の評価が上がったことは紛れもない事実であろう、吉又やその他レギュラー陣の生活のレベルは急激に高まっているのだから。しかし、番組でも披露されているような芸風通りのネタを演じる『カッタン』とは違い、吉又の『ピン芸』は、そのレギュラー番組における芸風とは真逆の芸風であり、そのギャップがために、大失敗に陥る可能性のほうが確率としては高いような予感がしているのだ。たとえそうであったとしても、吉又は、自らの信じるネタの方向性を変えて『置きにいく』ことだけは考えなかった。
自問自答が景色を過ぎていく。
吉又は、ふいに現れた光景に肝を冷やし、狼狽してしまった。「藪田さんが……居るやないか……」。
吉又の目線の先には防波堤にかがんでいる少年の姿があった。明らかに藪田ではない。だが、天然なのかパーマなのかは不明だが、細かく縮れたロン毛の髪質や、掘りの深い相貌は、藪田と瓜二つだと見てとったのだ。
少年はぴょこぴょこと緑色の何かを撥ねさせていた、すぐにそれがポンプ式の、空気を送りバウンドさせるカエルのオモチャであることがわかった。奇妙な光景だった。少年の動かす隣りには、本物のカエルが、オモチャのカエルのバウンドに反射して飛び跳ねている姿が見えたのだった。
なぜかしらその光景に吉又はしばらく釘付けになった。ぴょこ、と大きな跳躍へ反応してぴょこぴょこぴょこ、と細かい跳躍が続いている、少年は面白がってそのイジメを続けていく……。オモチャの人工的な跳躍と比べると、実際のカエルの跳躍は、わずかな距離を稼ぐにすぎないのに、柔かさと強靭さが宿っていて造られたアクションには成し得ない迫力が満ちていたのである。
「そうや!」
吉又は少年に届くほどの大声を放った。藪田と吉又の決定的な『違い』、本物の芸との『深い断絶』が、一瞬にして覚醒されたからだった。
吉又には根本的に藪田に負っているものがあったのだ、という気づき。それはとても単純なことだった。つまりは『体格差!』。吉又は藪田に劣る声量を補うために、全体のパワーバランスを『声』に振り切っていた節があった、それだけではない。『アクション』においても……。
吉又に比べて藪田は、大柄で筋肉の鎧に包まれた恵まれた肉体を、最大限に『芸』へと活かしていた。が、それは並ならぬ迫力を体現しているにもかかわらず、そこに表されたいちいちの動作において、力が抜けたしなやかな躍動の連続がなされているのだった。衝撃と呼ぶにふさわしい、動的なボディアクションに並行して、静的な『気品』がそこには満ちていたのだ、それは無論、『荒々しい声』にも同様であって……。
藪田に比べて凡人にすぎない吉又の体格や体力、それを藪田と同じパフォーマンスに落とし込んでみたところで、成しとげられる芸は貧しさに他ならなかったのだ。
「そうや、俺は自分の首を絞めとっただけやで……、ほんまもんの『芸』を生むんやったら、真逆に振り切らな……」。ようやく吉又の意識へと、本当の『解』が訪れようとしていることを、吉又は悟ったのである。2週間後の本番へ……吉又の中に成功への糸口がふいに訪れているのだった。
少年のもとへ彼の父らしい姿が近づき、ほどなく二人は向こうへと去った。父を見て少年との面影の共通点を認めた瞬間、少年の相貌からは『藪田』が去っていた。その代わりとて、吉又の心中には、明確な藪田のイメージがしばらくぶりに降臨しているのだった。
『テレビX第一スタジオ』。バラエティ番組の王者と呼ばれる『テレビX』のもっとも大きく華々しいスタジオには、総勢70組を超える芸人が集結していた。生放送はすでに始まっていた。ゴールデンにて冠番組を持つような一流芸人も10組を下らない。彼らを除いた若手や中堅は皆、ブロック別に同じ大部屋の控え室へと集められていた。吉又がネタを披露するのは番組のちょうど中ほど、『注目の若手』というくくりのコーナーであり、ファミリーである『カッタン』だけでなく、『お笑い頂上決戦』で二年連続準優勝した『カモノハシ』でさえ同じ部屋に振り分けられ待機していた。賞レースとは違った華やかさのおかげか、大部屋全体には芸人どうしのふざけ合う大声や笑い声が絶えない、和やかな雰囲気が漂っていた。芸人ウケの高い『カッタン』藤井は、水を得た魚のようにはしゃぎ回り、イジられながら次々と笑いを生み出していた。「こいつハート強いで……」、しばらくファミリーの順応性の高さを感心していた吉又であったが、自分の『芸』の達成に、やがて照準を合わせるべく部屋の隅へと向かい、深呼吸をしながら精神を研ぎ澄ませていった。
もう一組、同じ隅の方でネタ合わせに余念がないコンビの姿があった。
『シャンティラブ』……。彼らは『カキョゥ』で10回優勝という順当な勝ち上がりパターンを成し遂げて、吉又たちの『ジムノペディ』の翌年の『お笑い頂上決戦』の『カキョゥ』枠での出場を果たし、結果は惜しくも4位、決勝となる『頂上決戦』には涙を飲むカタチとなった。
吉又とは少し離れた場所から伝いくる気迫。通常のコンビでならば、初出場にして4位の成績を叩き出せたのであるなら、それだけで天狗になってもいいほどの好成績だ。しかし、彼らは違っていた。3位とはわずか10点差。その敗北に彼ら二人は悔しさを顕わにしてこの年の『お笑い頂上決戦』から退いた。以来、テレビ番組への出演は大幅に増え、『CES』のランクもインフレを起こすほどの、名実ともに若手最注目株となりおおせた。
しかしその結果に甘んじることなく、翌年のリベンジを誓って、『Loop』に出演したり、月一回の単独ライブを開催したりなどして、舞台、ネタ作りに対して、精力的な活動にいそしむ貪欲な姿勢をみせ、吉又の耳にもその噂は届いていた。今、吉又の目に写る彼らの気迫は、その噂を証明する確たる事実をありありと物語っていたのである。
『シャンティラブ』の更なる覚醒に対峙して、吉又は、奮い立つ以外の情念が、生まれてくることはなかったのだった。




