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嘘つきな竜

嘘つきな竜 〜月齢ゼロ〜

作者: 楠瑞稀

これは短編『嘘つきな竜』のスピンオフ(ネタばれ有)です。『嘘つきな竜』を読まなくても、楽しむ事が出来ます。

 もう何年も通い詰めた山道を、彼女は今日も登っていた。

 子供の頃はなんとも高く大きく思えた裏の山も、背が伸び、視野が広がるにしたがって比較的こじんまりとしているものであると気付かざるを得ない。

 だけどそれでもいまだ目的地までの道のりが長くもどかしく思えるのは、きっとそれだけこの邂逅が楽しみで仕方がないからだろう。

 山頂に辿り着いた彼女は、そこに穿たれた深い闇を湛えた洞穴に向かって呼びかける。

「ねぇ、竜。いるかしら?」

 返事の代わりに、一瞬闇の中に炎が灯る。

 それは竜のこぼしたため息だった。




 裏の山には竜がいる。

 数十年ほど前に有害種族として一斉討伐の対象になった竜族は、その一件で数を激減させ、生き残った竜も大半が人間の前から姿を隠してしまった。

 だがそれでもまれに、いまだ人間のそばで暮らしている風変わりな竜もいる。

 彼女の村の裏山で暮らしている竜は、そんな中の一匹だった。



「まったく、トリシア。君という人間は、本当にたいした変わり者だよ」

 やれやれともう何度目か分からないため息をつくたびに、鼻の穴からちょろりと炎が覗く。外界の光が一切届かない漆黒の闇の中、その炎だけが唯一の光源だった。

「あら、そうかしら」

 言葉だけは疑問の形を取りながらも、その実一切気にしてはない様子で彼女は竜に近付くと、口の中に持参した果物をそっと落とし込む。「む、うまい」とむしゃむしゃと舌鼓を打ちながらも、竜は然りと頷いた。

「僕も自分をかなりの偏屈者だと自覚しているけどね、それでも君には負けるさ」

 彼は自分の目の前に立っている、彼からしてみれば小さな小さな人間を呆れた顔で見下ろしてみる。

「普通人間の子供というのはね、大概が成熟する前に僕の元に通うことから卒業するものなんだ。それを君みたいに大人になった後も来続けるというのは、滅多にあることじゃない」

「ええ、確かにそうね」

 彼女は逆らうことなく素直に頷いた。

 この村で生まれ育った子供たちは、誰しもが一度ならずと竜の元を訪れる。いや、子供たちにとって恰好の遊び相手が竜であると言ってもいいだろう。洞窟の奥からほとんど外に出ることが無い竜にとっても、喧しくにぎやかな子供たちの存在は良い気晴らしにもなっている。

 だが成長するにしたがって少しずつ、子供たちの足は遠のき始める。それぞれ己が人生、己の進むべき道を見出して、子供時代を卒業していくのだ。

 子供の頃によく一緒に遊んだ彼女の幼馴染みたちも、今では立派な大人になってそれぞれの人生を歩んでいる。動物好きのモニカは金物屋のジョーイと結婚して現在第二子を妊娠中だし、ケビンは村を飛び出し大きな町へ出稼ぎに出て時折手紙が届く。他にも懐かしい友人たちはそれぞれ家庭を持っている人が少なくない。

 そして今度は次の世代の子供たちが、同様に竜の元へと通うようになるのだ。

「僕には人間の美的感覚は良く分からないけどね、それでも君ほどの容姿なら引く手も数多だろうに。いった何を好きこのんでこんな陰気な洞窟に通い詰めるんだい」

 だが、彼女だけはまるで大人になることを拒んでいるかのように、いまだ一人竜の下へと訪れ続けている。呆れたような竜のぼやきにトリシアはしれっと答えた。

「それはあたしが好んでいるのが、他ならぬあなただからよ」

 ごほっと竜が咳き込んだ。途端にぼわっとその口から黒煙があがる。苦しそうにむせながら、竜はいつものように慌てて彼女に訴えた。

「トリシアっ、何度言ったら分かるんだい。僕は竜で君は人間。違う種族なんだよ!」

「ええ、それは知っているわ」

「ならそんないい年になってまでこんな酔狂な真似をしていちゃ駄目だろう! 親御さんも心配しているだろうに」

「父さんはもうとっくに諦めているわ。あたしのことは竜のところにお嫁に出したと思うことにするって」

「そんな勝手に!」

 竜は悲鳴のような声をあげる。

「僕は一度だって了承したことないよ。時代錯誤もはなはだしい!」

 討伐の時代よりもさらに昔、竜が暴君として世界に君臨していた時代もあった。

 暴虐の限りに振る舞い、田畑や家畜、山林や村々を荒らしまわる。

 そんな気ままで残酷な王様の機嫌を取るために、あるいは他の脅威から守ってもらうために、村の娘を竜の巫女――花嫁として捧げる風習が彼女の国に限らずこの世界にはあった。

