夜になった琵琶湖は遠くで漁火がゆらめき
#6
夜になった琵琶湖は遠くで漁火がゆらめき、どこか人恋しくさせる。
浜辺の老木は積年のダメージで萎れ、まるで恋にやぶれつづけた人のよう。
――ってな感じのポエム的情緒を全くもたない俺は、枯れすすきの茂みに向けて立ちションしていた。
白く冴えた月をあおぎながら放尿すると無性にホッとした。
(冒頭の美文はどっかの本からの受け売りです。)
これまで一つも息抜きできていない。
理由は杏奈にあった。
まず、あいつはテントの中でもギターを弾きつづけて、うるさい。
愚痴もやめなかった。
こんな風に。
『人間に縛られてるといえば円城だな。惚れたハレたの興味しかない。爛熟した退廃的愛欲と承認欲求にまみれすぎてる』
『円城に厳しいですね』
『もっと清くて明朗な、ちょうどあたしみたいな心を持てばいいのにな。わかってないよなあ。隼人もその通りと思うだろ?』
『え? あー……はい』
先輩風を吹かされまくる俺に、どうか皆さん同情してほしい。
膀胱をすっきりさせテントの近くにもどると、ギターの音が止んでいた。
やっと静かになったかと思う反面、違和感があった。
茨城の筑波山や、静岡の田子の浦、そのほかの場所で野宿したときは、日付が変わってもジャカジャカやっていたものだ。
いっそう寒い風が吹いて、嫌な予感。
テント内に帰還した俺は、ポカンとして固まる。
「……な、何してんすか先輩」
俺の青い寝袋を盗られていた。
身長一五〇センチの体をすっぽり埋め、右手を出してスマホをいじっていた。
サファイア色の目でのんきに俺を見上げ、
「リラックスタイム」
「わけがわからないです」
「隼人はあたしの赤い寝袋を使え」
「普通のことみたいな顔で言わんでください。自分でどういう意味か理解してます?」
「寝心地を試したかったんだ。他の意図はない」
「同じメーカーのただの色違いなのに?」
「じゃあ、なおさら、どっちで寝てもいいだろ」
「???????」
「あたしは今日はこっち。めんどいからもう動かないぞ。それとも腕ずくで無理やりあたしを引っぱり出すか?」
「いや、まあ……好きにしはったらええんちゃいますか……」
年下男をからかってるんだろうか。
俺は溜息をついて平静を装う。
この空間は杏奈の匂いが満ちていた。
何度も使っているテントと寝袋に染みついた、高級杏仁豆腐のような甘い芳香。
野宿で風呂に入っていないせいで、かえって絶妙な調香をされたらしい。
息抜きできない最大の理由がこれだった。
二十三時を過ぎた。
真ん中に吊るした電気ランタンはもう消した。
赤い寝袋に入ったが、案の定寝つけない。
杏奈の香りが想像をこえて強かったし、元凶の張本人はスマホの光を横でチラチラさせている。
かえすがえすも迷惑な先輩だ。
彼女を懲らしめたい気分になってきた。
寝袋越しにかけられる関節技はないかと思案した。
あるいは真上から肩を押さえてフォール勝ちしてやろうかと。
しかし闇夜でそれをする意味を考えたとき俺はさすがに立ち止まった。
杏奈を支えなきゃいけないのだ、俺は。
路頭に迷っていた彼女を〈土俗超現代クロノス〉に引きこんでしまった、その責任があるから。
「何見てんだ隼人」
「あっ……」
知らずしらず先輩の容貌を凝視していた。
「わかった。スマホで何してるか気になるんだろ?」
「いや、なんでもなくて……」
ニヤリと笑う杏奈。
「教えてやるよ。実は小説読んでんだ。『春の嵐』っていってな」
「……!?」
「ぜんぜん無名だけど面白いぞ。体制側と反体制側のふたりの兄がいて、主人公の箱入りの妹が、すごいかわいそうでかわいいんだ。それで、現代にも通じる日本人の心のひずみを、これでもかと表わしてる。これを書いてるやつは誰なんだろな? とにかく物を知ってるやつだ」
「……へえーっ」
夕方、俺と杏奈に同時の通知が来たとき、何かの偶然だろうと思って俺は詮索しなかった。
そして今、きとらが作者だとは知らなさそうで、変な話だが安心した。
市川林々の正体は、なんとなく、ずっと俺ときとらだけの秘密であってほしかったので。
「読んでみろ。面白いから」
寝袋ごとにじり寄ってきて、スマホを渡された。
弟が、その場にいない兄のことを批判しているらしい場面。
引用すると、
