06.オリーブを抱いて眠る(後)
彼は、新しい楽園を見つける。
※直接の描写ではありませんが、自慰行為の場面があります。ご注意ください。
そのあと、どうやって学校から家に帰ってきたのか記憶にはなく。気が付いた時には、僕は玄関の扉の前でぼんやりと佇んでいた。扉の向こうから少しだけ漏れ出した光が、すでに彼が帰宅していることを僕に知らせてくる。
視界の端。空が真っ赤に燃えている。
ああ、これから夜がやって来るのだ。
どくり。大きく心臓が跳ねた。思わず閉じた瞼の裏で、先ほどの光景が鮮明に蘇る。何処からともなく彼の声が聞こえてきて、僕の鼓膜を震わせる。
――僕は彼から離れることにするよ。
彼の言葉が頭の中を反芻する。
じくじくと胸が痛む。息が苦しい。まるで、そう、水の中に溺れているようだ。ぎゅうとシャツ越しに胸を強く掻き毟る。このまま意識を失って倒れてしまえたら、どれだけいいだろうか。なんて、馬鹿な考えが頭をよぎって、思わず鼻が鳴る。
――夜にゆっくり彼と話すことにする。
ゆっくりと。震える指先でドアノブを回す。ただいま、と小さく呟いたが、返る声はない。音を立てぬよう静かに扉を閉め、一歩を踏み出した。
ぎしり。
ぎしり。
ぎしり。
ラグの下でフローリングが軋む。部屋を一つ一つ見て回ったが、彼の姿はない。それなら彼は二階の自室にいるのだろうか。会いたくない、と頭のどこかで自分の叫び声が聞こえたような気がしたが、それを無視して僕は階段に足を向けた。
ぎしり。
ぎしり。
ぎしり。
階段を一歩ずつ上がりながら、ふと、幼い頃のことを思い出す。
僕は『夜』が怖い子供だった。夜になるとベッドの中で怖い怖いと繰り返して彼を心配させていたのだ。そんな僕に彼はいつも優しい手つきで僕の頭を撫でてくれた。
本当は夜なんて怖くなかった。夜に眠らない子供を食べる化け物もいなければ、窓辺に突然現れる吸血鬼がいないことも知っていたから。けれど、あの彼の手が欲しくて、僕は嘘を吐いた。怖い怖いと何度も繰り返していた。
それなのに、ああ、今は。
今は、本当に、夜が怖い。
泣いて喚いてしまいたいほど、夜が来るのが怖いのだ。
いつものように優しい手つきで、僕の頭を撫でてほしい。優しい声色で僕の名前を呼んでほしい。「大丈夫、何も怖いものなんてないよ」と。そう慰めてほしい。
けれど、楽園の破滅をもたらすのもまた彼なのだ。
ぎしり。
ぎしり。
ぎし、り。
彼の部屋の前に立つ。指先を握り込んで、深呼吸。大丈夫だ、と自分を鼓舞する。僕の楽園が崩壊するのはこれで二度目だ。大丈夫だ。まだどうにかなる。否、どうにかするしかない。
何故なら僕たちはもともと一つの存在で。
絶対に離れてはいけない存在なのだから。
強張った口元を何とかして吊り上げる。固くなった舌を口の中で転がす。細めていた目を開く。さあ、これでいつも通りの僕だ。ノックをして彼の名前を呼ぼうと拳を振り上げて――その手が止まった。
「――、――」
扉の前から微かな声。そして、ぐちゅり、と――粘度のある水の音。
思わず息が止まる。どくり。心臓が跳ねる。喉から零れ出しそうな声を呑みこむため、僕は両手で口を覆った。
ぐちゅり。ぐちゅ、ぐちゅり。法則性のない、けれど次第に間隔が短くなる水の音。ああ、この音に覚えがある。否、ありすぎるほどだ。これは毎晩僕が彼を想って出す音に――。
「でぃ、えご」
今度こそ、心臓が止まったような気がした。
扉の向こう。熱に浮かされた声色で、彼が僕の名前を呼んでいる。どくどく。どくどく。心臓がうるさい。ずくり。ずくり。胎から熱が生まれて、僕の全身を駆け巡る。
