第8話 人の気も知らないで……っ!
「それじゃ、宿題見るね」
教室に入っても、美雪はいつもほどの元気さはなかった。
ただ、体調が悪そうな素振りはなく、ただ単にいつもの棘が抜けてしまったような、そんな感じに思えた。
「おう。今日のは自信あるから」
「ん……」
貴樹が宿題を差し出すと、美雪はそれに視線を落とす。
時折小さく頷きながらチェックをしていく様子を、貴樹は黙って観察する。
(いつもなら、間違いひとつ見つけるたびに小言言われるんだけどな……)
間違いがゼロというわけではない。
その証拠に、彼女はところどころ、宿題にチェックを付けていっている。自信のなかったところにそれが多いことから、たぶん間違えている場所なのだろう。
「うん……。90点くらいかな。上出来だと思うよ。えっと……それじゃ、順番に説明するから……」
チェックを終えたあと、美雪は小言のひとつも言わず 1問ずつ説明を始めた。
こんなことはこれまで初めてだった。
1問でも間違いがあると、「油断するからよ!」とか「こんな凡ミス、ありえない!」とか、鬼の首を取ったとばかりに何か言うのが常だったのだ。間違いがなくても「字が汚ない」などと、もれなくオマケがついてくる。
逆に心配になって、つい貴樹は口を挟んでしまった。
「なぁ、本当に今日は体調とか大丈夫か? 美雪が小言を言わないなんて、初めてだぞ?」
美雪はそれを聞いて、一瞬動きが止まる。
そして――。
(――何よ何よ! 人の気も知らないで……っ!)
同時に貴樹に対してふつふつと怒りが湧いてきて、彼を睨むとついに口を開いた。
「――あー、もうやめ! ほら、さっさとここ直す! 答え分かってても漢字の間違いとか、ありえないわ! バカね!」
吹っ切れたように言う美雪は、完全にいつもの調子に戻っていた。
その様子に、貴樹はある意味ほっとした。
常々、口煩いのが困りものだと思っていたが、いざ大人しくなるとそれはそれで心配で。
美雪の小言も含めて、それが自分の日常の一部なのだということに気付く。
(もし、美雪がいなかったら……)
貴樹はふと彼女のいない日常を想像する。
たぶんそれは刺激のない、変わり映えのない日々なのだろうと思う。
「……このほうが美雪らしいな」
つい笑いながら、貴樹は呟く。
「な、なに笑ってるのよ! そんなに小言言われたかったの⁉︎ ――やっぱり貴樹って変態ね!」
予想外の貴樹の反応に、美雪は少し戸惑いながらも、いつもの悪態が自然と口から飛び出ていた。
◆
それからの数日は、以前とほとんど変わらない日々だった。
唯一違うのは、美雪が毎日ご丁寧にメイド服を着て起こしにくることくらい。
口の悪さも変わらない。
ただ、徐々にそれが新しい日常となりつつあった。
――そして土曜日の朝。
高校が休みということもあり、貴樹は朝ゆっくり寝ていた。
そもそも貴樹が休日に目覚ましをかけるのは、予定があるときだけだ。
そのとき――。
ドスンと地震のような衝撃が貴樹の体を揺らした。
「――な、なんだっ⁉︎」
慌てて目を開けると、すぐ目の前にプリーツの入った紺色の布地。
どう見てもスカートに包まれたお尻だった。
「ふっふーん、起きた?」
見上げると、背中越しに自分を見下ろす見慣れた顔。美雪が目の前に勢いよく座った衝撃で、ベッドが大きく揺れたのだと気付く。
「美雪かよ。ビビった……」
「そのために来たんだから、当然よ」
勝ち誇ったように美雪は鼻息を荒くした。
「今日は休みだろ……」
「前に言ったでしょ? 貴樹の生活リズムのために、わっざわざ来てあげたの。感謝して欲しいわよ」
「へいへい……」
貴樹は眠たそうに目を擦りながら体を起こす。
今日の美雪は久しぶりに私服だった。
「――で、今日はなんかあるのか?」
とりあえず美雪に聞く。
生活リズムとは言っていたが、わざわざ休みの日の朝から来たということは、何か意図があるのだろうと思った。
今更だけれど、人の都合も聞かずに唐突に現れるのは相変わらずだ。
「亜希ちゃんのバイト先のカフェ、また行くんでしょ? 私も連れて行きなさいよ」
こともなげに言う美雪に、貴樹は内心焦る。
先週行ったことが知られているのは予想が付いていたけど、まさか一緒に行こうなどと誘われるとは思ってもいなかった。
「あ、いや……あの店は……」
「メイド喫茶でしょ? どんなのか、見てみたくて」
言葉を濁す貴樹に、美雪はそれを気にする素振りもない。
「ちょっと調べたけど、カップルで行っても大丈夫っぽかったし。……あ、それとも私とカップルって思われるの嫌だった? でも今更だよね」
さらっと自然に美雪は言ったが、内心では少し緊張していた。
これは彼女の作戦でもあったから。
今まで2人で買い物に行ったりするのはよくあることで、それを強調しつつ敢えてカップルという言葉を使ったのだ。
否定されなければ、少なくとも周りからカップルだと見られることに、拒否反応がないということだ。
「まぁ……今更なのはそうだけど。でも美雪こそ良いのか?」
「――――え?」
逆に聞き返されると思っていなかった美雪は、固まってしまった。
(ど、どうしよう……!?)
YESと答えるのは恥ずかしい。かといって、NOと答えるのはありえない。
自分の仕掛けた作戦が仇になって、美雪は焦って持ち前の思考能力が発揮できない。
そして――。
「……わ、私は……良いよ。もし、そう思われたとしても……」
彼の顔を直視できず、視線を伏せたまま、消え入りそうなほど小さな声で美雪はぽつりと呟いた。