緩やかな死の宣告
打ち込みの無機質な轟きが響していた。あまねく施されたウーファーから放たれる四つ打ちのベースドラムは、空間を伝い硬い床面へとぶつかってダイヤモンドの乱反射のように、砕け、分散しているような錯覚をもたらす。高速のBPMに同調するように、高まりゆく心拍数がやがてピタリと一致して、異様な気分に襲われてしまう。
暗がりのホールを、ミラーボールがキラキラと輝きを放ちながら天井近くで回転し、けたたましいほどのせわしなさで横断する幾重ものレーザー照明と、降り注ぐブラックライト。妖しげな演出が満たしている。シンセの高音とひどく歪んだシンセベースの重低音がビートに被さって、視界を満たすありとあらゆる物体が、一瞬、酩酊しているかのようにぐにゃぐにゃと踊り始めるというあり得もしない景色と写されて、おぞましい心地になる。
「そんなに飲んだわけやないぞ」。吉又はそう思いながらも、本番を前にしてそれこそ10分おきに訪れる尿意に苛立ちながら、フロアの隅を小走りでよぎっていき、先ほどバーカウンターであおった2杯のダブルのストレートのテキーラを後悔した。
決まり事などない。何をするにも自由な身、だが通常、ステージを前に芸人が酒をあおることなど常識的に考えられることではなかった。しかし、二日前、突然相方から解散の要求を突きつけられ、泣く泣く受け入れざるを得なくなった彼にとって、苦肉の策でピン芸のフリップネタを用いて臨んだ初めてのステージへの重圧が、それまで培った芸人としてのテーゼをあっけなくくつがえしてしまった。
小便から戻ると一組目、『アタッカーズ』の演目がすでに始まっていた。ディスコテークには不似合いなパイプイスがフロアには並べられ、月一開催のお笑い大会を目当てに観客でひしめいている。関係者通路のドアを開け、落ち着きのない素振りで楽屋へ向かう。
楽屋へ入るとモニタを囲んでソファには芸歴の長い先輩芸人たちが陣取る姿、ソファの周りにも沢山の芸人たちが立ち見となってそれぞれ映し出された演目に食い入る。ご丁寧にもモニタは二つ並べられて、演目を正面から捉えた画面と、二階席から眺め下ろす審査員のリアクションを正面から定点で押さえた画面とが映し出されていた。
『もうやめさしてもらうわ……やめへんからな!』
『なんやねんやめへんって。波乱やないか!』
『ずーと気になっててんけど……ドット顔人間ってなんやねん急激に限界突破やがな! お前にはそう見えてんのか、俺の顔も、お客さんの顔も、カクカク動いとるようにしか見えてへんのか!』
『本気にしてんのか! ネタやがな、そんなん信じるとか真性のヤバいやつやで、お前ネタ合わせん時からズーとひとつの疑問を抱えながらやっとったんかいな。お前のボケで閉じなあかん漫才ってなんやねん』
楽屋に哄笑が立ち上がる、小型スピーカーへ届けられた客ウケも上々だが、これは明らかに芸人にウケるタイプのネタだった。ネタを総括するようなメタなツッコミは、ネタにおいて一番の笑いどころへと据えられる、掛け合いのトーンを変えブレーキのかかった状態から終盤の怒涛の掛け合いにつなげていく常套手段である。しかし『人間』というべきネタ中のセリフを全て『ドット顔人間』と何度も言いかえていたボケを一度もツッコまず、オチのお約束から突然の旋回、ツッコミ役がパターンを裏切り、メタなツッコミをぶっこむという攻めた構成だ。一番の笑いどころをオチに作り出す、という理想的な展開の発明に、笑いに最も敏感な芸人たちが反応するのは当然のことだった。噴き出した笑い声からにやつかせたままの芸人もいれば、真剣な硬い表情の者も少なくはなかった。
「ウケてんなあ吉又、面白ろい思たかお前」
「あ、藪田さん。おはようございます」
中背で細身の吉又を見下ろすような視線を向けている。この夜の大会において唯一、同じ事務所の芸人だった。大柄でごつい肉づきをした藪田は相貌も険しいいかにもワルな見てくれ、細かいパーマを当てたワイルドなロン毛は吉又と同じであるが、実は破天荒な芸人藪田に憧れて吉又が真似ていたのである。
「大丈夫か? さっきも挨拶したやんけ云うてたばかりやぞ、ちゅうか何回目やねん」
「ああ、すいません」
「お前顔赤いな……もしかして飲んでんのか」
「緊張があまりに酷いんでつい……でも二杯だけですよ」
「なんやねん。破天荒やな」
「藪田さんにそない云われるなんてどんだけのことしてんねやろ俺」
「まあ、二杯だけやろ」
「テキーラをWであおりました、二杯だけ」
「お前Wを二杯ってそれ四杯やからな。幼児期の単純計算や! 結構飲んどるやないか」
