1『異常な日常』
線香に火が灯り、煙が上がる。
僕、九条院拓斗は仏壇の前で目をつむり、合掌した。
目の前にいるのは目元に深い皺が刻まれ、老化を感じさせつつも朗らかに笑う女性。
――九条院美代。数ヶ月前に癌で他界した、僕の母。
「……行って、きます」
独り言が虚空に響く。返事など返ってくるはずもないのに。
気を取り直し座布団から立ち上がる。
僕は居間を後にして、ジャケットに腕を通しつつ、家の裏口から外に出た。
▼
僕の生家は祖父の代から『九条院診療所』という外科医院を続けている。
父は街でも評判の高い腕利きで、母も生前は看護師として共に働いていた。
妹の真矢はそんな二人に憧れて看護師を志し、日々勉強に励んでいる。
「……だから、バランスカロリは駄目だと言っているでしょう? あれは満腹感を錯覚させているだけで、実際は栄養素が――」
外に出るなり、電話で話している父、賢一に出くわした。
眼鏡をかけた少々やつれた風貌の中年男性。
巷で話題の携帯食品に頼る患者を、強くたしなめている。
「――とにかく、あんなものに頼ってはいけない。泣きを見るのはおたくさんなんですから。いいですね?」
通話が終わりそうだった。
慌てた僕は、急いで父の横を通り過ぎ、裏路地から表に出た。
最近、父との距離感がつかめない。
父は口を開けば「進路はどうだ?」「外科の道を行く気はないか?」など、明らかに僕が家業を継ぐことを期待する発言しかしてこない。
そして―――
「邪魔」
「真矢……」
いつの間にか背後に立っている妹の真矢。
ショートボブに父譲りのキリッとしたつり目の凛々しい印象を与える妹。
「なぁに? どいてよ」
「ああ……悪い」
道を譲ると、妹は冷たく僕の前を通り過ぎる。
そのまま行ってほしかったのだが、妹は一〇メートルほど歩いた後振り向いた。
「ねぇ、まだ迷ってんの?」
うん、と僕が相槌を打つと、
「いい加減、決めてくれないとこまるよ」
「それは――」
「あのさー、そもそもなんで嫌なわけ? お兄ちゃんなら医学部だって楽勝でしょ? 落ち着く場所も決まっているんだし、迷う理由がわかんないんだけど」
妹もまた、僕が医学の道へ進むことを強要してくる。あるいは父よりも強く。
ただ、それは「兄が食べるのに困らないように」だとかそういう僕の身を案じての発言ではない。
おそらく彼女の描いている未来予想図に、『実家を継いだ兄』というピースが必要なだけなのだろう。
「俺は医者になりたいわけじゃないよ」
「じゃあ他になりたいものでもあるっての? 進路は? 業種は? 具体的に決まってる?」
他人事のように言う僕に妹は少しムッとした様子で言い返す。
「そこまでは決まって……ない」
しどろもどろに言う僕に真矢は踵を返し、振り向き様に一層強い視線を投げよこした。
「ほんと、優柔不断。なにを考えてるの?」
そう言い残すと今度こそ足早に立ち去っていった。
「……はぁ」
いつものやり取り。もうずいぶんと慣れた。
なのに――。
『なにを考えてるの?』
その言葉がしこりのよう残り続ける。
▼
昇陽高校、二年B組。昼休み。
クラスを包んでいた緊張が解け、堰を切ったように話し声が溢れる。
多くは二、三人で机を囲み、何人かは学食へと移動する。
少し前までは、自分も友達と一緒になって身の振り方を決めていた。
「九条院くんはどこで食べるか決まっている?」
クラスメイトの沢口さんに声をかけられる。
活発で気風が良く、クラスの中心に立つことが多い女の子。
「九条院くんがよければだけど、こっちで食べない? 席、空いてるし」
「ええと」
彼女の後ろを見ると、男女数人が座って喋っている。
中には比較的よく話すクラスメイトもいた。
嫌な気はしない。むしろ嬉しい申し入れだ。
――ふと、沢口さんの手元にある包みに目を移す。
おそらく彼女の母親が作ったであろう弁当。
他の面々も、鞄から自分の弁当を取り出している。
蓋を開ければ色とりどりのしかし一つとして同じものがない具材がまばゆく目に入ってくる。
「九条院くんも……ほら、色々あるんだろうけれど」
不意に、思考が薄暗い衝動で塗り潰される。
母さんの笑顔が浮かぶ。
二度と見ることができないという事実が、自覚が、胸を掻き乱す。
何も分からないまま、僕は手を――。
「……九条院くん?」
「あ、いいや。なんでもない。ちょっと僕、職員室に用があるから」
適当な嘘でごまかし、急いで教室から出る。
額を幾筋かの汗が伝う。動悸も激しい。
強張った右手に視線を移すと、安物のボールペンが掌の中で壊れていた。
自分は今、何をしようとしていた?