 だがそれもいまでは遠い昔話。竜族にとってしてみれば面映い若気の至りでしかない。

「だいたい僕みたいな呪い持ち、守護者としても役立たずだろうに」

 竜は困ったようにため息をつく。

 竜とは本来長い寿命に深い知性、強靭な肉体を合わせ持っている種族だ。だがこの竜に限っては、大粛清の時代に冒険者と名乗る人間に呪いを掛けられ、月と太陽の光によって焼け死ぬ体質となってしまった。

 そのため彼は昼間も夜も洞穴から出ることは叶わず、自由を許されているのはわずか新月の夜にのみ。情けない話ではあるが、人にとってあまり利得のある存在ではないのだ。

「ねぇ、トリシア」

 竜はそっと小さな吐息を零すと、どこか哀れむような優しい声で彼女に語りかける。

「今日を最後に、もうここに来るのはおよし。こんな暗く湿った洞窟よりも、もっと君に相応しい場所があるはずだ」

 人と竜の寿命は違う。

 何百年、下手をすれば数千年という歳月を生きる竜にとっては、人の命などという物は一瞬の閃光のように短くはかないものだ。

 瞬く間に幼い少女から妙齢の女性に成長した彼女が、やはりそう遠からず天から授かった命数を終え、自分の前から姿を消すことを竜は知識としても経験としても良く知っていた。

 ならば、そんな貴重な彼女の時間をこんな所で浪費させるのはなんとも忍びない。

「僕はいつか君の小さな子供たちが、僕の元に遊びに来てくれるのを楽しみに待っているから」

 彼女の父に、彼女の祖母に、そして曽祖父に対してそうであったように、脈々と受け継がれる血と魂の系譜を眺めるだけで、彼は充分満足だった。

「竜……」

 だが彼女は幼少の時から変わらぬおっとりとして無垢な、それでいてひたむきさと情熱を抱いた眼差しで竜を真っ直ぐに見る。その視線の強さに、彼女よりも何倍も大きく、何百年も長く生きてきたはずの竜は思わずたじろいだ。

「私はいつだって思っているのよ。あなたのためにあの二つの太陽も、緑の月も全部飲み込んで消してしまえればいいのにって」

「そ、それはおだやかじゃないね」

 思いがけない強烈な告白を受け竜はつい的外れな返答をする。

「だけど私はあなたと違って大きな身体も力強い牙も逞しい翼も持っていないから、ただ祈るだけしかできないの。早くこの空に新月の夜が訪れますようにって」

 彼女は言葉の通り、指を祈りの形に組み真摯な眼差しで竜を見つめる。

「私にとって本当に待ち遠しいのは、希望が満ちる夜明けでも闇を照らす月でもないの。それは人としてはおかしなことなのかも知れないけれど、間違いなく私の本心なの」

 だから、とトリシアは視線を上げて懇願する。

「どうか、この気持ちを否定しないで……」

 竜は、何も言えなかった。

 人というのは、まるで万華鏡のようだ。言葉を失った竜はそう思う。

 長い年月を生きてきた彼は、人のたくさんの面を見てきた。

 醜悪で、残忍で、時に美しく、時に愛おしい。くるくるとその一瞬一瞬で印象を変える人という種族。

 その身はあまりにも脆弱で、たやすく命を散してしまうというのに、一方でこの強さは一体何なのだろうかと、不思議にすら感じられる。

「トリシア……君は僕にどうして欲しいんだい?」

 自分はこの小さな人の子に何もしてやることはできない。

 同じ人間のように抱きしめてやる事も、寄り添ってやることもできない。

 なのに懸命に向けられるこの思いに、自分はどう報いてやればいいのだろうか。

 そう考える竜に、しかし彼女はあっさりと微笑んで告げる。

「ずっとそばにいさせて」

「だけど、僕は君に何もしてあげられないよ」

「あら、貴方に何かをして欲しいって私はただの一度だって言ったかしら」

 トリシアは心外だと言わんばかりの表情で竜をねめつける。

「そばにいてくれるだけで、私はもう満足なの」

 彼女はそっと竜に近寄り、その大きな顔に手を触れた。

「子供のときから、ずっとずっと好きだったわ」

 彼の優しさを、強さを、弱ささえをも、幼い少女の頃から彼女はずっと見つめてきた。

 その年月は竜にとってはあまりに短いささやかなものかも知れないが、思いはけして軽いものではないと彼女は自負している。

「大好きよ、竜」

 愛おしむかのように添えられる、その手のあまりの小ささ。

 いや手どころの話ではない。一口で飲み込めてしまうほどの、小さな肉体。なのにそのうちに潜む、思いの大きさときたら!

 竜は自分の吐く炎の吐息が彼女を傷つけてしまわぬように、気をつけて、気をつけてそっとため息を零す。

「本当に君は変わり者だ。……知らないからね。お婆さんになってから後悔したって」

「あら。お婆さんになっても傍にいさせてくれるなら、本望よ」

 そう言って彼女は鮮やかに微笑む。

 それは竜がもう何十年も見ていない、月や太陽の輝きを思わせる笑みだった。




 ――国境近くにある小さな村。

 その村の裏山には竜が住んでいたという。

 巨大な竜が暮らしていたらしい巨大な洞窟の傍らには、小さな小さな墓の跡が今もある。

 それは一人の女性が、その生涯を竜の傍で生き続けた証であると言い伝えられている


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