「……そう……ですよね」
「出番いつやねん」
「次の次ですね」
「なら舞台袖でスタンバっとかなあかんやろ」
「もうすぐ呼びにくると思います」
ドアが開く。
「吉又さん、吉又ナオキさん、スタンバイお願いします」
「待合室か! なんで二回云うねん」
藪田のツッコミに皆が笑う。
「ほら呼ばれてんで、コンビ別れの相方さんよ」
「それ今云わんといてくださいよ。めっちゃテンション下がりますわ」
吉又は芸人たちの合間を縫ってせかせかとリュックに入ったスケッチブックを取り出し楽屋を後にした。
舞台袖では吉又の前の出番の『ばいばいアーチ』が小声と小さな身振りでネタ合わせをしていた。相方の不在が否が応でも重くのし掛かる、養成所でコンビを組んで以来、ピン芸など本当に久しぶりのことだった。元はピン芸人を目指していたとは云え、漫才に慣れてしまった今さら一人きりで舞台へ上がるのは並ならぬ苦痛である。しかし、芸人を続けていく以上、いかなる『底辺』なコンディションでも舞台に上がれるチャンスに逃げ場はなかった。
「ネタ飛んでまうかもわからへん、まあアドリブでなんとかなるやろ」
吉又は独り言ちる。知らぬ間に舞台袖は一人になっていた。
『云われなくても分かってるわ!』
ツッコミ岩野の一際大きな声に一斉に生み出された笑いは怒号のようである。
「なんちゅう甲高い声出しとんねん。オペラ歌手のディアナ・ダムラウちゃうんやぞ」
苛立ちに任せて吉又が叫ぶ。それからもどよめきは二、三度生まれては消え波音のようだった。その間掛け合いの声は聞こえてこなかった、一度沈んだ声がじわじわと、遠い地鳴りのように微かに聞こえザワザワしながらたびたび笑い声が生まれている。
「間で笑いを取りにいくなや! やりづろなるやんけ」
大声で毒づいていた。我に帰って吉又は案内されて隣り合った次のコンビと目を合わせ気まずい表情ながら軽く素っ気ない会釈をしてごまかそうとしてみる。相手はあたかも男性アイドルのような甘いルックスをしたいずれも芸人らしからぬ色男、ブレーク寸前とささやかれる『シャンティラブ』だった。
「次お前らかいな、とことん最悪やな」。吉又は心で嘆き、
「もうええ、すべり倒したるわ」
相手からそっぽを向いて壁にむかって一言吐いた。
会場に見合ったハウスミュージックが鳴り響く! BGM、いよいよ出番だった。
「行くで!」
スケッチブックを小脇に挟み両手でパチッパチッ、顔面を叩いて自分に檄を飛ばす。
舞台の下方にひしめく客……暗がりへ注がれたブラックライトのせいで人々の唇から覗いた歯並びがことごとく紫に光輝し浮んで見えた。拍手と歓声が入り混じりいい塩梅のテンションだ。
ゆったりと睨め回し、客を端から端まで。
『なんやねんコイツ。新人か……そう思ってるヤツおったら。全員殺す、お前らの住んどる部屋の水道に緩~い毒混ぜ込んでやな、10年くらいかかるタイプの犯罪や、なんで死んでいくか一向にわからへん、そもそもグレーゾーンな死に方やで』
暗すぎて客の反応がわからない、否、最初点在していたはずの紫は閉じられてしまっているのかほとんど見当たらなかった、考えに考えたあげく深夜のハイテンションで危ない方向のネタをツカミにぶち込んでみたが、ものの見事にスベってしまったようだ。哀れにもクスり、という笑い声すら届いては来なかった。
闇……あり得ないほど眩さで満ちていく……闇は消え、わずかに見えていた客の輪郭は消え、全て、真っ白なペンキをザブンと被らせたようにたちどころに塗りたくられた視界の白……頭の中、デリートキーを押されたみたいに、一瞬にして、消えた。「あかんで……これは世界の終焉のパターンやないか……どうにかせな」
吉又は鉛のような重みを全身に味わわされていた。服ですら、重い、まして肉体は。しかし、必死の思いで動かすしかなかった、舞台の中央、イーゼルに乗ったスケッチブックが見える。すぐ側であるはずのそれは10mほども離れて見えた。「あかんで……死神が来とるがな……はっ、せやった!」
吉又はスケッチブックに描いた死神についてようやく思い出していた、イラストであるはずの死神が、スケッチブックを突き破り内部より這い出して中央に屈んでいた。「お前現実世界に来たんちゃうやろな」。まさか、と思う。単なるネタだ、それともネタにした祟りであろうか、否、それこそ馬鹿げた虚妄じゃないか。「西村はどこ行ってん? お前が殺ったんちゃうやろな?」。相方がいない、たった独りで舞台に上がっている、まさか、本当に死神が……?
