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魔王を倒した勇者は、自分の名前だけ思い出せない

掲載日:2026/10/01

 魔王を倒した夜、わたしは自分の名前を思い出せないことに、改めて気づいた。


 祝宴の広間で、王さまが杯を掲げて言ったのだ。


「勇者に!」


 みんなが「勇者に!」と唱和した。わたしも杯を上げた。それから、ふと思った。


 ここにいる誰も、わたしの名前を知らない。


 わたし自身も、知らない。


   *


 一年前、わたしはこの世界に召喚された。


 学校の帰り道だったと思う。制服を着て、鞄を持っていた。気がつくと石の床の上にいて、白い髭の賢者たちに囲まれていた。


 召喚には、代価が要る。


 賢者のヴェルダは、最初にそう説明した。


「呼ばれた者は、元の世界から何かひとつを置いてくる。それが何かは、選べぬ」


 わたしが置いてきたのは、自分の名前だった。


 両親の顔も、友だちの声も、通っていた学校の廊下の匂いも覚えている。なのに、自分の名前だけが、そこだけ墨で塗りつぶしたみたいに、思い出せなかった。


 だから、この一年、わたしは「勇者」だった。


   *


「門は、七日後に開く」


 祝宴の翌朝、ヴェルダが言った。


「一度だけだ。それを逃せば、次に開くのは百年後になる」


 帰れる。


 胸の奥で、何かがほどけた。お母さんの顔が浮かんだ。台所で、何かを煮ている背中。


「ただし」


 ヴェルダは、杖で床を叩いた。


「門は、この世界の者が、勇者の真の名を呼んだときにだけ開く。置いてきたものを、こちらの声で呼び戻すのだ。ただし、音を並べるだけでは足りぬ。その名を、お前の名として知っている者の声でなければならぬ」


「……わたしの名前、誰も知りませんけど」


「知っておる。だから七日ある」


 ヴェルダは、それきり何も言わなかった。


   *


 手がかりは、ひとつだけあった。


 鞄の底に入っていた、ハンカチだ。


 薄い水色で、隅に刺繍がしてある。お母さんが縫ってくれたものだと、それは覚えている。小学校に上がるとき、持ち物には全部名前を書きなさいと言われて、お母さんは、ハンカチにまで刺繍をした。


