s.s.01(外は雨)
冷たい雨とニュートリノ
その日わたしは自殺をした。
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この書き出しは少しおかしい。何故なら、まだ、わたしは自殺をしていないからだ。
だから、その日、わたしは自殺しようとした、が正しい。
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日取りは前々から決めておいた。
人は生まれる時は選べないけれど、死ぬ時は、場合によっては選ぶことが出来る。
それは非常に人間らしい選択だと、思わないでもない。
そのうち文化は自殺を認める事になるだろう。
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昨夜、わたしはお寿司を食べた。食べ納めにお寿司を食べた。
食べ納め、とは少し俗っぽくて嫌な表現だが、最後の晩餐にお寿司以上に相応しい食べ物が思い浮かばなかった。
マグロやウニよりハマチが美味しかった。ハマチはわたしの好物だった。
もう、ぜんぶ過去形。
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わたしが自殺に選んだのは、近所の九階建てのビル。
御近所に迷惑をかけるのはあまりよろしくないと思うが、飛び降りた先が人通りのない道であるから選ばせてもらった。高さも申し分ない。それに、十年前にも一人飛び降りていると云う噂もあった。二人目が出ると、さすがによろしくない噂が立つかもしれない。家賃が安くなるかもしれない。だったら感謝されるかもしれない。
それは勘違い。
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わたしが自殺を決意したのは男に振られたからだ。
とても分かり易い。
けれど、振られたのはもう一年以上も前の話だ。だから、わたしさえ黙っていれば、自殺の原因を、ありきたりの言葉で適当に書いた遺書に求めるだろう。
カレの事を愛しているから、迷惑はかけたくなかった。
未だに愛しているから、迷惑はかけたくなかった。
少し難儀。
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その日、目が覚めると外は雨だった。
がっかりした。
運動会でもないから、雨天順延なんてしない。
雨天決行。
カレンダーにつけられた赤い印。
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カレにさようならを云われたあの日を、はっきり憶えている。
もし、あの時、泣いてすがっていれば、カレは思いとどまってくれただろうか。
分からない。
少し考える。
でも過ぎたことだ。
私はカレに捨てられたと思っている。
別れの理由はどうでも良い。
それ程ありきたりの理由だったから。
だが、もし、カレがひょっこり現れて、やり直したいと云えば、いつだって受け入れられる。
その場でカレに抱きついて、深いキスを交わしたい。
些細な夢。
馬鹿みたい。
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歯を磨いて顔を洗って、少し空腹を憶えたが、何も食べずに着替える。
もう、何も食べるつもりはない。
冷蔵庫は空にした。ゴミは全部、昨日のうちに出した。
本棚も整理したし、床も掃除した。
大掃除は楽しかった。
風呂場もトイレも洗面所も台所も、全部ぜんぶ、綺麗にした。
携帯電話のメモリもコンピュータの中身さえも、初期化して真っ白にした。
とても満足。
いい気分。
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わたしは髪を梳かして、一番気に入っている紺色のスカートと、少し色あせた空色のブラウスを着る。それから焦げ茶色したダッフルコートを着込んだ。
机の上の二通の遺書を取る。何度も書き直した、二通の遺書をとる。
一つは故郷の家族へ。もう一つは小学校以来の親友、ユッコへ。
貸した本の督促状。
死人の本なんて気持ちが悪いだろうが、返すにも返しづらいだろう。だから督促状。他にちょっとした世間話。
最後に運転免許証の入ったパスケースを取り、ブラウスの胸ポケットに仕舞った。これで身元は直ぐに分かる。
カレには迷惑をかけたくはなかったが、知っている人は知っている。
このパスケースはカレからのプレゼントだった。
カレから初めて貰ったプレゼントだった。
男の人から貰った初めてのプレゼントだった。
小さな、わがまま。