第十六話
1
助走をつけたフライングニードロップが顔面に綺麗に決まった。鼻が潰れた巨体は頭から崩れ落ち大の字になって泡を吹く。
「アンドレさん!」
「アンドレさん! ああダメだ、白目向いちまってる!」
「なにもんだテメェ! いきなり出てきてとび膝蹴りなんて危険行為なんかやらかしやがって!」
突然勧告もなしに闖入者に阿鼻叫喚のパニックに陥る。
だが、そんなものには目もくれずコルトは咳き込むミリスを片手で抱き留めた。
「コル……ト……?」
「ったくテメェ等姉弟は揃いも揃って自殺志願者かよ」
完成されたヒエラルキーを正面から否定するなど自殺行為に他ならない。
この町のようにモラルが崩壊した中では余計にだ。
故に弱者であるこの姉弟は淘汰されてしかるべきなのである。
なのに、何故――
「なんて、顔してるのよ……」
言葉にできない感情が鋭く尖って喉の奥に突き刺さっているようだ。
ああ……、イライラする。
「オレたちを売ればテメェと弟の身の安全を確保できたはずだ」
「馬鹿……、そんなことできるわけないじゃない……」
そう言って優しく微笑みかけるミリスを前にコルトの不快感はさらに増す。
「………………、なんでだよ? どうして、テメェ等は……弱いくせに……、自分の身すらまともに守れないくせにッ!!」
「大切に思っている誰かがいるのなら、きっと…………誰にでも出来ることよ……」
肩で息をしながらゆっくりと立ち上がる。暴力による恐怖で膝を震わしながらも懸命に『いつも通り』を貫く。
コルトの困惑の表情に微笑で応えた。まるで泣いている子供をあやす母のようにそっとコルトの両手を頬に添える。
「力がないから、戦わないんじゃない。守りたい人がいるから、戦うの……」
自分はどうなってもいいから。
たった一人の弟だけは――
眼尻から涙が浮かび上がり一筋流れる。
頼りがいのある強い姉を演じてきた。ダメだ、負けるな。自分が揺れればセンを不安にしてしまう。
「あ、あれ……?」
そこまで言ってミリスの体から力が抜けた。抱き留めた手に力がこもる。
細い体だ。コルトが少し力を込めれば容易く折れてしまうほどに華奢である。
彼女は決して強いわけではない。弱音を吐かず気丈に振る舞っている裏ではいつだってギタギタに傷つきながら、『それでも』と顔を上げているだけなのだ。
自分より年下の少女が、ただ弟を守りたいという理由だけで。
セン・ネレイディアも、人より体が弱いというハンデを背負いつつも抗うべきものに抗っている。
「ハッ、お涙頂戴だな」
口の端を皮肉気に吊り上げてゆっくりと立ち上がる。
然り気無い化粧でうまく隠してあるが、よく見れば目の下にうっすらと隈が浮かんでいる。そして頬は僅かにやつれ、血色が悪い。そこでコルトは察した。ミリスはいつも張り詰めていたのだ。
いつだってその細い体でギタギタに傷つきながら、それでも前に進む足を止めはしない。
「あんた、またそういう捻くれた――」
「今回だけだ……」
声のトーンが少しだけ優しくなる。
「今回だけ、お前らのお涙頂戴にほだされてやる」
弱い奴は死ねばいい。
弱肉強食を是とする考えを一度だけ曲げる。
顔に仮面のように張り付いていた嘲りの表情は何処にもなく、燻った火種が静かに燃え上がる。
「待って、あんた一人で戦う気!?」
「だったらなんだよ?」
「馬鹿なの、死ぬ気!? 一人でどうこうできる状況じゃないことくらいアンタだってわかってるでしょ?」
周りを取り囲んでいるのはざっと見積もって10人。とてもではないが、1人で相手取れる訳がない。
「そうだな、こいつら全員相手にするなんざ正気の沙汰じゃない」
