最強の女吸血鬼vs一般男性
アオリツは時折後ろを振り返りながら夜の裏路地で必死に足を進めていた。
彼女は吸血鬼だった。人間なら致命傷になるような傷を何箇所も負っていたが、吸血鬼特有の再生力で応急処置的に傷を塞いでいた。
しかし、傷は深く今にも倒れそうなほど満身創痍の状態だった。
今の彼女の脳内には様々な感情が渦巻いていたが、その中で最も大きいのは困惑であった。
アオリツは今まで自らの欲望を抑えたことがなかった。自制はもちろん、なんらかの外的要因で抑圧されることもなかった。
なぜなら、彼女は強かったから。
彼女はこれまで自分以外の吸血鬼とも戦ったことも何度かあったがそれでも勝ち続けていた。
そんな彼女に初めて訪れた敗北。しかも相手はこれまで見下してきた人間だった。
屈辱、恨み、恐怖、そしてそれらを解消することのできない苦しみ。
アオリツは生まれて初めて味わう感情に困惑していた。自分を支配している感情がなんなのか過去の経験から探っていたが、ないものを見つけることは当然できなかった。
闇の中を進み続けてついに路地に抜けた。
アオリツは答えを探しつづけていたが、ここで一旦、自分の内面について考えるのをやめた。
街灯に照らされた自分の体はボロボロで、いくら頑丈な吸血鬼といえど、このままでは夜が明ける前に死んでしまうだろう。
彼女は人間を探していた。吸血鬼は動物の生き血を吸えば体を再生することができる。この東京で最も見つけやすく捕らえやすいのは人間だった。
夜の街をさまよい、公園にたどり着いた。
公園に足を踏み入れると同時に彼女は倒れた。既に限界だった。
薄れゆく視界の中で彼女は公園に1人佇む人影を見た。
彼女は気力を振り絞って声を出した。
私が生き残るにはこの人間を騙して血を吸うしかない。
「助けてください……」
「えっ……な! ど、どうしたんですか!? 大丈夫なんですか!?」
「大丈夫じゃないです……」
人影の正体は気弱そうな青年だった。青年は最初驚いていたが、すぐに倒れている女の方に駆け寄っていった。
「そ、そうですよね! 今救急車呼びます、から」
青年は女の方へ向かいながらスマホを取り出そうとズボンのポケットに手を入れ、その状態で動きを停止させた。
近づくにつれ鮮明になっていっていく女の姿に、青年は異常を感じ取っていた。
女の右腕は肩から刃物で切られたように綺麗に切断されていて、うつ伏せの状態だったが、その他にも深い傷があるのが分かった。それに加えて、体にはゴミが付着していて、悪臭を放っていた。
突然非日常に引きずり込まれた青年の頭は高速で回転を始めていた。様々な考えが脳内をよぎっていく。
数秒後、青年の頭脳はパンク寸前で一つの答えを出そうとしていた。
この女、自分に助けを求めているこの女の正体は吸けーー
「あの、早く……助けてください……」
その瞬間、女の消え入りそうな声が青年の耳に入り込んだ。その結果、青年の思考はまとまることなく霧消した。
「早く……こちらに……」
女の声に思考を乱され青年の頭はついにオーバーヒートを起こした。もはや深く考えることすら億劫になくなった青年は思考を放棄し、この非日常になすがまま流されることを選んだ。
「あっ…あ………はい……、すみません……」
青年は女の側まで近づき、しゃがみ込んだ。救急車を呼ぼうとスマホを操作する。
「今、救急車呼びますからね……えっ」
突然、青年の腕が女に掴まれる。青年は反射的に女の顔に目を向ける。青年はヒッと息を呑んだ。
女の瞳がギラギラと赤く鈍く光っていた。青年は自らの選択が間違っていたことを悟った。
女ーー吸血鬼が口を開くと鋭く発達した牙が剥き出しになった。青年は吸血鬼の手を振り解こうとしたが、見た目からは想像できない腕力で逆に吸血鬼の口元へと腕を持っていかれる。
そして、吸血鬼は獣のように青年の腕に齧り付いた。青年の血が吸血鬼の口に流れ込んだ。
「まっっっっっっっっず!!!??!? なんだ!? なんだこのっ!? わああああああああ! まずいまずいまずいまずいまずい!!!!」
女は自分の傷も忘れて地面をのたうちまわった。
青年は何が起こったのか理解できていなかったが、この隙にと走り出す。
今の状態の吸血鬼ではもう追いつけそうにないところまで青年が離れたとき、吸血鬼がようやく青年に目を向ける。
『止まれ』
吸血鬼の声が耳に入った瞬間、青年は足を止めた。青年は吸血鬼命令に従うと、彼女の方へと向き直った。
青年の目はうつろで、表情からも感情を窺い知ることができない。
『戻ってこい』
吸血鬼がもう一度命令を出す。
青年は命令に従い、吸血鬼の元へ駆け寄った。
「バカが。血を吸った時点でもうお前は私の奴隷なんだよ」
青年は何も言葉を返さない。
「……クソッ!」
吸血鬼はしばらく渋面を作っていたが、意を結したように青年のうなじに噛み付いた。ちゅうちゅうと血を啜る。
それは、アオリツにとって初めての妥協の味だった。
閑静な夜の公園に血を啜る音だけが響いている。
「不味い……なんでこんなに……」
彼女の目が徐々に潤んでいく。
血の不味さだけが理由ではなかった。
血を飲めば飲むほど涙が溜まっていく。そして、ついに決壊した。その瞬間、彼女の中に溜まっていた感情も流れ出した。
「うわああああああああん、うぅ、うぐっ……うえーーーーん、ひぐっひぐっ」
彼女は泣きつづけた。まるで親に叱られた子供のように、顔を真っ赤にして恥じらいもなく泣いていた。
やがて落ち着いたのか泣き声が止んだ。スンと鼻を鳴らすと、左腕で涙を拭った。目元が腫れぼったくなっていた。
『お前……お前の住処連れてけ』
アオリツはすんすんと鼻を鳴らしながら命令した。
女吸血鬼の勝利?