「でぃ、えご。ああ、きもち、いい、ディエゴ」
――愛してる。
その言葉に、ぶちり。
僕の頭の奥で、何かが切れる音がした。
ドアノブに手を掛け、思い切り回して、開ける。がちゃり。扉に鍵はかかっていなかったようで、驚くほど簡単に扉は開いた。
薄暗い部屋の中。彼はベッドの上で白いシーツに包まり、座っていた。突然の僕の来訪に、目を見開いた状態で。
頬を真っ赤に染めながら、けれど、目に涙を浮かべて、はくはくと唇を開け閉めするその姿はひどく扇情的だ。自分と同じ顔とは思えぬほど、美しい。床に転がるティッシュの塊を蹴り飛ばし、僕は彼へと近づく。
「兄さん、」
進むごとに、淀んだ温い空気が頬を撫ぜる。生臭い匂いが鼻を付く。けれどそれすら愛おしくて、僕は思わず笑みを零した。
「ディエゴ、何で、今日は、だって、生徒会は、」
ベッドの上で彼が声を震わせる。先ほどの熱っぽい呼び方とは違う、明らかに動揺を孕んだ声。ああ、さっきみたいに熱っぽく呼んでほしいものだ。
「今日が生徒会なんて、僕は一言も言っていないよ」
だって今朝何も話してくれなかったじゃないか、と返せば、分かりやすく彼の肩が震える。ああ、違う。違う。僕は彼にこんな顔をしてほしいわけではないのだ。
だから、僕はゆっくりとベッドに膝をついた。ずいと顔を突き出せば、鼻と鼻が触れ合うほど近くに彼の顔。ぎしり。ぎしり。二人分の体重がかかったベッドが悲鳴を上げる。
ねえ、兄さん。僕は唇を開いた。
「僕たち、両思いなんだね」
は、と彼が唇を開いた瞬間、僕は彼の頬を挟み込んで。そうして、その真っ赤な口に自分の舌を押し込んだ。
僕の胎の中で生まれた熱が、彼の舌と絡み合うことで、彼の体温と混ざっていく。ぬるり。唾液が混ざる。突然の侵入を拒むように彼の舌が暴れるが、そろりと上顎を撫ぜてやれば大人しくなる。無抵抗になった彼の口の中を、犯していく。
僕の胎の中は、今までにないほど熱を孕んでいた。そう、それはまるで地獄の業火のよう。僕自身を、そして彼をも焼き尽くしていくような炎。
「ふ、ふふ、」
ゆっくりと唇を離せば、僕と彼を繋ぐ銀色の糸が伸びる。はあはあ、と二人分の呼吸が部屋中に響く。
「ああ、嬉しい。嬉しいよ。ずっとずっと遠回りをしてたけど、やっぱり僕たちは同じだったんだ。やっぱり僕たちは同じ存在だった。これでずっと一緒だ。もう離れないからね」
彼の首に腕を回す。どくり。どくり。二人分の心臓の音。ああ、ああ、互いを覆う布がひどく煩わしい。とっととこんなもの脱ぎ去ってしまおうと考えたとき、僕の身体の中で彼が微かに身じろいだ。
「だめ、ディエゴ、これは、だめだ。僕たちは、兄弟で――」
だめだ、としきりに繰り返す彼。その声がひどく焦っていて、僕ははてと首を傾げる。一体彼は何を焦っているんのだろう――と考えて、ひとつのことを思い出した。
「ああ、そうだね。男同士で兄弟は結婚できないよね」
どうして忘れていたのだろうか。あれは母が僕たちに教えてくれた、残酷な真実だった。きっと彼もそれを思い出しているのだろう。ふふ、と僕は嗤いながら、彼の首筋に唇を寄せる。
「だいじょうぶ。安心してよ。結婚できないとしても」
――ずっと一緒にいることはできるんだよ。
腕の中で彼が小さく悲鳴を上げたような気がしたが、きっと気のせいだろう。だって僕たちはようやく両思いになれたのだから。
ばたん。
僕の背後で扉が閉まる音がする。
けれど、彼と共にベッドに身を投げ出した僕には、そんなことどうでもよかった。