日常の中には眠れない日もある
翌日からティターニアの王妃教育が始まった。
その内容は多岐に渡る。
一番重要視される王族の心構えは、王女であり巫女姫でもあるティターニアは問題ない。自分を律することをよくわかっている。
いつも穏やかなティターニアが凛とした姿を見せるこの授業を、セラフィーナは密かに気に入っていた。
ティターニアはマナーももちろん完璧だ。だが文化が違うので多少の修正が必要になる。
その横でセラフィーナは苦戦を強いられた。
通訳に同席しているだけのはずが、所作を見かねた教師から「せっかくの機会ですから矯正しましょう」と言われた。
どのみち侯爵令嬢としてやっていくには必要なので、お願いしたものの。
「フィーナ様。もっと優雅にカップを持ちましょう」
手をピシッと叩かれる。
「は、はははい」
そうはいうものの、すでに指がつりそうなのだ。
セラフィーナの中では優雅なつもりなのだが違うらしい。いや、らしいというか、わかってはいるのだが、指先まで神経を尖らせながらもそれを感じさせない優雅さというのが、なかなかに難しい。
もちろんセラフィーナも淑女教育を受けてきているが、しょせん伯爵令嬢だ。しかも異国好きなセラフィーナは淑女教育を疎かにして、語学や知識を詰め込むことを優先していた。
そのつけが回ってきただけなのだが。
「そのフォークの扱い方では優雅とはいえませんね」
ピシッ
せっかくの王宮料理の美味しい味を楽しむ余裕もなく、食事の時間は過ぎてゆく。
ティターニアが一番苦戦したのが一般常識や歴史などだろう。大陸が違うので一から覚える必要があるし、難しい単語も多い。そんなときこそセラフィーナの出番だ。
内容も徐々に深いものになっていくので手元には常に膨大な資料と本が重なっていて、勉強家なセラフィーナは負けてはいられないと、授業後ティターニアと復習に勤しんだ。
レオナルドは最初に約束したとおり、時々菓子を持ってセラフィーナの部屋に訪れた。
将来外交官のトップに立つレオナルドは、幼少期から他国を回っていたらしい。セラフィーナはその話を聞きたがった。
「え?サイプレスの時計塔に登ったんですか?」
「ああ。十歳の時だ」
「十歳!私はお祖父様に子供じゃ無理だと言われましたよ!」
「お前の祖父殿は正しい。私は叔父上に連れていかれたがかなりきつかったな。叔父上は基本スパルタだから途中でやめることを許してくれなかった」
「大変だったんですね」
「てっぺんに着いたときは達成感と景色の素晴らしさに不覚にも涙が出た」
「ええ?腹黒王子のレオナルド様にもそんなかわいい子供時代があったなんて!」
「おいこら。言い過ぎだ」
「ふふふ」
お互い偽装を解いているせいかずいぶん気安くなった。
「煩わしいから殿下はやめろ」と言われ、レオナルドが素の時は様付けで呼ぶようになった。そしてレオナルドからはセラフィーナと呼ばれた。フィーナは仮の姿だからと。
帰り際には、セラフィーナの頭をポンポンと撫でてくれるのが日課になった。そのたびにセラフィーナはくすぐったさを感じつつ心が温かくなった。
そんな二人にティターニアは興味津々だ。
「二人はとても仲が良いのね」
「そうですね。気にかけてもらっています。でも大半がからかわれていますよ」
「ふふふ。でもあんなに気安いのはフィーナだけよ。きっとお心を許されているのね」
リンカの勉強も順調だった。
セラフィーナはリンカに鬼のごとく何度も言葉を反復させた。宣言通りかなりのスパルタで、リンカは必死に食らいついている。
二人の横でティターニアは慄いている日々だ。
ターニャは兼任だというのになにかとセラフィーナの世話を焼いてくれた。
化粧で肌が荒れないようにと高級なクリームでせっせとマッサージを施してくれる。かつらで髪が傷むからとそちらも香油で整えてくれた。
「セラフィーナ様もフィーナ様も残念令嬢様も、どれも損なわせません!」
残念令嬢にまで様付けしていることに笑った。
忙しい毎日だがセラフィーナは時間をみつけては王宮図書館にも出向いた。他国の本がたくさんある上に翻訳前の原書まであるのだ。
ほくほく顔で数冊の本を持っているセラフィーナを見て皆が「あれだけ王妃教育をこなしてさらに読書をするのか」と内心引いていたことを、セラフィーナは知らない。
その日の夜も借りてきた本をのんびり読んでいた。
するとノックが聞こえる。
レオナルド様だ!今日は何のお菓子かな?
