赤い部屋
裏野ハイツの101号室と102号室の間には、まるでそこに空間が存在しているかのような、妙な距離があった。入居した当初は、「騒音問題でトラブルになるより有難い」とむしろ好都合に思っていた。実際101号室に住んでから、隣の住人の物音が聞こえたことはなかった。
ところが、だ。ここに越してからというもの、騒音問題とはまた別の、より奇妙な問題が私の頭を悩ませていた。
「またか…」
朝、目を覚ますと私は床に散らばった本を拾い上げ棚に戻した。ここ最近、ずっとこうだ。触ってもいないのに、ものが散乱している。昨日は食器が何故か全部裏返しになっていたし、一週間前は冷蔵庫の中身が全部床にぶちまけられていたこともあった。
ポルターガイスト現象。
昔心霊特番で見た超常現象が、今目の前で起こっている。私の頭をよぎったのは、恐怖よりもまず「?」マークだった。一体何故?誰がこんなことを?仮に幽霊だったとして、何故こんな地味な嫌がらせのような真似を?そもそも昔から霊感のない私には、どんなにアピールされようとそんな存在が見えるはずもないのに。
寝起き姿のまま、私は一冊一冊裏返してみた。多少床の汚れは付着しているが、幸い傷はないようだった。ちょうど102号室との間に立てかけられた本棚は、壁一面を覆い尽くしている。この向こうに、例の壁がある。
よくある怪談話では、隠された空間や開かずの間には禁断の「何か」が潜んでいるものだ。血で染まった赤い部屋か、お札の敷きつめられた封印部屋か。もしかしたらこの壁の向こうには本当に空間があり、それが原因なのかも…などとオカルト的なことを考えながら、私は苦笑した。
ふと壁に掛けられた時計を見ると、7時を回っていた。そろそろ会社に行かなくては。流れ作業のように準備を済ませ、ドアを開いたところで、私は若い主婦と出くわした。
「おはようございます」
「あら青山さん。おはようございます」
丁寧にお辞儀をすると、向こうも笑顔で挨拶を返してくれた。20代後半くらいの若い彼女は、同じ階に住む103号室の笹春さん。早朝からパートに出ているらしく、こうして出勤の時間にすれ違うことが多かった。お互い何回か顔を見るうちに、世間話をする程度の近所付き合いにはなった。
「今日も精が出ますね」
「青山さんこそ、いつもお元気で」
「いや何、最近はこの暑さで参ってますよ。笹春さんもお気をつけて」
「ほんっとに暑いですよね、もうイヤになっちゃう!」
笹春さんが困り顔で笑った。私も愛想笑いを浮かべようとした、その時。
ガタン!
後ろで大きな音がして、振り返った。
次の瞬間、私は目を疑った。先ほど戻した本が、自分から飛び出している。バタバタと音を立て、次々に本が空中を舞っていた。まるで海に飛び込むペンギンの群れを見ているような光景に、私は呆気にとられた。
「大丈夫ですか?何か大きな音がしたような…」
不審そうに中を覗き込もうとする笹春さんを、私は慌てて遮った。
「だ…大丈夫です。何でもありませんよ。本棚が倒れちゃったみたいで。ははは…」
「あら…まあ」
それでもまだ納得していない彼女の視界を遮り、急いで玄関を閉めた。目の前で起きた怪奇現象を振りはらい、私は足早に最寄駅へと急いだ。
その日は、散々な目に遭った。
会議中、登録のない電話番号から着信が鳴ること実に13回。そのどれも、留守電に無言のメッセージが10秒ほど録音されていた。よく耳を澄ますと、受話器の向こう側から微かに息遣いが聞こえてくる。単なる嫌がらせ…そう言い聞かせようとしても、どうしても今朝のことが思い浮かんでくる。極め付けは昼休みだった。
「うわっ!?」
用意しておいた弁当箱を開くと、中に長い髪の毛がびっしりとつめられていた。白米と間違えて、髪の毛をつめてしまった?ありえない。どう考えても、薄くなった私の髪の毛ではない。昼休みで閑散としていたオフィスに、私の悲鳴が響き渡る。数人が私の方をチラリと見た。
