バオフイ
昆布増えーるのと同じ速度でフイイ増えーろ
時間を無駄にしているという自覚はあった。今すぐに行動を起こすべきであるという意識も存在した。此処で足踏みをしている場合ではない、いますぐ目の前の扉を開け放て、さすればまた次の扉が見えるだろう、その扉を開くにはまず、第一の関門を突破せねばなるまいぞと、こだまする導きの声に戸惑う。そのうち、お前は何を迷うのかと急かされる思いがした。後に続くものがいる、お前一人の壁ではない、安心して開くがよいと、諭されるような思いさえしている。しかしフイイは些か力なく、その声に応えるほかなかった。
すなわち、僕は今両手が塞がっていると。
これはなかなか困った。両腕で精一杯に支えられた紙の束、それも雑多に折り畳まれたものやら少々面の広いものやらがともかく積み重ねられてやったと言わんばかりの山を、まるで我が子を扱うような慎重さでもって抱え直す。それは実に、ABCの友の会における重要書類であった。とはいえざっと読むと、含まれる要素はてんでばらばらのように思われる。それらは彼らの方針を定めるにあたり重要と見なされた、言い換えるならば思い出の数々である。今彼の腕のなかには、詩もある、絵もある、丁寧な長文も、書き殴られた激情の三言も、果ては誰かの情婦か妾からの手紙も、無惨なるまでに破かれているが確かにある。彼にはそれを荒く取り扱うなど出来なかった。流れた時間、またはそれに抗おうとした時間、または身を任し流され続けた時間おそらくそのものがすべてこの単なる紙の化身である。懐かしいものは皆宝である。彼にとって宝をぞんざいにするなど、あるいは決して綺麗などとはいえない、今日のような雨の日の珈琲店の床に置くなど、たとえ一秒でも好ましいと思えなかった。第一非常に纏まりのない荷物だ。床に置けばたちまち山崩れを起こし、むしろ山があったという事実ごと陥落するだろう。そうなれば面倒だ。できることなら一旦荷を下ろすことなく奥室へ進みたい。うむと唸る。ドアの取手は捻った上で回さねばなるまい、手のかかる形だ。まったく。もう一度うむと唸る。うむと唸る。通りかかる誰か、誰でもよい、気づいてくれぬものだろうか。
「ここまでか」
降参だ。もはや致し方無いだろう。そっと腰を屈める。
「待て!待て待て待て!」
「何だ」
「待て待て」
「待っている」
「待て、今開ける」
「それは助かる」
「ああ、間に合った、間に合って良かった」
背後から勢いよく走る足音の聞こえたかと思えば、次いでよく知る男の声が聞こえた。とにかく待て待てと連呼する、やたらと連呼する。振り返るのが難儀で簡単に応答すると、どうやら荷物をおろさずそのまま待てということらしい。これは有り難いと、ゆっくり腰を伸ばす。宝は無事である。
「やあ、いい天気だな」
「今日は雨だ」
「ああ、いい天気だ」
「バオレル、君はずぶ濡れじゃないか」
「俺は傘を持たないからな」
「そうか」
そこで途切れた会話を続けようという意志は両者ともにみられない。口をきかぬまま廊下を進みきった。次の扉も彼が開けてくれるのだろうと待つうち、何かがおかしいことに気が付いた。すぐ目の前にある動かない背中を見やって、狼狽えながらひとまず声をかけてみる。直ぐに彼は体ごとこちらを向いた。目が合って驚いたのは、彼が見たことのないような顔をしていたからだ。見たことのないとはいえ、彼の顔は見飽きるほどに見てきた、実際驚くべきはその表情である。それは険しい、極めて真面目のものだった。ぽかんとしてまじまじ見つめていると、フイイと名を呼ばれた。もう一度名を呼ばれる。焦れたように少し掠れた声が二度目でようやく耳に届き、慌てて何だいと返す。すぐに顔を反らし、何でもないと答えられる。何でもないのに君がそんな顔をするものかとも思ったが、ただ一言そうかと返す。フイイ。何だ。いや何でもないんだ部屋へ入ろう。ああ。あのなフイイ。だから何だ。続くというより巡るような言葉に、苛立つよりも不安が募った。
「バオレル、あの、おい」
「いやすまん、違うんだ」
「いいから、落ち着け、ほら」
「悪い、違う、じゃなくて、」
ともかく彼の内なる混乱だけは見てとれた。何かしらの伝えたいものはあるようだが、あまり抽象的で言葉にするのが困難か、それとも、あるいはと思考のみが巡る。こちらがあわあわとするほどに向こうもあわあわとする。結果、間抜けにもかけてやりたい言葉を通り越して次のように溢した。
「もう一本……腕が、欲しい」
「……?」
「あ、いやなに、君の背中を今、さすってやれる腕が、あればなと……思ったん、だが」
僕まで何を言いたいのかよく分からなくなってしまった、申し訳ないと目を伏せて決まり悪げに謝る彼を確認し、限りなく目を丸めたあと、バオレルは盛大に吹き出した。しばらくはヒイヒイと笑い転げていた。フイイはというと、思いの外恥ずかしくなったので、膝を曲げて少し突っついてやろうとしたけれども、突然がばりと視界が黒で覆われた。耳元で、俺もよく分からなくなった、すまんと聞こえた声に含むる平素の陽気から察するに、もう彼については心配要らないようである。安堵に頬が緩む。
「君、僕の腕はまだ二本だ」
「そうだろうな」
「その二本がそろそろ限界だ」
「おっと、悪いな」
もうすぐここは忙しくなる。革命は絶えず急げ、急げと喚く。僕たちは逆らうこともせずただ急ぎ、急いで、そして、それから。けれどもしかし、個人を捨て去るのは最後でいい、それまでは我らも人間なのだから生き急ぐ必要などない。例えば友人との思い出を振り返るくらいのほんの些細な午後が、あってもかまわないだろう。
よいしょー!バオフイよいしょー!読んでくださってありがとうございますえっへへへへバオレルさんもフイイさんも書くのは二度目ましてでしたのでやたら新鮮でしたしたしたした~し 良ければご感想を、良くなければご感想をお願いいたします最後に本当にありがとうございました。