魔王を倒した勇者は、自分の名前だけ思い出せない
魔王を倒した夜、わたしは自分の名前を思い出せないことに、改めて気づいた。
祝宴の広間で、王さまが杯を掲げて言ったのだ。
「勇者に!」
みんなが「勇者に!」と唱和した。わたしも杯を上げた。それから、ふと思った。
ここにいる誰も、わたしの名前を知らない。
わたし自身も、知らない。
*
一年前、わたしはこの世界に召喚された。
学校の帰り道だったと思う。制服を着て、鞄を持っていた。気がつくと石の床の上にいて、白い髭の賢者たちに囲まれていた。
召喚には、代価が要る。
賢者のヴェルダは、最初にそう説明した。
「呼ばれた者は、元の世界から何かひとつを置いてくる。それが何かは、選べぬ」
わたしが置いてきたのは、自分の名前だった。
両親の顔も、友だちの声も、通っていた学校の廊下の匂いも覚えている。なのに、自分の名前だけが、そこだけ墨で塗りつぶしたみたいに、思い出せなかった。
だから、この一年、わたしは「勇者」だった。
*
「門は、七日後に開く」
祝宴の翌朝、ヴェルダが言った。
「一度だけだ。それを逃せば、次に開くのは百年後になる」
帰れる。
胸の奥で、何かがほどけた。お母さんの顔が浮かんだ。台所で、何かを煮ている背中。
「ただし」
ヴェルダは、杖で床を叩いた。
「門は、この世界の者が、勇者の真の名を呼んだときにだけ開く。置いてきたものを、こちらの声で呼び戻すのだ。ただし、音を並べるだけでは足りぬ。その名を、お前の名として知っている者の声でなければならぬ」
「……わたしの名前、誰も知りませんけど」
「知っておる。だから七日ある」
ヴェルダは、それきり何も言わなかった。
*
手がかりは、ひとつだけあった。
鞄の底に入っていた、ハンカチだ。
薄い水色で、隅に刺繍がしてある。お母さんが縫ってくれたものだと、それは覚えている。小学校に上がるとき、持ち物には全部名前を書きなさいと言われて、お母さんは、ハンカチにまで刺繍をした。
ひらがなで。
わたしの名前を。
なのに、わたしにはそれが読めない。刺繍の糸は見えるのに、文字の形だけが、水に濡れたインクみたいに滲んで、目が滑る。召喚の代価は、そういうふうに、徹底していた。
そして、この世界の人は、ひらがなを読めない。
王宮の学者たちに見せた。誰も読めなかった。
「異界の文字ですな。三つの文字のようですが」
学者たちは首をかしげて、羊皮紙に形を写した。写した形は、わたしにはやっぱり、滲んで見えた。
*
ひとりだけ、読めるかもしれない人がいた。
剣士のルカだ。
ルカは、旅の最初から、ずっとわたしの隣を歩いてきた。口数が少なくて、字が読めなかった。この世界の字も。孤児院で育って、剣だけ覚えたと言っていた。
旅の途中、野営の火のそばで、わたしはルカにひらがなを教えた。
暇つぶしだった。地面に枝で「あ」と書いて、「これがあ」と言った。ルカは真面目な顔で、それを真似た。
「お前の国の字は、丸いな」
「かわいいでしょ」
「かわいいかどうかは分からん。でも、書きやすい」
ルカは、覚えが早かった。三か月で、五十音を全部書けるようになった。わたしが教えた歌も、全部ひらがなで書けた。
ルカに、ハンカチを見せた。
祝宴から二日目の夕方だった。宿の中庭で、わたしは刺繍の隅をルカに向けた。
「読める?」
ルカは、ハンカチをじっと見た。
長いあいだ、見ていた。
「……汚れてて、よく見えん」
そう言って、ハンカチをわたしに返した。
*
三日目、わたしは学者のひとりに、ひらがなを教えた。
五十音の表を羊皮紙に書いて、一文字ずつ読み方を言った。若い学者は覚えが早くて、一日で表を写し終えた。
四日目の朝、ヴェルダが門の石を持ってきた。丘に開く門の、かけらだという。真の名が呼ばれれば、これが光る。
学者は、写した刺繍の形と五十音の表を、一文字ずつ見比べた。
「こ……は……る」
その音は、わたしの耳には、水の底で誰かが話しているみたいに聞こえた。
門の石は、一度だけ、かすかに揺らいだ。それから、ただの石に戻った。
「音を並べただけだ」
ヴェルダが言った。
「この男は、勇者の顔を知っておる。だが、勇者の一年を知らん。名とは、そういうものだ」
学者は、申し訳なさそうに頭を下げた。
その日も、次の日も、ルカは読めなかった。
わたしは、ルカの手のひらに、指で五十音を書いて、確かめた。ルカは全部、正しく言い当てた。一文字も間違えなかった。
なのに、ハンカチの刺繍だけは、読めないと言った。
「糸が、ほつれてる」
「暗くて、見えん」
「お前の国の字は、刺繍にすると形が変わるんだな」
五日目の夜、わたしはひとりで中庭に座っていた。
ルカは、読めるのだ。
読めて、言わないのだ。