「なんなんだよもう…」
「どうしたんですか?」
動揺したまま1人悪態をついていると、向こうから契約社員の伊藤さんが不思議そうに私に尋ねてきた。髪の毛を見られないように、私は咄嗟に弁当箱を机の下のゴミ箱に隠した。
「いや…別に。ははは…」
「青山さん、最近何だかやつれてません?」
「そ、そうかな…」
入社2年目の若いOLは、茶目っ気たっぷりに私に白い歯を見せた。経費削減のため消灯されたオフィス内は何だか妙に薄暗くて、彼女の白さが浮き立って見えた。
「もしかして〜。青山さん呪われてるんじゃないですか?誰かから恨み買ってるとか!」
「まさか」
私は苦笑いを返した。呪い?私にはもう妻もいないし、誰かに恨まれるほど他人と関わり合っていない。呪われてるとすれば…あのハイツの方だ。あそこに越してから、奇怪な事ばかり私の身の回りで起こっている。
「本当にそうだったら相談乗りますよ。私、霊感あるんで」
「ははは…ありがとう。その時は頼むよ」
伊藤さんはそういうと軽やかにオフィスを去っていった。彼女の姿が見えなくなってから、私は恐る恐るゴミ箱を覗き込んだ。
「ひ…っ!?」
ゴミ箱の中で束になった髪の毛の隙間から、何かが私を睨んだ。そこにあったのは、明確な敵意を向けた、血走った眼。それと目が合った瞬間、私は思わず情けない悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちた。もう一度慎重に箱を覗くと、もう「何か」はいなくなっていた。
その晩、自宅に戻った私を待っていたのは、床に散らばった本の山…ではなかった。本は綺麗に元の位置に戻され、本棚は何故か向かいの壁に移動していた。
ぼとり…とカバンを落とし私は固まった。本棚がなくなり抜き出しになった102号室との壁から、昼間捨てたはずの髪の毛が「生えて」きていた。
「なんだよこれ…!?」
気味が悪くなったなんてもんじゃない。心霊現象なんてもっぱら信じてなかった私でも、全身から汗が吹き出るのを抑えられなかった。流石にその日は駅近くのホテルに泊まることにした。髪の毛に触れないように慎重に部屋に入り、着替えや必要最低限のものだけひったくる。去り際、私は鍵をかけながら101号室と102号室の間を凝視した。この1m程度のコンクリートの間に、何かが潜んでいるのだろうか?
「伊藤さん」
次の日、私は霊感のあるという彼女にこっそり事情を話し、家を見てもらえないか尋ねた。彼女は驚いた顔をしていたが、今日も弁当箱につめられていた髪の毛を見ると、「うっ」と口元を押さえた。
「ごめんなさい…すごい霊障で…」
やがて顔を上げた彼女は、消灯された暗がりのオフィスで一際青ざめて見えた。
「レイショウ?」
「青山さん、危険だわ。その髪の毛から、すっごく…嫌な感じがする」
「……」
私は今までのポルターガイスト現象についても、彼女に説明した。私の住む部屋と隣の部屋の間にある、謎の空間のことも。一通り話を聞いた後、彼女は口元を押さえたまま深く俯いた。
「…その壁と壁の間に、何かが潜んでいるのかもしれません」
「…何かって?」
「それは…分かりません。その髪の毛の持ち主かも…」
伊藤さんは眉を潜め、髪の毛から遠ざかるように体を反らした。髪の毛を視界に入れるのさえ嫌なようだった。私には分からないが、霊感のある人間には忌まわしいものらしかった。
「確認してくれるかい?」
「……分かりました。青山さんの頼みなら」
少し間をおいて、彼女が決心したように頷いた。私だって、できれば会社の若い女性を自宅に招くなんて誤解を生む真似はしたくない。それでも、このまま裏野ハイツに住み続けることなど最早私にはできなかった。
