夜桜
夜桜が見せる表情豊かな葉のせせらぎが僕に幻影を見せた。たちまちそこには神秘的でありながらどこか懐かしい気持ちにさせる、そんな雰囲気を纏った女性が現れた。彼女は僕の方を見つめ、ふっと微笑んだ。僕はその表情に温かいような、辛いような、微睡みのような、形容しがたい感情が心の底で渦巻いた。
「こんなところまで何しにきたの?」
その夜桜が言った。その声は僕がこれから100年生きても聞くことはないだろうと確信させるほど澄んでいた。
「生きることに意味が見いだせなくなって、どうしようもなくなって、心の水が溢れそうになって、そんな壊れそうな気持ちをなんとか落ち着かせようと夜中を歩いてたらここに導かれたんだ。」
僕はたどたどしくも、確実に、精神の鎖の束縛から耐えきれなくなった重い感情を言葉に変換した。
「そう」
夜桜はただ一言発し、僕の混沌とした重い感情を中心で受け止めてくれた。それだけで、僕の心は少し軽くなった。
「じゃあ、今夜は一緒に空でも見よう」
夜桜はそう言って、僕に隣に座るように促した。夜桜の言葉は流れるように僕の中に入ってきた。僕は自然と彼女の隣に腰を下ろした。
空を見上げる。曇りない夜空が一面に広がっていた。そこにはさまざまな深い青が、紫がお互いを尊重しながら融合していた。そして同時に地上から見ていてもなお、眩いまでの光がその深い空を彩っていた。僕はその光景に息を呑んだ。風が吹く。夜の風は少し寒かった。そのことが、僕が生きていることを伝えた。
確かに存在している自分。今まで生きていて景色に魅入られることはなかった。気にもとめていなかった。でも、このあまりにも壮大な景色は僕の心の深い場所に今後絶対に消えないであろう精神の灯火を生み出した。
「とても綺麗でしょう?言葉では絶対に到達し得ない深みがこの夜空にはある。あなたは幸せ者ね。」
「….そうだね。」
僕は未だかつてない魂の震えを噛み締めながらそう呟いた。圧倒されていた。
「辛いこと、苦しいこと、今にも投げ出したいこと、それらはすぐに消えるわけじゃない。もしかしたら一生消えないかもしれない。でも、それはあくまで社会の話。人と人との間だけなのよ。世界に目を向けてみなさい?世界とあなたの関係はゆるく繋がってるだけなの。世界はあなたを助けてはくれない。でも突き放すこともしないわ。ただそこにある。あなたたち人間はそれに乗っかってるだけなの。社会に目を向け続けるだけじゃなくて、世界に目を向けてみると案外生きるのもいいなって感じるわよ。」
僕は夜桜の話を聞きながら、もう一度夜空を見上げた。強い風が吹いた。今度の風も寒かった。でも、どこか心地よかった。