大局的な戦闘において個は数に磨り潰されるだけである。
それをたった一人の武勇で引っくり返せるとすれば、帝国に古くから伝わる英雄神話のようなものである。資源の少ない帝国が、資源の豊富な共和国に後れを取ってきたように。
いくら個が優れていたとしても、数には叶わないのである。
だが、だからこそ自分たちの様な存在がある。
「オレがニンゲンだったならな」
人造人間『黒狗』コルト・アサギリの存在意義は戦うこと。戦いつづけること。
「オレは、血も涙もないバケモノなんだよ」
直後、轟音が響く。コルトの肩が吹き飛び、腕が床に落ちた。
2
一方その頃、レミンとセンはコルトとミリスがいる位置から少し離れた場所に退避していた。
「離せよ! 姉ちゃんのところに行くんだ!」
「だからダメだって! ここで大人しくしてなさい!」
先ほどから何度同じやり取りをしているだろうか。レミンはすでにキレかけていた。
コルトの指示でセンを部屋から連れ出したはいいが、ミリスの危機を知り、自分が助けに行くと息巻いている。
「君が行ったって足手纏いにしかならないよ」
「でもだからって」
「コルトに任せておけば大丈夫だから」
「あんなヤバい奴に任せておけるわけないだろ! とにかく僕は行くからな!」
そう言って踵を返すセンだったが、突然何かに足を取られて地面に転がる。足には無数の鉄の糸が絡まっていた。
「今、荒事の中に君が飛び込んで行って何が出来るっていうの? 気持ちだけで力が伴わない君じゃあ、この状況は打開できない」
淡々した口調でと、ただ事実だけを突きつける。
「なんだよ……」
嗚咽とともに漏れた声はあまりにも弱々しい。そして、涙が堰を切ったかのように溢れだした。
「なんでだよ、どうせ可哀想とか思ってんだろ! 僕のことなんにも知らないくせに」
積りに積もった劣等感が爆発した。何とかしたいのに。まだやれるはずなのに。
気持ちに体が追いつかない。いつだって歯がゆくて、悔しくて堪らない。
何故、自分はこんななのか。悲観せず前向きになればなるほど、惨めさが募る。
乗り越えたつもりだった。だが、セン・ネレイディアは壁を乗り越えるのには若すぎた。
「こんな出来そこないの体で、こんな出来損ないの僕には何も出来ないって! はっきりそういえばいいだろ! あんたたちはそれで満足なんだろ!? わかってるだよ、そんなことは! それを引きずり出して突っつきまわして何が楽しいんだよ! もう、ほうっておいてけよ!!」
「いい加減にしてくれない? ボクにも我慢の限界があるんだよ」
苛立ちを隠さずに長い溜息をつく。声のトーンと見下ろす目が絶対零度まで下がる。静かな怒気に当てられ、センは思わず息を飲んだ。
「キミの駄々を聞いているような状況でもない。」
最早一刻の猶予もない。ネレイディア姉弟は領主の私兵たちに眼をつけられてしまっている。自宅まで突き止められてはこの二人を待つ運命は悲惨なものしかないだろう。
センには状況が見えていない。子供ゆえの視野狭窄。それは可能性への圧迫だ。
だから、折るべき所は折っておかないといけない。
「正しいだけの正義なんて、意味がない。けど、力だけでも意味がない」
「僕には、何もできないの……?」
「そんなことないよ」
「キミの言った通りコルトは悪人だよ。この町が滅びようが、救われようと、本当にどっちでもいいんだ。だけど、『きっかけ』があった」
この町の人間のように、専横を極める領主の資質を問いもせず、おもねるだけならば、コルトはただ歪みの破壊という『任務を遂行するだけ』であっただろう。
だが、何が何でも生きようとする意志を持ち、『歪み』から這い出た異形の存在に立ち向かったミリス・ネレイディア。
