わらうひと
そうして、彼は、楽園を手に入れた。
ぱちり。僕は目を覚ます。長い長い夢の目覚めは、まるで深い海から這い上がってきたような。そんな心地であった。薄ぼんやりとした視界の中、ふと視線を滑らせれば、眠りに落ちる前と同じくそれは目の前にあった。
まるで鏡写しのように同じ顔。僕の片割れ。ああ、あの母親の胎の中と同じ。手を伸ばせば触れられる位置に、彼がいる。けれどあの時と決定的に違うのは、僕と彼はもう二度と離れることはない、ということだろうか。
僕たちは同じように愛し合い、生まれた姿のまま、抱き合った。
僕たちは同じように苦しみ、生まれた姿のまま、愛し合った。
そうして溶け合い、混ざり合い、僕たちはひとつになったのだ。
胎の中で離れて、別々のものとして生きてきて。そうして、やっと、やっと、僕たちはあるべき姿に戻ったのだ。その事実が僕の心を震わせる。
手を伸ばして、彼の赤くなった目じりに触れれば、まだうっすらと残っていた涙が僕の指先を濡らす。ぺろり。指先を舐めれば海の味がした。
「……ふ、ふふ」
思わず笑みが零れる。すると、隣で眠る彼もふふ、と笑い声を零した。ああ、きっと彼もまた、夢の中でこの幸福に身を震わせているのだろうか。否、きっとそうだろう。
その時。不意に僕の視界に飛び込むものがあった。
部屋の隅に投げ捨てられたそれに、ゆっくりと手を伸ばす。それは、僕と彼を明確に識別していたものであり、今やすっかり皺の寄ってしまった赤いリボンであった。くるり。くるり。指先で弄びながら、ああ、と息を漏らす。
「……そうだ」
ふと、頭によぎったのは、ある種の『悪戯』のようなもの。まるで幼い子供が考えそうな、幼稚な思考に思わず声を出して笑いながら、僕はそれを実行するために布団から抜け出したのだった。
×××
いつもと変わらぬ、見慣れた道。
いつもと変わらぬ、見知らぬ人たちの笑い声。
ゆっくりと学校の校門をくぐれば、柔らかな風がくるくると若葉を舞い上げ、僕の髪を押し上げる。
自分の首にまかれた『緑色』のリボンが、風に吹かれて揺れた。
――おや、今日は弟がいないんだな。
風に巻かれて、何処からともなく声がする。
――アイツがディエゴと一緒にいないこともあるんだな。
風に巻かれて、何処からともなく笑い声がする。
――あの緑のリボンは、
――兄と違って、
――どうして双子なのに
風に乗って現れては消える悪意のある言葉たち。しかしそれらすべてが彼を指し示すものばかりで。腹を抱えて笑い出しそうになるのを何とかして堪える。誰も彼も僕と彼を識別できない。たったリボン一本で、僕たちの見分けなんてつかなくなってしまう。ああ、やっぱり僕たちは同じ存在だったのだ――と頬を緩めた時だった。
「……アイザック?」
不意に、声が、した。
一瞬にして周りの音が止まる。うるさかった風の音も、人の話し声も、すべてすべて遠くへ消える。思わず足を止め、そうして、ゆっくりと振り返った。
視界に映ったのは、赤色。晴天の空に良く映える、忌々しい赤色だった。
「ああ、やっぱりそうだ。アイザックじゃない。緑のリボンなんて結んでるからややこしいな」
赤色――シンディが僕の顔を覗きこみながら、眉をひそめる。ディエゴ。目の前の男が僕の名前を呼ぶ。
「今日は、アイザックと一緒じゃないんだな。アイツ、本当に弟離れに成功したのか」
けらり。僕の目の前でシンディが笑う。
「アイツ、いつもべったりだったから。やっと弟離れ出来て――」
「……違う、」
ほろり。僕の喉から零れた言葉は、僕が思っているよりもずっと低く、そして震えていて。そんな僕の言葉に何かを感じたのだろう、シンディが息を呑む。
「……何、言って」
「違う。違うよ、違うんだ」
ふ、ふふ、と喉が鳴る。ずくり。ずくり。胎の奥に熱が灯る。口元を手で押さえながら、僕は再び言葉を紡ぐ。
「やっと、やっと僕たちはひとつになったんだ」
どん、と。両の腕に少しだけ力を入れて、目の前の男を押しのける。ぐらり。シンディの身体が揺れる。その目に浮かぶのは、明らかな怯えの色。ああ、ああ、そんな目で僕を見ない欲しい。
――だって僕たちは、こんなにも幸せなのだから。
「だから、僕たちの邪魔は、もうしないでくれ」
囁くように、けれどしっかり彼の耳に届くように。一言一句はっきりと口を動かす。はくはくと口を動かすばかりのシンディに微笑みをひとつ投げて、僕は校門へと向かって足を動かした。
「……さようなら、シンディ」
遠くでシンディが何かを言ったような気がしたが、それを振り払うように僕は駆けだす。
はらり。僕の眼から零れた水には、気が付かないふりをした。