分かっていた。分かっていて、わたしも、強くは頼まなかった。
帰りたい。お母さんに会いたい。あの台所で、自分の名前を呼ばれたい。
それでも、ここにはわたしの一年がある。ルカと歩いた道がある。この世界の人たちが「勇者」と呼んでくれた声がある。
ルカが黙っている限り、わたしはここに残れる。
ルカのせいにして、残れる。
わたしは、そういう卑怯なことを、少しだけ考えていた。
*
六日目の夜、ヴェルダがわたしを呼んだ。
「剣士は、読めるのだろう」
「……分かりません」
「読める。顔に書いてある」
ヴェルダは、暖炉の火を見ていた。
「あれはな、自分が呼べば、お前が去ると知っておる。呼ばねば、お前はここにいる。だから呼ばぬ。それだけのことだ」
「……ルカは、悪くありません」
「悪いとは言っておらん。ただ、ひとつ教えておこう」
ヴェルダは、杖の先で、暖炉の灰に何かを描いた。
「あの剣士は、お前の一年を知っておる。呼べるのは、あれだけだ。呼ぶかどうかも、あれが決める」
「呼ばなかったら」
「お前はここで、名前のないまま、一生を終える」
*
七日目。
門は、王宮の裏の丘に開くことになっていた。夕暮れから、日没までのあいだだけ。
わたしは鞄を持って、制服を着て、丘に立った。一年前に着ていた制服は、少しきつかった。
王さまも、騎士団の人たちも、旅の仲間たちも来ていた。みんな、何も言わなかった。言えることが、なかったのだと思う。わたしの名前を知っている人は、ここにはいない。
丘の上の空気が、少しずつ揺らぎはじめた。陽炎みたいに、向こうの景色が歪んだ。門だ。
でも、開かない。
日が、傾いていく。
ルカは、いちばん後ろに立っていた。
わたしは、ルカを見なかった。見たら、頼んでしまう気がした。頼んだら、ルカは呼ぶ。ルカはそういう人だ。でも、それは、わたしがルカに「わたしを追い出して」と頼むことだった。
そんなことは、頼めなかった。
日が、山の端にかかった。
門の向こうの景色が、薄くなりはじめた。閉じかけているのだと、誰に言われなくても分かった。
足音がした。
ルカが、人のあいだを抜けて、わたしの前に来た。手に、ハンカチを持っていた。昨日の夜、わたしの鞄から、いつの間にか抜き取っていたのだ。
「……ずっと、読めてた」
ルカの声は、かすれていた。
「最初の日から。一文字目から、全部」
「知ってた」
「怒らないのか」
「怒らないよ。わたしも、言わないでいてほしかったから」
ルカは、少し笑った。旅のあいだに、何度か見た顔だった。
「お前が教えた字だ。お前の国の字で、お前の名前を、おれが呼べないわけがない」
ルカは、ハンカチの刺繍に指を当てた。
一文字ずつ、なぞった。
それから、わたしの目を見て、言った。
「こはる」
*
墨が、剥がれた。
そう感じた。頭の中の、ずっと塗りつぶされていた場所に、光が差した。
こはる。
小春。
秋の終わりの、春みたいに暖かい日に生まれたからと、お母さんが名付けてくれた。小学校の入学式の前の晩、ハンカチに刺繍をしながら、「ここ、『は』の丸が難しいのよ」と笑っていた。
全部、戻ってきた。
背中で、門が開く音がした。夕暮れの丘に、そこだけ、春の匂いがした。
「小春」
ルカが、もう一度呼んだ。
「行け」
わたしは、泣いていた。泣きながら、笑っていた。
「ルカ。最後に、ひとつだけ」
わたしは鞄から、旅のあいだ使っていた羽根ペンを出した。ルカの手のひらを取って、そこに書いた。
この一年で覚えた、この世界の文字で。
「読めないでしょ」
「……読めん」
「ルカ、って書いた。こっちの字で、あなたの名前。わたしの国の字は覚えたのに、自分の国の字は知らないんだもん」
ルカは、自分の手のひらを見た。
「今度は、誰かに習って。自分の名前くらい、自分の国の字で読めるように」
ルカは何も言わずに、その手を握った。
*
門をくぐる直前、わたしは振り返った。
ルカは、丘の上に立っていた。夕日を背にして、手を握ったまま。
わたしは、ルカに教えた歌の最初の一行を、大きな声で歌った。ルカは、少し遅れて、同じ歌を返してきた。下手な歌だった。音程も、ひどかった。
でも、ちゃんと、ひらがなで歌っていた。
*
目を開けると、学校の帰り道の、いつもの橋の上だった。
夕方だった。川面に、夕日が細く揺れていた。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
画面に、お母さんからのメッセージが表示されていた。
『小春、晩ごはん何がいい?』
わたしは、橋の欄干にもたれて、しばらくその一行を見ていた。
自分の名前が、そこにあった。
それから、深く、深く息を吸った。