たとえ蛮勇と劣等感に突き動かされたとしても、自らの正義感に従い、抗うべきものに対して声をあげ、戦おうとするセン・ネレディア。
手段はどうあれ、そこに困難が伴うのであれば、それは『闘い』である。
「キミたちの闘いがすべて繋がってきているんだよ」
繋がっていたからこそ、コルト・アサギリはミリスとセンを助けたのだ。
「大丈夫、コルトを信じて任せよう」
困惑するセンを助け起こして柔らかく微笑みかける。
「自棄を起こさないで。君がいなくなったら、ミリスは生き甲斐を無くしちゃうよ」
生き甲斐を無くした人間は、死んでいるのと変わりない。絶望の中、ただ惰性の様に生かされ続けること。
それは正真正銘の生き地獄である。
もう十分だ。歪みを生み出すほど狂ったこの町で、ミリスとセンは十分闘ってきた。
それが自分達と関わったせいで眼をつけられたのならば、けじめはつけなくてはならない。
レミンはマルク・イアウォイの粛清許可を得るべく、もう一度、帝都のヒューイ・フォッカーへと通信回線を繋いだ。
3
「コルト!!」
ミリスの悲痛な声が部屋に響く中、コルトは自身の損傷に眼も呉れず背後を一瞥して鼻で笑った。
「ザマァみさらせ……ワシらに逆らうからじゃ……」
鼻血を出した顔で引き攣った笑みを浮かべるアンドレ。その手には彼の巨体に相応しい厳つい外観の回転式拳銃が握られている。銃口からは硝煙が吹き出し両手はリコイルの反動で痙攣か、人体の一部が吹き飛ぶという光景への恐怖ゆえか、小刻みに震えている。
「コルト、大丈夫!? ねえ、気をしっかり持って――!」
「うるせえな。耳元で騒ぐなバカ」
明らかに気が動転しているミリスに向かって心底面倒そうに言う。
「だってあなた腕が――ッ!!」
「神経回路はシャットアウトしてある。痛みなんざねぇよ」
「何を言って――、――?」
そこまで言いかけて彼女は異変に気付く。途切れた肩からは一滴たりとも血が流れていない。何よりも肩から先が欠損したにも関わらず、コルトは痛みにのた打ち回るどころか眉ひとつ動かしていない。
代わりに右肩のあたりに纏わりつく光の粒は時間が経過とともに加速度的に増加していく。
右肩損傷確認。右腕部損傷部位分解。自己再生開始。
纏わりついていた光の粒は凝縮して漠然とした輪郭を作ったと思ったら一秒も経たないうちに右肩から先が生えてきた。
再生完了。神経回路動力再接続。戦闘続行問題なし。
動作を確認するかのように拳を開いて閉じてと何度か繰り返し、軽く肩を回す。
「ホムンクルス……ッ!」
ミリスの血の気がさっと引いた。理解できないものを目の前にして明らかに怯えている。
当然といえば当然の反応だ。ホムンクルスは『人体を改造した』という倫理的観点から帝国内で禁忌として扱われている。エルニド戦役で多大な功績を上げた為、なし崩し的に認可されたに過ぎず、その存在は未だに忌諱すべき対象として扱われている。
ゆっくりと目を閉じて恐怖に満ちた眼差しを受け入れた。
今はこいつらを守る。それだけでいい。
眼を開き、踵を返してゆっくりとアンドレに近づく。掌で燃え盛る青白い炎で銃身を溶解しながらゆっくりと口を開いた。
「死ぬか?」
「へへ、へへへ、へへ……」
あまりの恐怖で失禁したアンドレの顎を砕き、煙草に火をつける。煙を吐き出すと同時に金縛りのように固まっているオスカル達を一瞥した。ほかの領主の私兵たちは我先にと逃げ出していく。残ったのは無理やり協力させられていた町の住人達だけである。
コルトは嘲笑すら浮かべず、無防備に歩み寄る。
一歩。また一歩とバケモノは自分たちに死を運ぶべく、近づいてくる。
何故だ。何故こうなった?