心を弾ませて扉を開けると予想どおりレオナルドが入ってきたが、いつもより疲れた顔をしている。
「婚約披露までもう時間がないというのに兄上が張り切っていてな。ユーリも悲鳴を上げているぞ」
「お兄様も!お疲れ様です。でもドレスを決めた日を思い出すと…なんだか想像ができます」
「まさにそのとおりだ。それにたまには学園に顔を出さんとな」
学園のスキップ制度は成績優秀者の特権だが、王族のみ例外になる。同世代と交流を図るため、秩序を保つためなどの理由で、必ず四年間在籍しなくてはならない。ただし公務を優先できるので出席数は考慮される。
ちなみにレオナルドとユーリアスは18歳なので今年が最終学年だ。
「学園にも行かれたのですね。変わりありませんか?」
「ああ。モルガンを見かけたが、男爵令嬢と仲良くしていたぞ」
フィリアからの手紙でその様子を教えてもらっていたが二人は順調のようだ。
セラフィーナがにんまりするとレオナルドは笑った。
「嬉しそうだな」
「はい!テディ様には子供の頃から嫌な思いしかしていませんから。マリエラ様とうまくいってほしいと願ってます。今は王妃教育のお手伝いとか大変ですけど、学園で会わないだけでも気が楽ですし」
笑顔で話していたらレオナルドがすくっと立ち上がる。
今日はもうお帰りなのかと少し残念に思ったが、レオナルドに手を取られテラスに連れ出された。
今日は満月のようで、柔らかい月の光が夜の街を包み込んでいる。
「綺麗な満月ですね」
静寂の中、月を見上げているとレオナルドの視線を感じた。
「やはり夜の海の色だな」
「え?」
「お前の色だ」
レオナルドは一歩セラフィーナに近づいた。
「大陸を渡るときは、船の中で夜を明かす。周りには遮るものも一切なく、ただ凪いた海の中にぽつんと船だけが残される。街灯も何もない、辺りは真っ暗だ。
だが月の光が今日のように明るいときは、暗いだけだった海の色が変わる。ちょうどお前の髪と瞳と同じ色だ。月の光で照らされた海の色。……私が一番好きな色だ」
レオナルドは胸のあたりまでふんわりと垂らされているダークブルーの髪を優しく手に取った。
「とても綺麗だ」
セラフィーナは急に恥ずかしくなった。
こんな風に褒められたことも、髪を触られたこともない。帰り際に頭を撫でてくれるときとは触り方も雰囲気も違うし、レオナルドとの距離の近さにもドキドキする。
「あ、あの、あ、ありがとう…ございます」
セラフィーナは顔を真っ赤にしながら小さな声で何とかお礼だけ伝えた。
どうしよう。
とても恥ずかしくて緊張していて、どうしていいかわからない。
顔を赤くしてもじもじしていると、レオナルドはクスッと笑い手を離した。
「お前の色は髪も瞳も、私の一番好きな色だと覚えておけよ。いいな」
いつもの雰囲気に戻った気がして、セラフィーナはホッとしつつも嬉しくなった。
“月明かりに照らされた海の色”
中央大陸から出たことのないセラフィーナはまだ見たことがない。そんなふうに褒められるなんて、なんだか照れくさい。
はにかんだ笑みをみせるセラフィーナに、レオナルドは目を細める。
「やはり夜は少し冷えるな。中で茶を入れてくれ」
「はい!今日はサイプレスのハーブティがありますよ。疲れたときはぴったりです!」
「そうだな。明日からも兄上のお相手だ。もらおうか」
お茶をしながらいつものように他愛もない話をし、レオナルドは帰っていった。
一人残ったセラフィーナはテラスでの出来事を思い出すとカッと熱が上がって、じっとなんてしていられなかった。明日も頑張らなくてはいけないのに眠れる気がまったくしないのだ。
もう一杯お茶を飲もうとそわそわしながら茶器セットを用意しつつ、ふと思った。
なぜ急にレオナルドは髪と瞳の色を褒めたのだろう。この濃い色は他国にいけばそれほど違和感もないし、今はティターニアとリンカもいる。王妃も褒めてくれたし自分でも受け入れている。
だが昔嫌な思いをしたせいで好きとは言えない。
そこで思い出した。
あの時テディの話をしていたらレオナルドが立ち上がった。婚約を解消したいことはレオナルドももちろんわかっているが、ユーリアスから昔の話を色々聞いたのかもしれない。
きっとレオナルドは慰めてくれたのだ。
夜の海の色だなんて。
綺麗と言われたことはあるが、一番好きな色と言われたのは初めてだ。
ハーブティを飲みながら、セラフィーナは心も体もほんわかと温かくなっていく。
素だと、言葉が悪くて腹黒で、からかわれてばかりで……でも優しい人。
セラフィーナは自然と笑顔になる。
よし、明日も頑張ろう!
席を立ち、髪をはらった瞬間また思い出した。
あんなふうに髪を触られるなんて!!
また興奮がぶり返し、セラフィーナは結局眠れない夜を過ごした。