『兄は、思想の依代の無さを、誤魔化してゐる。文明開化の、何でも攝取すれば良かつた時代が過ぎて、昭和の日本國は、取捨選擇に迷つてゐる。ゆゑに兄は、新時代の指針を、民族の神聖性に求め、逆行して古の神明を奉ずるのだ。古代へのフアンタジイを持ち過ぎだ。萬葉集の、數多ある凡歌と、早くもイメエジの陳腐化した歌枕を見よ。取り繕つた尊皇の言葉を見よ。廣く清けき心のある歌人は、實に僅かぢやないか。
即ち、
古代も現代も、
同じ暗黒だ。
過去に於ては、原始共産制のみが称揚するに足るのだ』
こうして読むのさえ難しい。
皆さんお察しの通り、全くネットで評価されない。
俺もサッパリわからないまま、ひとまず義理でアクセス数を捧げている。
きとらに後日あらすじを教わって、ようやく「な、なるほど……?」となるレベルだ。
「いいこと書いてあるだろ」と、満足げな安奈。
「そ、そうなんすか」
「キャラがあたしと違う意見なんだ。確かに良い指摘をしてる。復古主義ってのは無理に昔を甦らそうとする擬古・逆行に陥りやすい」
「ギコギャッコー?」
「万葉の歌がその時代状況のなかで、自然におのずからヒネらずに生まれたんだとしたら、千年後にそれを褒めて真似ようとするのは、摂理にさからってゾンビをよびだすようなものだろ? そういう風に性根が歪んでると言いたいんだ、このキャラは。目に見えている現代からなぜ逃げるのかって話だよ。単純だろ?」
なんのことやら。
本当にこの人は、相手に伝わっているかどうか気にせずに喋る人だった。
しかもそのわりに同意を求めてくる。
勝手に猛進しつつも、無意識にそれが不安になるのだろうか。
「でも、あたしは一念を曲げない!」
「!?」
いきなり寝袋から飛び出した杏奈が、俺を指差して叫んだ。
「時代とか現代とか古代って、そんなに距離があるか? 過去をふりかえって参考にしたいとき、昨日と去年と千年前にたいした差があるか? おなじ過去じゃないか。ヨーロッパのルネサンスだって、ある意味、紀元前時代の焼き直しなのに、それを擬古・逆行と笑うやつはいない。あたしはその理由がわかる。なぜだと思う隼人?」
「わかりません」
「即答!? まあ正直だから許す。答えは、「時代をふりかえる下地がそれまでに出来てた」ってことだ。要は『歴史の必然』! 特定の過去をふりかえりたくなる流れがそのときにあったんだ。日本の戦前の国粋主義だって、最後は破滅だけど、それに向かっていく大きく止められない流れが生んだ結果だろ?」
「……そうなんすかね?」
「そして今、あたしも流れを感じてる。古代に学べって流れを。もう論理とかじゃなくて直感や霊感だ。この国の風土がそうしろと言ってる。産土神だよ、産土神。大事だぞ神は」
テントの出口を開け放ち(寒い!)、月光に向けて宣言した。
「人の魂は、縄にしばられても強制できない『やむにやまれぬ』『まもり敢えぬ』ものだと、あたしは思う。のびのびと、体がおもむくところに、心も置く。場所に心身を溶かし込んで、そこがあるべきところだと信じる。一人のおのずからの動きを極力ゆるすのが日本の古来永遠のありかただと、打算と理屈で行き先をしばっちゃいけないと、そうやって昔も生きてきてこれからも生きなきゃと、あたしはすごく思うんだ!」
「…………」
杏奈の熱意を、俺はどう解釈すればいいのだろう。
ピュアな理想なのか。
それとも歪んだ歴史認識か。
杏奈の行く道は正しいのか……。
(たぶん、そのへんの判断を人にゆだねるのが俺の役目なのだ。土俗超現代クロノスのありかたを紹介することで、良くも悪くも少女たちに評価点がついて、あわよくば未来を広げられるかもしれない。おせっかいかもしれないが、俺は今後も、三人を世に引きずり出そうと思う。)
あとは簡潔に書こう。
急に寒さや異性を感じなくなり、俺は快眠できた、
そして日の出とともに目覚め、杏奈が湖上の朝日をながめてジャカジャカと演奏・録音し、これで用は済んだ。
テントを撤収。
さらば琵琶湖!
電車のロングシートで、杏奈は疲れたのか、よだれを垂らしながら寝た。
俺は旅の出来事を要約してきとらに送信した。
箱入り娘は『春の嵐』が仲間にも読まれていたと知って嬉しそうだった。
ガラガラの電車。
車窓の琵琶湖は日本晴れ。
寄りかかってくる寝息。
とてもゆっくり時間が流れたのを俺は忘れない。
……その後、おみやげに鮒鮨を買って地元にもどり、誰も食べられずに押しつけあったという話は、機会があれば、いつかそのときに。