領主様に逆らわず妥協して生きていれば、生きていられる。
そして、自分は勝ち馬になったはずだ。大樹の陰に擦り寄り、奪われる側ではなく、奪う側に君臨していた。なのに、気づけばホムンクルスという正真正銘のバケモノを目の前に狩られる側に立っている。
「う、うわあああああああっ!!」
錯乱したオスカルは無防備に近づいてくるコルトにではなく、ミリスにン銃口を向けた。
「うご、うごくな。動けば撃つぞ!」
コルトは意に介さず、足を止めることはない
「命令だ。止まれ、止まれ、聞こえねえのか! 命令だって言ってんだろォォォッ!?」
今までは、命令すればどんな道理も引っ込んで無理が通った。
そういう『ルール』だったからだ。
なのに、こいつには『ルール』が通じない。どうコントロールしていいのかわからない
喚いているうちにコルトはオスカルに接近していた。
「ヒッ」
殺される。そう思ったオスカルは小さな悲鳴を漏らして腰が砕けた。
「よくもぁここまでみっともねえ姿を晒せたモンだ」
その台詞はオスカルだけではなく、ここにいるすべての者に対しての言葉だった。
領主の奴隷になるという彼らの選択は、『生きて明日を迎える』という点では正しいのであろう。
強者が弱者の生殺与奪を握っている。いや、命だけではない。強者であれば奪いたいものを奪い、犯したいものを犯し、殺したいものを殺せる。
弱肉強食。帝国の国是にして、この世界に君臨する絶対の摂理である。
そんなことはトルキアがエルニドに滅ぼされた日からよく理解している。
「そこにいるのはテメェ等と何等変わりの無い存在だ」
強くなければ、何よりも強くなければ何一つとして――
「それでもまだ思考を停止したまま殺せるってんならよォ、テメェ等はオレと同類のバケモノでしかねえ」
金縛りの様なプレッシャーが和らぎ、ざわめきが波紋のように広がる。誰もが気付いていながらも、敢えて眼を反らし続けた核心を、コルトは容赦なく突きつける。
「自覚しろ、やってきたことを。想像しろ、産み出される痛みを。考えろ、自分達が抗うべきが何かを……!」
彼らは自覚しなければならない。
『弱者』でいることがどういった意味を持つのかを。
相手を殺すということは『末摩の悲鳴』をその身に深く刻み付けなければならないということを。
「考えた上で、それでもまだやるってんなら、命を賭けろ。後腐れ無いように、このオレが責任もってぶっ殺してやるよ」
無防備に歩み寄って銃口を自身の胸に押し当てる。
最早、自己弁護の余地はない。この期に及んで「弱いから仕方ない」などと宣うつもりであれば、ミリスの前であろうと関係ない。即座に殺してやるつもりだった。殺す相手との因果を感じなければならないということはより凄惨な覚悟がいるのだ。
その覚悟もなしにただ『命令されたから』というだけで他者の命を奪うのは許さない。
――それだけは絶対に許さない。
コルトの静かな気迫に圧倒されたオスカル達は我先にと逃げ出していった。
入り口で揉み合いになり転倒する無様な姿にコルトは煙草のフィルターを噛み潰す。
浅ましく、醜悪極まりない。度し難い程腐っている。
煮詰まった怒りを吐き出すように煙草を吹かすと、携帯灰皿の中に押し込める。
ちらりと、後ろのミリスのいる方を見た。目が合った瞬間彼女の肩がビクリと震える。
何も言わず、一瞬だけ穏やかな笑みを浮かべると再び前を向く。
これで終わりではない。まだ、やるべきことがある。歪んだヒエラルキーを粉砕するほどの劇薬が必要だ。
いいねェ、こっちの方がオレ向きのやり方じゃねえか。
そうだ。オレは『黒狗』コルト・アサギリ。
バケモノのやり口は、テメエ等みてえに手緩くはねぇぞ……ッ!!
漆黒の瞳に凶悪な色が帯びる。その顔には先ほどまでの慈しみの表情は何処にもない。
コルトは迷うことなく暗闇へと進んでいく。引き留めようと腕を伸ばしたするミリスに気が付かないまま……。