「青山さん…!」
「どうした?」
「ああ、ダメ!私…感じるの…!」
裏野ハイツが見えてきたところで、伊藤さんは何かに怯えるように震えだした。額に浮かぶ大きな汗の粒は、夏の暑さのせいだけではなさそうだった。泣き出しそうな彼女を私はじっと見据えた。
「大丈夫かい?もし無理なら…」
「いえ…平気です。まさかこれほどだなんて…」
カチカチと奥歯を鳴らしながら、それでも伊藤さんは私の背中にくっついてきてくれた。何が「これほど」なのか聞くことを避け、私は101号室の前に立つとゆっくりと鍵を差し込んだ。昨日からこの部屋には帰っていない。あの髪の毛もそのままなのだろうか?それとも、また別の心霊現象が…。
「ああ。ここ、ここの間ね。確かに感じるわ…!」
伊藤さんが私の後ろで、例の壁を見ながら声を震わせた。
「ああ…ダメ。ダメよ、これはダメ…!」
まず私が部屋の中を確認する。髪の毛はなくなっていた。本棚は相変わらず向かい側に移動していて、壁は剥き出しになってはいるが、今日は何も「生えて」いない。床にも何も散らばってはいないようだ。私はホッと胸を撫で下ろした。
「さあ…どうぞ」
私が部屋に促した、その瞬間。
「ヒィ…!!」
奇妙な音を立てながら、伊藤さんが息を飲んだ。何かを見つけたように、玄関から部屋の壁を指差したまま固まっている。
「何これ!!」
「え?」
私は彼女の指差した方角を見た。何もない。家具も荒らされていないし、私には何も見えなかった。
「ダメ!これはダメ!あぁ…」
「伊藤さん!?」
フラッとバランスを崩し、そのまま彼女は気絶してしまった。慌てて抱きかかえながら、私は呆然とその場に立ち尽くした。一体彼女は、何を見たというのだろう?ゆっくりと彼女を部屋の真ん中で横にして、私は例の壁と向き合った。
ごくり…と唾を飲み込んだ。やはりこの部屋には…この壁の向こうには何かがいる。霊感のある女性が気絶するほどの何かが、潜んでいる。私は物置から工具を引っ張り出した。
こうなったらもう、この目で確かめるしかない。たとえ死体が隠されていようとも、お札の張られた空間が見つかろうとも、我が家をこのままにしておくわけにはいかなかった。意を決して、私は壁に穴を開け始めた。築30年で古びているのか、ナイフを何本か突き立てると呆気ないほど壁は簡単に崩れていった。
「はぁ…はぁ…」
とはいえ、この暑さでは中々の重労働だ。掘り進めていくうちに、発泡スチロールやら金属の棒などが姿を現していく。ノコギリをひくギコギコと不気味な音が、部屋の中に響き渡る。このまま何も見つからず、隣の部屋に通じてしまったらどうしよう…そんなことを考えていた、その矢先だった。
「これは…!?」
薄いベニヤ板を一枚取り払うと、案の定というべきか、探していた空間が見つかった。私は汗を拭きながら、慎重に中を覗き込んだ。
中には、何もなかった。懐中電灯で光を灯してみても、ただ誰かが潜んで「いそう」な、真っ白な空間があるだけだった。元いた部屋の血の赤が嘘みたいに、真っ白だ。息を切らしながら、私は拍子抜けした。
「気のせい…だったのか?」
首を傾げながら、私は赤い部屋に戻った。だとすれば…一体あの怪奇現象は誰の仕業だったのだろう?気絶してしまった伊藤さんは、何を見てしまったのだろうか?さっぱり見当もつかない。
「まあ…それならそれで、一件落着か」
私は気絶した彼女をベッドの上に乗せ、部屋の隅から解体器具を引っ張り出した。
幽霊の仕業でないと分かれば、これで安心して解体も続けられる。それに…見つけた「白い部屋」は、要らなくなったパーツ置き場にちょうどいいかもしれない。飛んだ心霊騒ぎだったが、思わぬ形でいい材料も手に入った。
血で染まった真っ赤な101号室で、私は早速新しい同居人作りに取り掛かった。