04.オリーブを抱いて眠る(前)
兄が弟から離れていくとき。『楽園』が崩壊を始める。
零れたミルクが入れ物に戻らないように。
ひび割れたガラスが元に戻らないように。
小さなほころびが、生まれ始めていた。
その違和感は、不意に訪れた。
「兄さん」
生徒会が終わり、肩書ばかりを覚えている人たちの波を抜け、彼の待つエントランスへと足を向ける。早く。早く彼と離れていた時間を埋めたい。そう思っていたのに。
そこにいたのは、ぼんやりとエントランスのソファに座る彼の姿だった。
いつもならきょろきょろと視線を動かし、こちらに気付けばまるで花が咲いたように明るい表情で出迎えてくれるというのに。これはどういうことだろうか。
ぞわり。ぞわり。根拠のない嫌な予感が背筋を凍らせる。自分の知らない彼がそこにいるような気がして、僕は慌てて歩を進めた。
「お待たせ、兄さん」
動揺を隠しながら、そう彼に声を掛ければ、彼はゆっくりと瞳を僕の方へと滑らせる。虚ろだった彼の瞳に光が宿り、薄桃色の唇がゆっくりと開かれた。
「お疲れ様、ディエゴ」
そう言って彼は僕に手を伸ばし、そろり。僕の頭を撫ぜる。幼いあの日、彼が僕にしてくれたように、まるで壊れ物を扱うような優しい手つきで。たったそれだけの動作で、あの嫌な気配がすうと消えていくのを感じる。
ああ、なんだ。考えすぎだったのだ。
きっと疲れているからあんな感覚を覚えたのだ――と。そう思っていたのに。
再び違和感が顔を覗かせた。
それは家への帰り道。今にも消えそうな外灯の明かりの下。
闇の中に潜む見えない何かを探すように、彼はふらふらと視線を彷徨わせていた。それはエントランスで見かけたぼんやりとした姿と重なり、再びぞわり。背筋が寒くなる。
彼が一体何を考えているのかが分からない。ただそれだけのことだ。けれど僕の本能が警鐘を鳴らし続けている。背筋の震えと共に、どろりと、今までに感じたことのない冷たさが胎の中で蠢く。
「兄さん」
声を掛ける。
しかし、反応はない。
「兄さん」
再び声を掛ける。
しかし、反応はない。
それどころか僕の声すら聞こえていないのだろう、足取りは僕を置いて前へ前へ進んで行ってしまう。僕よりも半歩早いスピード。兄さん速いよ、と口を開こうとして、その言葉が喉に突っかかった。
もしかしたら。
もしかしたら、これが本来の彼の速度で、今までは僕に合わせて歩いていたのではないだろうか。
もしかしたら、僕と彼の違いは、埋められないほど大きくなってしまっていたのではないだろうか。
ガツン、と。後頭部をぶん殴られたような、そんな心地であった。僕が築いていたはずの楽園は、もしかして幻想だったのではないか。あの日、母親が最初の楽園をぶち壊したように、今、僕の楽園はまた壊れようとしているのではないだろうか。
カラカラになった唇をちろり舐め、震え始めた指先を握り込む。ごくり。息を呑んで、そうして、唇を震わせた。
「……兄さん、聞いてる」
彼に聞こえるように少しだけ声を張る。普段の彼であれば、驚いて振り返るような声量だ。けれど、今日の彼はまるで何でもないようにゆっくりと振り返って、虚ろな瞳のままで微笑んだ。
「ごめんよ、すこしぼうっとしていたみたいで。……今日は、帰ったらすぐに休むことにする」
風邪でも引いたかな。
そう首を傾げた彼の言葉に、再びどろり。胎の中が淀む。今まで、彼が僕に誤魔化したことなんてなかったのに。彼が僕に隠し事をしたことなんてなかったのに。一体離れている数時間の間に何があったのだろうか、と焦りのあまりバラバラになっていく思考を何とかかき集めようとして。
トドメの一撃が、目の前に、現れた。
「待って、兄さん。時計、」
家の門扉を開けようと伸ばされた彼の腕。ひらりとまくれた袖から覗く彼の細い手首に、本来おさまっているべき腕時計の姿がない。
たかが腕時計と他の人は言うだろうか。けれど、その腕時計は、今は離れて暮らす両親が、僕と彼のためにと揃いで用意をしてくれたものだ。僕たち兄弟が同じ時を刻むように、と願いが込められた時計は、ベルトの色も同じで、秒針だって一秒たりとも狂わずぴったりと同じ時を刻んでいた。離れていても僕と彼は同じ時間を生きているのだ、とそう感じることのできる唯一の証明だったのだ。
それが、彼の腕に、ない。
きっと真っ青になっているだろう僕とは対照的に、彼は眉を垂らして、ああ、と息を吐く。
「……あぁ、落としてしまったんだろう。きっと図書館だから、大丈夫。明日取りに行くよ」
何でもないような言い方に、再びガツン、と。致命傷になりそうなほどの衝撃に襲われる。足がすくんでしまって、一歩も動けなくなってしまった。
ああ、おかしい。おかしい。今までの彼なら、きっと慌てたようなそぶりを見せたはずだ。きっと今すぐにでも学校に取りに戻ろうとしただろう。どろり。どろり。胎の中が冷えていく。
そんな呆然と佇む僕を置き去りに、彼は扉を潜る。
手を伸ばせば届くはずの距離。けれど、どうしてだろうか、彼がひどく遠く感じた。
次の日の朝。
彼は朝食の席に降りてこなかった。
扉越しに風邪だと告げた彼の口から、時計のことは一言も出なかった。
力任せに振るった腕がテーブルに当たり、イチジクの入ったボウルが床へと落ちる。
粉々に砕け散ったガラス片に映った自分の顔は、彼とは似ても似つかぬほど歪んでいた。