すると死神はスケッチブックの領域からとうとう現実へ、字義通り足を踏み入れているのだった。驚くべきは肩に担がれた体長を優に超すほどの巨大な大鎌だった。「お前なんか! まさかお前……死神やったんか、西村?」。死神になった西村はコクリ、と首をたてに振りそれからステージをしずしずと優雅に歩きだす。そして。
ステージを降りてしまった西村の死神は客を物色するかのように首と首を近づけてゆっくりと客席を歩いていった。
「なにをすんねん!」。西村は大鎌を大きく振り上げて、客の首へと切っ先を勢いよく下ろした。「西村、目を覚ませや!」。吉又の声が届いたのか、ピタリと止まった一振りは客の首元ギリギリの境界線、少し、震えている。
西村は大鎌をあきらめた様子で放り投げ、今度はマントの胸もとから何かを取り出した。「なにしてんねん、なんやねん何を振りかけてんねん」。骨で出来た体。左指の骨がガッシリと握っているのは明らかにペットボトルである、右指を高くしてまるでシェフのような手さばきで塩胡椒を振りかけているような……。「お前! もしかして緩~い毒注いでるんとちゃうやろな」。すると西村は客向きから吉又へと向き直して、コクリ、と頷く。「あかんあかん職務を全うすなや! それ、グレーゾーンな死に方やで」。
霧が晴れていくように少しずつ白が闇へと切り換わっていく……現実が……舞い戻っていく……。
「も、も……黙示録や~!」
我に返った吉又の意識が最初に感覚したのは闇から届いた意想外に大きな歓声だった、大げさに云えば笑いの波、それは云いすぎかもしれないが、予想を遥かに超える笑いの量を肌に感じていた。紫が並んでいる、波を打ってはいるが綺麗な線が幾重にも、奥のほうまで引かれていて、壮観であった。
BGMがけたたましく鳴らされている。
「どうもありがとうございました」
虚脱したような声をどうにか絞り出した。ウケたのか、それほどウケていないのか、ウケたのであればずっとウケていたのだろうか、最後だけはウケてくれたのだろうか……幻想と錯乱状態の混じった、現実感覚が皆無と云っても過言ではない不可思議な演目は、時を駆け抜けたように過ぎてしまっているのだった。
吉又は最後のページまでめくられたスケッチブック、中央を占めた死神のイラストに目を止め、一瞬釘付けになるが、「捌けな」というまともな観念を取り戻し、死神を閉じてそそくさと舞台を後にした。
舞台袖から楽屋まで小走りで移動した、無我夢中というだけでは説明できないような、ある意味訳の分からないシュールな体験をしてしまった。他の芸人……。
「そうや、藪田さんにどないやったか訊いてみな」
通路、吉又は楽屋に届くほど大きな声を上げていた。
「おう」
楽屋で吉又の帰りを振り返る者はいなかった、楽屋を占めるほとんどの芸人たちが所属するお笑い事務所の最王手『吉又興業』、その注目度NO.1コンビの舞台が始まっていて、すなわちライバルの『出来』を見定めんと皆はモニタへ釘付けになっていた。ただ一人藪田だけ、吉又を待ちうけるほどドア向きだった。
「あれ、ほとんどアドリブやろ」
「自分でもよう覚えてないんですわ」
「マジで云うてんのかそれ」
藪田は大袈裟なボディアクションとスピーカー音を消すほど大声を放った。
「藪田さん、今アイツらですよ、俺なんかで邪魔したら悪いですわ」
藪田は後方を見やる。
「ああ……」
しばらく二人は無言になった。他の組も大きな笑いが生まれていたのは確かだった、しかし小さなスピーカーを介しているにもかかわらず笑いの量、もはや『気配』とすら命名できそうな地を揺らすような巨大な笑い声が伝い来るのがはっきりと理解された。