▼
帰宅してすぐ、僕は自室に鍵をかけ、そのままベッドへとなだれ込んだ。
疲れのせいか、全身が鉛のようだ。
「はあ……」
ここしばらく、自分の心身が上手くコントロールできない。
今日も、特に昼休みから後は、席に座っているだけで精一杯だった。
原因は分かっている。
「母さん――」
少なくとも自分は、母に依存しているつもりなどなかった。
父や妹より仲は良かったが、あくまで家族として一般的な距離感だったはずだ。
四九日もとうに過ぎ、悲しみに慣れてきてもいいはずだと思っているのに。
「……」
いや。
――なにを考えてるの?――
これは、悲しみなんかじゃない。
ベッドの横の引き出しを探り、奥にある細長い塊を取り出す。
革製の鞘に包まれた小振りの刃物。
これは剣鉈と呼ばれる狩猟道具の一種、らしい。
何年か前、家の古い倉庫を取り壊す時に偶然見つけた。
柄に彫られた名前の跡から察するに、亡くなった祖父の私物だろう。
最初は埃と赤錆びまみれだったが、元々の造りが良いのか、錆を落として刃を研げば味のある外見になった。
切れ味も狩猟用と言うだけあり、少し振るっただけで太い木の枝が軽々と斬れる。
僕はしばらく鉈の峰を指先でなぞった。
そしていつもだき枕にして寝ている身の丈ほどあるクッションを、それで刃を立てて、しかし切らないように上下に動かした。撫でるように。
そうする内に、自分が長らく心の奥底に封印していた邪悪な衝動に支配されていることに気づく。
そう理解はできるが、体は止められない。それが非常に恐ろしい。
これを切り刻んだら、どうなるのだろう?
いやそもそも、この中にあるものは何なのだろう?
答えはわかっている。しかし体は刃でクッションをこするのをやめられない。
まるでノコギリで大工をするみたいに、クッションを徐々に力を入れ、こすっていく。
気がつくと、刃が生地を貫通し、残っていた理性も失われつつあった。
興奮すら覚えている自分に気がつく。股の間がものすごく痛い。
その時、コンコンと自分の部屋のドアをノックする音がした。
心臓がドキンと跳ね上がり、口から飛び出しそうになる。
僕は急いでクッションを裏返し、枕の下に剣鉈を隠した。
「お兄ちゃん」
「真矢か。入って」
僕はクッションが十分にナイフを隠せているか、最後に確認しつつ言葉を放った。
ドアが開き、相変わらずのしかめっ面の真矢が姿を現した。
「何しに来たんだよ?」
なるべく平静を装って僕は呟く。
「ボンド」
「は?」
真矢がうんざりと顔を更にしかめつつ、
「明日授業で使うボンド。取りに来たの」
「……自分で買えよ。そこの棚にある」
僕は文句を言いつつも、ボンドの置いてある場所を指す。
真矢はボンドを取ると、そそくさと立ち去ろうとした。
そのまま行ってくれ、と僕は心中に願う。
だが案の定、真矢は足を止める。
「お兄ちゃん」
「なんだ?」
真矢が振り向き、僕を睨むように見る。
「今朝の話。…………結局どうすんの?」
そろそろいい加減にしてくれ。
僕はそう思ったが、それは真矢も同じだろう。
「しつこいぞ」
僕は思ったことを口にした。
真矢はしばらく目を瞬かせたが、その表情が徐々に怒りのそれへと変わっていく。
「しつこく言わないと、お兄ちゃん聞いてくれないでしょ? もう一度言うよ。何がしたいの?」
なるほど、どこまでもお前は僕を追い詰めるんだな。
そういった被害妄想にも似た何かが僕の中に生まれる。
決して本心ではない。だがそうでもしないと、僕は逃げられなかった。自分に向き合うことから。
「もうほっといてくれよ。お前は俺に家業を継がせたいだけだろ? 正直に言ってくれ、頼むから」
真矢が手にしたボンドを僕に向かって投げた。反射的にそれを避け、背後の壁に鈍い音を立ててぶち当たる。
「あんたに、あんたなんかに……何がわかるというの……?」
真矢が怒りに震える。顔を下に向けブルブルとバイブレータのように振動していた。
「何もわかってないのはお前の方だ、真矢。せっかちでそそっかしくて……、お前も親父も、母さんとは大違いだ!」
「お母さんも期待していたよ! お兄ちゃんが医者を継ぐことに!」
その言葉を聞き、僕の中の何かがブチンと切れた。