 ひらがなで。


 わたしの名前を。


 なのに、わたしにはそれが読めない。刺繍の糸は見えるのに、文字の形だけが、水に濡れたインクみたいに滲んで、目が滑る。召喚の代価は、そういうふうに、徹底していた。


 そして、この世界の人は、ひらがなを読めない。


 王宮の学者たちに見せた。誰も読めなかった。


「異界の文字ですな。三つの文字のようですが」


 学者たちは首をかしげて、羊皮紙に形を写した。写した形は、わたしにはやっぱり、滲んで見えた。


   *


 ひとりだけ、読めるかもしれない人がいた。


 剣士のルカだ。


 ルカは、旅の最初から、ずっとわたしの隣を歩いてきた。口数が少なくて、字が読めなかった。この世界の字も。孤児院で育って、剣だけ覚えたと言っていた。


 旅の途中、野営の火のそばで、わたしはルカにひらがなを教えた。


 暇つぶしだった。地面に枝で「あ」と書いて、「これがあ」と言った。ルカは真面目な顔で、それを真似た。


「お前の国の字は、丸いな」


「かわいいでしょ」


「かわいいかどうかは分からん。でも、書きやすい」


 ルカは、覚えが早かった。三か月で、五十音を全部書けるようになった。わたしが教えた歌も、全部ひらがなで書けた。


 ルカに、ハンカチを見せた。


 祝宴から二日目の夕方だった。宿の中庭で、わたしは刺繍の隅をルカに向けた。


「読める?」


 ルカは、ハンカチをじっと見た。


 長いあいだ、見ていた。


「……汚れてて、よく見えん」


 そう言って、ハンカチをわたしに返した。


   *


 三日目、わたしは学者のひとりに、ひらがなを教えた。


 五十音の表を羊皮紙に書いて、一文字ずつ読み方を言った。若い学者は覚えが早くて、一日で表を写し終えた。


 四日目の朝、ヴェルダが門の石を持ってきた。丘に開く門の、かけらだという。真の名が呼ばれれば、これが光る。


 学者は、写した刺繍の形と五十音の表を、一文字ずつ見比べた。


「こ……は……る」


 その音は、わたしの耳には、水の底で誰かが話しているみたいに聞こえた。


 門の石は、一度だけ、かすかに揺らいだ。それから、ただの石に戻った。


「音を並べただけだ」


 ヴェルダが言った。


「この男は、勇者の顔を知っておる。だが、勇者の一年を知らん。名とは、そういうものだ」


 学者は、申し訳なさそうに頭を下げた。


 その日も、次の日も、ルカは読めなかった。


 わたしは、ルカの手のひらに、指で五十音を書いて、確かめた。ルカは全部、正しく言い当てた。一文字も間違えなかった。


 なのに、ハンカチの刺繍だけは、読めないと言った。


「糸が、ほつれてる」


「暗くて、見えん」


「お前の国の字は、刺繍にすると形が変わるんだな」


 五日目の夜、わたしはひとりで中庭に座っていた。


 ルカは、読めるのだ。


 読めて、言わないのだ。


 分かっていた。分かっていて、わたしも、強くは頼まなかった。


 帰りたい。お母さんに会いたい。あの台所で、自分の名前を呼ばれたい。


 それでも、ここにはわたしの一年がある。ルカと歩いた道がある。この世界の人たちが「勇者」と呼んでくれた声がある。


 ルカが黙っている限り、わたしはここに残れる。


 ルカのせいにして、残れる。


 わたしは、そういう卑怯なことを、少しだけ考えていた。


   *


 六日目の夜、ヴェルダがわたしを呼んだ。


「剣士は、読めるのだろう」


「……分かりません」


「読める。顔に書いてある」


 ヴェルダは、暖炉の火を見ていた。


「あれはな、自分が呼べば、お前が去ると知っておる。呼ばねば、お前はここにいる。だから呼ばぬ。それだけのことだ」


「……ルカは、悪くありません」


「悪いとは言っておらん。ただ、ひとつ教えておこう」


 ヴェルダは、杖の先で、暖炉の灰に何かを描いた。


「あの剣士は、お前の一年を知っておる。呼べるのは、あれだけだ。呼ぶかどうかも、あれが決める」


「呼ばなかったら」


「お前はここで、名前のないまま、一生を終える」


   *


 七日目。


 門は、王宮の裏の丘に開くことになっていた。夕暮れから、日没までのあいだだけ。


 わたしは鞄を持って、制服を着て、丘に立った。一年前に着ていた制服は、少しきつかった。


 王さまも、騎士団の人たちも、旅の仲間たちも来ていた。みんな、何も言わなかった。言えることが、なかったのだと思う。わたしの名前を知っている人は、ここにはいない。


 丘の上の空気が、少しずつ揺らぎはじめた。陽炎みたいに、向こうの景色が歪んだ。門だ。


 でも、開かない。


 日が、傾いていく。


 ルカは、いちばん後ろに立っていた。


 わたしは、ルカを見なかった。見たら、頼んでしまう気がした。頼んだら、ルカは呼ぶ。ルカはそういう人だ。でも、それは、わたしがルカに「わたしを追い出して」と頼むことだった。


 そんなことは、頼めなかった。


 日が、山の端にかかった。


 門の向こうの景色が、薄くなりはじめた。閉じかけているのだと、誰に言われなくても分かった。


 足音がした。


 ルカが、人のあいだを抜けて、わたしの前に来た。手に、ハンカチを持っていた。昨日の夜、わたしの鞄から、いつの間にか抜き取っていたのだ。


「……ずっと、読めてた」


 ルカの声は、かすれていた。


「最初の日から。一文字目から、全部」


「知ってた」


「怒らないのか」


「怒らないよ。わたしも、言わないでいてほしかったから」


 ルカは、少し笑った。旅のあいだに、何度か見た顔だった。


「お前が教えた字だ。お前の国の字で、お前の名前を、おれが呼べないわけがない」


 ルカは、ハンカチの刺繍に指を当てた。


 一文字ずつ、なぞった。


 それから、わたしの目を見て、言った。


「こはる」


   *


 墨が、剥がれた。


 そう感じた。頭の中の、ずっと塗りつぶされていた場所に、光が差した。


 こはる。


 小春。


 秋の終わりの、春みたいに暖かい日に生まれたからと、お母さんが名付けてくれた。小学校の入学式の前の晩、ハンカチに刺繍をしながら、「ここ、『は』の丸が難しいのよ」と笑っていた。


 全部、戻ってきた。


 背中で、門が開く音がした。夕暮れの丘に、そこだけ、春の匂いがした。


「小春」


 ルカが、もう一度呼んだ。


「行け」


 わたしは、泣いていた。泣きながら、笑っていた。


「ルカ。最後に、ひとつだけ」


 わたしは鞄から、旅のあいだ使っていた羽根ペンを出した。ルカの手のひらを取って、そこに書いた。


 この一年で覚えた、この世界の文字で。


「読めないでしょ」


「……読めん」


「ルカ、って書いた。こっちの字で、あなたの名前。わたしの国の字は覚えたのに、自分の国の字は知らないんだもん」


 ルカは、自分の手のひらを見た。


「今度は、誰かに習って。自分の名前くらい、自分の国の字で読めるように」


 ルカは何も言わずに、その手を握った。


   *


 門をくぐる直前、わたしは振り返った。


 ルカは、丘の上に立っていた。夕日を背にして、手を握ったまま。


 わたしは、ルカに教えた歌の最初の一行を、大きな声で歌った。ルカは、少し遅れて、同じ歌を返してきた。下手な歌だった。音程も、ひどかった。


 でも、ちゃんと、ひらがなで歌っていた。


   *


 目を開けると、学校の帰り道の、いつもの橋の上だった。


 夕方だった。川面に、夕日が細く揺れていた。


 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。


 画面に、お母さんからのメッセージが表示されていた。


『小春、晩ごはん何がいい?』


 わたしは、橋の欄干にもたれて、しばらくその一行を見ていた。


 自分の名前が、そこにあった。


 それから、深く、深く息を吸った。

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