『貸せや』
『なにすんねん』
『小刻みにリズム取んなや気色の悪い、ほんで前向いて運転せえ』
『運転やと? 待っとけや今別件に集中しとんねん』
『危険運転やないか、なにしてんねん!』
『イメージ通りの運転を成し遂げるため眼ぇつぶって瞑想中や』
『眼ぇつぶり運転とかこの世の果てやぞ!』
タクシー運転手に扮する北田が完全に後部座席向きに振り返った状態でオザナリにハンドルを右に左に切る、車体の揺れを表現するボディアクションはピタッと息が合っており、その洗練されたアクション一つで笑いは更に倍加する。『シャンティラブ』に明確なボケツッコミの役割分担はなかった。一つのネタの中で共にボケ、ツッコミを入れ、時にはボケにのっかったままボケを重ねていきカオスな方向へと突入していく。『運転手と客』という最もベタな部類の設定を使って、見たこともない笑いを開拓して投げつける、そういった気概は、今の演目に限ったことではない。
何一つ説明もなしに謎の物体の奪い合いを始めつつ、コントの大筋でもボケを挟んでいく、今回はそんなネタであった。
『運転上手なったやろ』
『知らんゾー! 背なで運転すなや。ちょっ貸せって……いつの間に! どないなってん、トランクの中に放っててんぞ』
『赤か~いケースに入れとったんや』
『説明になってへんぞ! 背中でハンドル切るなや』
『よいしょ』
『足~! 判明したゾー! ピーン伸びとるやないか、ほんで足でハンドル切んのめちゃめちゃ上手いなアンタ、早よ戻れ……つってるでー! 痛がっとる場合か。ほんで車内でストレッチすなや、どないなっとんねんこのタクシー』
『なんやねん、生温かいな。人肌の温もりになっとるやないか。大事に温めとった~、やあらへんがな、親鳥みたいな母性は要らんねん。パカッ……あれ、何やこれ?』
『シェシェルシェッシェシェープップや!』
『熟成させんなや、原形なくなってもうてるやん!』
かなり自由な発想をアクションを駆使して演じる熱量の高いネタ、芸人たちも総じてウケているが、それにも増して客の反応……距離のある会場から落雷のような衝撃音が聞こえているほど、この楽屋さえ揺れている錯覚に陥った。
「アイツら面白ろい思うか?」
藪田が口を開く。
「まあまあやと思います、客ウケ半端ないすね」
「正直に云えや、どうや、アイツら時期に売れんできっと、それでも面白ろい思うか?」
「いや……面白ろい気分やないです」
「気分? どういうことやねん」
「アイツらが売れるのは面白ろい気持ちがせえへん云うことですわ」
「せやろ、シンプルな解が真実やぞ、アイツらが売れて気分悪い云うことは面白ろない云うことやで」
藪田は確信に満ちた強い表情を見せていた。
「まあ、嫉妬もありますけど」
「じゃあ、俺が明日いきなり売れてるとするわな、どないやねん、面白ろいか? 面白んないか?」
「いや……藪田さんには売れて欲しいですわ。売れたら嬉しいですね」
「それは俺が面白ろい云うことやね?」
「まあ、そういうことです」
『どうもありがとうございました』
ようやく注目のネタが通り過ぎた。観客は拍手喝采だった。
藪田は気迫のこもった表情を続けて凝視していた。無言……二人を余所に楽屋は先ほどのネタの内容の分析で盛り上がっている、しかし、自分と藪田の間にだけ、静寂が流れている、そう吉又は感じていた。
「なあ」
ようやく口を開いた藪田の表情は、やや、和らいで見えた。
「俺と組まへんか?」
「えっ……」