母さんは、母さんだけは僕の味方をしてくれていた。僕の全てを許し、何もかもを包み込んでくれていた。
それなのになんでお前はそういう事が言えるんだ? 母さんでもない、お前が。
僕はしばらく黙って震えていた。ずっと下を向いている。
「そういうことだよ、じゃ」
優越感に浸っていた声が響く。実際はそんな感情はなかったのかもしれない。実際は怯えていただけかもしれない。
ただ、目の前の妹がすべて憎らしかった。そしてその感情が妹を絶対悪に仕立て上げていた。
許せない……。
「引き裂いてしまえばいい。君ならできるさ」
脳内に悪魔の囁きが聞こえる。それは蜜のように甘く、糖のように脳髄に染み込んでいく。
「そう、その剣鉈で……。よく研がれているから一振りで問題ない」
「駄目だ。僕は犯罪者じゃない」
君が楽になる。早く切り刻むんだ。
追い打ちをかけるかのように、声が言う。
「……」
「さぁ、それを握って。やってしまえ。殺るんだ」
僕は絶叫して妹の部屋まで走った。妹の部屋は階段の下だ。
手には凶悪的な剣鉈が握られてある。
と、そこで何かにぶつかった。
「拓斗! どうしたんだ。大声を上げて」
驚愕と、僅かながらの心配を滲ませた表情の父がそこにいた。
僕は剣鉈を反射的に後ろに回した。頭の中はパニックでぐちゃぐちゃになりかけていたが、辛うじて残っている理性がそうさせたのかもしれない。
しかし父は、疑いの目を僕に向ける。
なんでそういう目で見たのか、それはわからない。
「拓斗、その後ろに隠してあるモノを出しなさい」
あくまで冷静な声音で父は言った。
「いやです」
父に対して反抗をしたのは何年ぶりだろう、と場違いにも僕はそう思っていた。
「出しなさい!」
父はピシャリと言い放つ。
心臓がドクドクと脈打った。頭の中はもう溶き卵のようにグチャグチャだ。
ふと、父の背後にある半開きになっているフスマに目が行く。
母の遺影だ。居間の仏壇に飾ってある、母の写真。
僕の中で徐々に理性が戻っていく。
渋々ナイフを父の前に出した。
父はナイフをしばらくジッと見、そして僕に視線を戻した。
父がどんな目をしていたか……それは目を合わせられない僕にはわからなかった。
「拓斗、お前の部屋で話そう」
父の静かな声音が今は不気味に聞こえる。
僕は渋々父について行く。
部屋の前まで立ち、父はドアに手をかけた。そこで僕はあることに気がついた。
「なんだ……これは」
部屋の中にはボロボロになったクッションがベッドに投げ出されていた。
錯乱していた僕には気が付かなかったけど、あのクッションは返されたままだったのだ。
父さんはクッションの傷痕を恐る恐るといった様子でなぞった。
再び動悸が僕を支配する。しかし踏みとどまった。ここで逃げ出せば、自分の異常性を認めるということだ。
逃げ出すことは簡単だが、ここでそれを実行するなら自分はもう二度と、この家には還れない。そんな気がした。
それに父さんならわかってくれる。そういう甘えにも似た感情もあったかもしれない。
「……拓斗」
ややあって父さんは静かな声音のまま、僕の方に振り向いた。
父のその目をまじまじと見る。その目には静かな怒りと、若干の失望が混じっていた。
「お前は誰だ?」
「俺の知っている九条院拓斗はあんなもので周囲の物や……人を切り裂くような異常者ではない。俺の、父さんの知っている拓斗は、どこに行ったんだ?」
『異常者』という言葉を聞いた瞬間、僕の中でなにかが音を立てて崩れ落ちていく。
父は僕を、息子を否定したも同然だった。
「警察に連絡を入れる。お前はこの部屋に居なさい」
僕が何も言わないでいると、父さんはそう言い、部屋の出入り口に向かった。
独り残された僕は、ベッドに腰掛け項垂れる。
もうこの家に自分の居場所はないし、自分の家とも思わなかった。
――脱出しなければ。
残っている微かな思考がそう告げる。
僕はスクールバッグを片手に、忍び足で家を抜け出した。
▼
僕は気持ちを落ち着かせるために、家からだいぶ離れた公園に来ていた。
今日一日は色々なことがありすぎて、頭がパンクしそうだ。
これからどうすれば良いのだろう?
どこに行けばいいのだろう?
