05.オリーブを抱いて眠る(中)
彼の築いていた楽園が崩壊した話。
教室の窓から覗く、雲一つない真っ青な空。その晴れやかな空模様とは裏腹に、じりじりと胎の中で熱がくすぶる。結局、彼は部屋から出てくることはなく、自分一人で学校に来ることになった。勿論、この十数年の間に、何度か一人で登校することはあったが、こんな形で彼が休むことはなかったのに。がりり。がりり。無意識に親指の爪を噛みしめる。
一体、彼にどんな心境の変化が起きたのだろうか。
一度目の楽園の崩壊を起こした母親は、父親の海外転勤に伴い、ここにはいない。昨日は両親からの手紙も電話もなかったから、きっかけは別にあるはずだ。
昨日の朝、一緒に登校した時にはそんな予兆などなかった。彼が僕に隠していたとしても、絶対に気付く自信がある。なら、やはりきっかけは彼と離れてから、再びあのエントランスで出会うまでの数時間になるのだろう。
ああ、早く。早く。原因を突き止めなくては。原因を取り除かなくては。このままでは、せっかく築いたこの楽園が崩壊してしまう――とそこまで考えた時だった。
僕の、目の端で、金色が、揺れた。
は、と息を呑む。青い空の下、グランドの中心。体育の授業なのだろう、体操着に身を包んだ集団の中に、見慣れた金色の髪が揺れていた。
「あい、ざっく」
思わず声が漏れる。ぎちり。手の中でペンが嫌な音を立てる。
学校に来ていたのか。なら、何で一言声を掛けてくれなかったのか。具合が悪いなら寝ているべきだったんじゃないか。それとも、それすら嘘だったのか。なら何故嘘を吐いたのだろうか。僕と、そこまで話したくなかったのか。頭の中で答えの出ない質問が浮かんでは消え、じりじり。じりじり。じりじり。じりじり。僕の胎を焦がしていく。その熱は全身に駆けまわり、喉を伝って悲鳴として零れ出しそうだ。
「……どうして」
やがて、ほろり。口から漏れた声は、自分が思っているよりも小さく、弱く、情けないほどに掠れていた。
◆◇◆
授業終了を告げるチャイムと共に急いで教室を飛び出す。向かう先は勿論、彼のいる教室で。けれど覗き込んだ教室に、彼の姿はなかった。
もう彼は家に向かったのだろうか。
自分に何も告げずに。
どくどくと心臓が跳ねる。喉が渇いて痛い。もしかしたら、と。理由もなく浮かんだ場所に向かって足を向ける。
そうして辿り着いたのは、そう、彼がいつも僕を待つ図書館だった。
ここにいてくれればいい。そうして、僕を見つけて、遅かったね、と。いつものようにそう告げてくれればいい。図書館に並ぶ背の高い本棚たちの間を覗き込みながら、そんな妄想を思い描いていた時だった。
「――」
はっきりとした言葉ではない。むしろ音に近いソレが、僕の鼓膜を震わせる。しかし、たったそれだけでも、それが僕の望むものであると確信する。ああ、よかった。やっぱり僕の思い過ごしだったのだ――と息を吐いた瞬間。
僕の視界に映ったのは、金色と――それから赤色だった。
息を呑んで、反射的に足を引く。跳ねるようにすぐ近くの本棚の裏へと身を隠す。ぶわり。額から汗が噴き出した。
どうして、彼とそれからアイツ――シンディがいるのだろうか。震える指先を手で押さえつけながら、そろり。本棚から二人を覗き見る。そこはどうやら本の閲覧スペースになっているらしく、開けた空間に真っ赤なソファが並べられている場所で。二人は向かうようにソファに腰かけ、何か話しているらしい。ひそひそと囁くような二人の声に耳を傾ける。
「ああ、そうだ。アイザック。これ、昨日エントランスに落ちてた。君のだろ」
そう言ってシンディがポケットから取り出したのは、一本の腕時計。それは僕と彼が揃いつでつけている、あの腕時計で。ああ、と彼は息を漏らしながら、それをシンディから受け取る。
しかし、それは再び彼の腕にまかれることはなく、手のひらに乗せられたままだ。シンディもまた疑問に思ったのだろう、はてと首を傾げながら、それ、と指先を向ける。
「つけないのか?」
「……ああ」
――だって、これは、ディエゴと揃いだから。
思わぬ彼からの言葉に、ひゅう、と。喉を嫌な風が通る。
けれど本棚を一つ挟んで僕がそこにいるなんて気付いていないのだろう、彼とシンディは再び言葉を紡いでいく。
「なあ、喧嘩したのか。弟君と、何かあったのか?」
「……違うよ。昨日ここでさ、シンディと話してから、考えたんだ。僕とディエゴのこと」
「……ああ、うん」
どくり。どくり。心臓が嫌な音を立てる。ああ、止めてくれと耳を塞ぎたいのに、僕は指先一本動かすこともできないまま。この場から逃げ出してしまいたのに、まるで足に根が張ってしまったように動くこともできないまま。僕はアイザックからの言葉を待つことしか出来ない。
そうして。
彼が小さく息を吸い込んで、言葉を吐き出す。
「……君が、いや、みんなが言うとおり、さ。僕と彼は、近すぎたんだ。僕はもっと早くに弟離れをしなくちゃいけなかったんだよ」
がらり、と。僕の足元が崩れるような、そんな心地がした。目の前が一瞬にして真っ暗になる。平衡感覚が失われ、ぐらぐらと頭が揺れる。そんな僕を置き去りに、彼ははっきりとした口調で僕の足元を更に叩き壊していく。
「シンディたちに言われる前に、元々考えてたことだったんだ。でも、見ないふりをしてた。見ないふりをするたびに、僕は色々な言い訳を免罪符にして、彼の隣にいて、影でい続けることができた」
でも、と彼が言葉を紡ぐ。その声は微かに震えていて、今にも泣きだしそうで。その声を聞いた僕もまた、みっともなく声を上げて泣き出してしまいたかった。
「でも、気付いたんだ。昨日、シンディが言ってただろう。『君たちはまったく同じ顔だけど、まったく別の人間なんだよ』って。それで気が付いた。このままじゃ、僕のせいで、彼を巻き込んで、そうしてすべてを破綻させてしまうんだ」
一瞬の間。
そうして、トドメの言葉が、僕を刺す。
――だから、僕は彼から離れることにするよ。
がらり。がらり。
僕の楽園が壊れていく音がする。あの日と同じように、僕はただただそれを見つめていることしかできない。ゆっくりとその場に座り込んでしまった僕は、今、どんな顔をしているんだろうか。
「……アイザック。それで、それ。弟君には言ったの?」
「ううん。まだ、言ってない。昨日何て言おうか考えてたら、話すタイミングをなくしたんだ。でも今日、家に帰ってさ。夜にゆっくり彼と話すことにするよ」
そうか、頑張れよ、なんてシンディが笑う。
それにつられて、彼も笑っている。
一方の僕は、バラバラになってしまった楽園だったものを呆然と見つめながら、項垂れたまま。
無意識に唇に触れた指先が、歪んだ弧をなぞった様な気がした。