第32話 ちょっと、まって!
「化学は覚えるだけだから簡単だよね? もっと早くできないとダメだよ?」
貴樹がやり終えた宿題を見ながら、美雪は軽く言った。
確かに考えるというよりも、調べながら穴埋めをする問題ばかりで、美雪にチェックされても間違いはほとんど無かった。
ただ、調べることが大変で、かなり彼女を待たせたのは事実だ。
「美雪は教科書見なくても全部覚えてるのか?」
「もちろん。この宿題なら10分もあれば」
「マジか……」
貴樹が調べながらで40分くらいかかったのが、たったそれだけで終わるというのに驚く。
「やるのは覚えてるから早いけど、最初に覚えるのは時間掛かるよ? それに、一度覚えてもところどころ抜けちゃうから、しばらく経ってから忘れてるところをチェック。んで、また覚え直し。延々とその繰り返しかな」
「それ、確か前も言ってたなぁ……」
「程々の成績取るだけなら、そこまでしなくてもいいけどね。知識の範囲を広げるほうが効くから」
話を聞いていて、美雪がどれほど勉強に打ち込んでいるのかを知ると、その熱意に感嘆する。
成績そのものに、それほどこだわりはないと言っていたから、なおさらだ。
「凄いな……」
「うん。凄いでしょ? もっと褒めなさいよ」
ベッドに腰掛けた美雪は、満足気に呟いた。
これだけは彼に認めてもらいたくて、それほどの努力をしてきたのだから。
「ああ。本当すごいと思う。……よしよし」
貴樹は彼女の前に立って、そのふわっとした髪をそっと撫でる。
彼を見上げながら、美雪はうっとりと口元を緩ませた。
「……むふふ、すっごく嬉しい」
その笑顔にドキッとさせられた貴樹は、照れながらも彼女の横に並んで座った。
美雪は無言でそっと彼の方に体を傾けて、肩に頭を乗せる。
「……このあとどうする? 貴樹が頑張ったから、まだ時間あるよ」
「それじゃ、ゲームでもするか?」
「うん、いいよ。……でも負けないよ?」
勝負事と思ったのか、眼鏡の奥の目がキラリと光った。
◆
「あー!! ちょっと、まって! ――まってって!!」
「いや、待たんだろ」
「――ひどっ!! あ、またバナナっ!」
ふたりでカートゲームをしながら、美雪は必死で自分が選んだキャラクターを操る。
最高速度は速いものの、見事に貴樹にトラップを仕掛けられて、なかなか追いつけずにいた。
「……よし、抜いた!」
「甘いな」
「あっ! ――えええーっ⁉︎」
結局、最後のストレートで抜いたと思った瞬間、完璧なタイミングで後ろから甲羅をぶつけられて、美雪は頭を項垂れた。
「ふぐうぅ……」
「また俺の勝ちだな」
これまでも負け続けていた美雪は、彼の勝利宣言を聞いて、頬をフグのようにぷくーっと膨らませた。
「絶対隠れて練習してるでしょ! 前はこんなに上手くなかった!」
「別に隠れてはないけど、まぁ美雪よりはやってるからな」
「酷い! か弱い女の子をいたぶるとかっ」
頬を膨らませたまま、彼の肩にゴンゴンと頭突きを繰り返す。
それを片手で防ぎながら、貴樹は弁明する。
「いや、だってさ。手を抜いたらそれはそれで怒るだろ?」
「それは当然。本気でやって、私が勝たないと意味ないし」
「じゃあ、美雪が上手くなるしか無いだろ?」
「そうだけど……」
わかってはいる。
元々ゲーム全般、貴樹のほうが上手いのは認めないといけない。
ただ、前回はいい勝負をしたから、なんとなく悔しかったのだ。
「はぁ、そろそろ時間かな……」
時計を見ると、そろそろ夕食の時間が近い。
美雪はコントローラーを置いて、大きく背伸びをした。
「それじゃ、帰るね。また明日……かな?」
「だな。美雪が忍び込んで来なきゃな」
「さーね。寂しかったらこっそり来るかもね」
美雪は笑いながら、隣に座る貴樹にぎゅっと抱きつく。
「寂しくならないように補給しとく」
「……おう」
貴樹も彼女の背中に手を回して、ぽんぽんと叩く。
「よし、気合い入れて帰ろっ!」
「そんなもんか?」
「そんなもんよ」
なぜか自信満々に答えたあと、ようやく彼から離れて立ち上がると、コートを羽織る。
そして鞄を持って、ドアを開けた。
「ばいばい。ちゃんと勉強もしなさいよ」
「ああ、またな」
少しだけ寂しそうな声で手を振ると、美雪は帰っていった。
残された貴樹はゲームを片付けてから、自分も部屋を出た。
◆
それからの数日、毎日同じような日々を過ごしていた。
帰ってからふたりで宿題をして、そのあとはゲームをするか、動画を見ながら他愛もない雑談をするか。
少なくとも、以前より美雪が部屋にいる時間は確実に長くなった。
――そして木曜日。
「貴樹、ちょっといいか?」
1限目のあとの休み時間。
貴樹は陽太に呼び止められた。
「ああ、いいぜ」
「この間、頼まれたやつなんだけど……。伝手を辿ってようやく話聞けたよ」
「本当か。やっぱすげーな、陽太は」
この前、ダメ元で陽太に頼んでいた話が、こんなに早く結果が出るとは、全く思っていなかった。
「それで、どんな感じだった?」
「中学のクラスメートだったってヤツにチャットで聞いたんだけど……全く、だよ。ほとんど非の打ちようもない優等生だってさ」
「へー」
「3年では生徒会長もしてて、悪い噂もない。あ、少なくとも中学では、彼氏もいなかったみたいだね」
「そうか……。ありがとう」
少なくとも話を聞く限り、自分の知っている玲奈とはだいぶ違う印象を受けた。
(……もう少し調べてみるか)
元気を取り戻したとはいえ、美雪にとって火種になりそうな要素はできるだけ払っておきたい。
そう思いながら、貴樹はひとり考え込んだ。