そんな事を思いながら、ランニングコースをトボトボ歩いていた。
いずこから、歌声が聞こえる。
歩きながら耳を澄ませると、歌詞まで鮮明に聞き取れた。
――もう自分を隠すのはやめる、隠してもいつかは綻びが生まれ、その時僕は孤独を噛み締めているだろうから――
なんて歌だ。まるで僕の心の中を見透かしているようではないか。
自分の異常性を認めてしまった心を恥じながらも、僕は歌声の聞こえる池の畔に歩を進めていった。
――認めたくなかった、こんな気持ち。これじゃ僕は偽善者だ。どうしてこんなことになったのだろうと聞いてみても答えは出ない――
うるさいな、と顔を顰める。しかし歌声が鳴り止むことはなかった。
違う意味で心の中にまで入ってくるような歌に辟易しながらも、僕は中央に大きな噴水池のある広場に出たところで歩を止める。
片手に握ってあったスクールバッグがガシャリ、と軋んだ。
教材のみが入っているとは思えないそのバッグの重みを僕は直に感じ、バッグのファスナーを下ろした。
月光を浴び、黒光りする様々な種類の刃物が教科書や筆記用具にまぎれてそこに入っていた。
これが僕を僕にさせている存在、ナイフだ。
そして今から僕はその体の一部といっていいナイフ達を、池に投げ捨てる。
冷静に考えてたったそれだけで自分のその執着を捨てれるのか? と思うだろうが、これらを捨てたら僕は真人間に戻る。
そんなケジメのような感情もあったかもしれない。
僕は噴水の前に立ち、スクールバッグを頭上に掲げた。
あと腕の一振りでこの感情とも、自分の一部ともおさらばだ。
自己暗示を掛け、投げ捨てようとする。
「くそ……」
どうした? 早くやれよ。
理性がそう急かすが、自我はそれを拒んでいた。
僕はいつまでも、いつまでも滑稽にもスクールバッグを掲げていた。
いい加減重さに疲れた。とりあえずこのバッグは置こう。
僕がそう決心した時――
「捨てられないんでしょう?」
「え……」
僕は驚きつつ声のした方向を振り返った。
先程の歌声の持ち主と思わしき少女がそこに佇んでいた。
どういうわけか顔はフードに覆われていた。
「捨てられないんでしょう? それ」
言われて、僕は空高く掲げたバッグに視線を移す。
深い紺色のバッグはきつく閉じられ、中身を窺い知ることはできない。
僕はまじまじと少女の姿を見つめる。
少女は夜の闇から一歩進み、月影が映る池の前に立った。
華奢な体が月光を帯び鈍く照らされる中、顔のみがフードに覆われており闇を保っている。
「……ね?」
闇の中にギラギラ輝く二つの『目』がそう言う。
「あ――」
知っているのか? この子はもしかして? 僕の何もかもを?
自問自答するが答えは出ない。
心臓がバクバクと早鐘を打ち始める。口内はカラカラに乾いていた。
しかし、この目から逃れることはできない。蛇に睨まれた蛙の気持ちがわかったような気がした。
少女は池の前に立ち尽くすこのマヌケに尚も言葉を浴びせる。
「あなたはモノを切り裂きたくってしょうがない。自分ではもうどうしようもないくらいに」
少女はゆっくりと円を描くように獲物である僕の周囲を回り始めた。
僕の方はどうすることもできなかったのは言うまでもない。
「さらに今日、親しい友人や家族までも手に掛けようとした……」
僕の中にふつふつとした何かが燃え上がるのを感じる。
この子のやっているのは視姦と同じじゃないか。なんで僕がそんなことをされなければならない?
会ったこともない、赤の他人に。
「それで自分の衝動に怖くなってそこを逃げ出して、ここへ来た」
少女が僕の前に来た。
前屈みになり、僕の瞳を覗き込む。
「図星?」
我慢の限界だった。
「うるさい! きみに何がわかる!!」
僕の感情が爆発した。
周囲がシンと静まり返る。静寂の空間で、僕を覗き込む悪魔の目が一瞬丸くなったように感じた。
僕の方は爆発してスッキリしたのか、頬が羞恥で温かくなるのを感じた。
謝ろうと声をかけようとしたその時、
「そうか……」
そう言って少女は踵を返した。
「え……?」
少女はフードを脱ぐと、その中に隠れていた溢れんばかりの黒髪を月光に輝かせた。
僕の方を振り返り、可愛らしく締まった口で言う。
「あなたも同じだね」
そう言って、月が出ている方角に歩いていった。
僕も、同じだと?
どういうことかと声をかけようとして、やめた。頭の整理が追いついてないのに、問題ごとをこれ以上増やすのは御免被りたい。
僕は少しの逡巡の末、結局捨てきれなかったスクールバッグを片手に少女が歩いていった方向とは逆の道を進んだ。