03.楽園は遠く、遠く(後)
楽園の崩壊の足音。
学校の校門をくぐった時、柔らかな風がくるくると花びらを舞い上げ、僕たちの髪を押し上げる。
しかし、風邪が運んできたのはそんな穏やかなものばかりではない。
――ああ、ブレイク兄弟だ。
どこからともなく聞こえる声。そしてべっとりと、まるでヘドロのように絡みつく視線。
ちらり。視線だけを滑らせ隣の彼を見るが、その唇はまだ緩やかに弧を描いたまま。このまま彼がこの汚いものに気付かないでほしいと心の中で願う。
ざわり。再び風が吹く。
自分の首にまかれた赤色のリボンが、風に吹かれて揺れる。
――本当に弟が赤いリボンつけてるんだな。
赤いリボン。その言葉にぴくり。眉が無意識に動く。
成績優秀者の証として与えられるらしいコレは、誰からともなく押し付けられたモノだ。勉強が好きだとか、将来のために勉強しているわけではなく、彼に愛されるために努力をしてきただけの僕としては、こんなものはただの副産物でしかない。だからこそ、もっとふさわしい別の誰かに譲るべき――と考えていたのだが、考えが変わったのは彼の一言。
『さすがだね、ディエゴ』
これだけで、このリボンはすとん、と。僕の胸に今もおさまっている。ただそれだけだ。
それなのに。
ざわり。再び風が吹く。
――なんだ兄は普通のリボンだ。
――弟の方が優秀なのか。
冷め切った声。そして、視線。視線。視線。
僕らを舐めまわすような視線に吐き気を覚える。ぐつり。ぐつり。胎の中で熱が生まれる。ああ、この赤いリボンでこの声の主たちの首を絞めてしまえたらどれだけいいだろうか。思わずリボンの裾を指で撫ぜる。
ざわり。一際大きな風が吹く。
――一卵性の双子なのに、顔すら似てないんじゃないか?
それは風に乗って予想以上に僕の耳に大きく響いて。だからこそ、隣に立つ彼に聞こえないよう、僕は素早く唇を開いた。
「今日、放課後に生徒会があるんだ」
「分かった。それじゃあ、図書館で待ってるよ」
一緒に帰ろう、と暗に含まれた彼の言葉に、思わず口角が上がる。彼と僕を引き離す生徒会活動は常に忌々しいと思っていたが、この時ばかりは別だ。彼が僕の傍にいてくれることを感じさせてくれる。
ああ、今日はいい一日になりそうだ――と思っていたのに。
「おはようございます、ブレイクさん」
不意に横から声。
ブレイク。それは僕たちの苗字だが、悲しいかな、どちらが呼ばれているかはすぐに分かる。僕は誰にも気づかれないようため息を一つ漏らしながら、口を開いた。
「ああ、おはよう」
そう言いながら声の主に顔を向ければ、そこに立っていたのは生徒会のメンバーである後輩の一人。にこにこと明るい笑顔が印象的な後輩で、確か、副会長のお気に入り。
と、そこまで考えて。隣に立つ彼の瞳に一瞬だけ、陰が落ちるのを視界の隅で捉えた。ああ、無意識なのだろう。彼の瞳がゆらゆらと揺れながら、けれどぴったりと僕の姿を捉えている。
まるで蛇のように僕に絡みつく視線。けれど、決して不快などではなく。むしろ、ぞくり。僕の背筋が震える。ぐつり。胎の中で怒りではない、別の熱が生まれる。
今、彼が抱いている感情と、僕が抱いている感情。ああ、僕はこの感情の名前を知っている。思わず緩みそうになる頬を、何とか押しとどめる。
そう、これは、独占欲という名の仄暗い感情。
誰にも知られてはいけない、僕と彼のひめごとだ。
後輩に別れを告げ、彼と共に校舎の中へと入る。ぺたぺた。廊下を歩き、二人で教室に向かう。僕と彼はクラスが違うので、放課後までお別れだ。朝から晩まで彼と分かれなければならないのは辛いが、こればかりは仕方ない。
「それじゃあ、ディエゴ。また帰りに」
僕の教室の前で彼は足を止めて、ひらり。その白い指を振る彼。まるで陶器のように美しい指を気付かれぬよう、うっとりと眺めていたが、不意に視界に毒々しい色が映る。
彼の肩越し。遠くにちらりと見えた赤毛。思わず目を細める。
赤毛の名前は、そう。シンディだ。
彼の口から出てくる数少ない友人の名前のひとつ。しかも、その中でも断トツに出てくるのが、その名前だ。どうやら彼の隣の席で、随分と親しくしているらしい。一度だけ会ったことがあるが、あどけない笑顔の下で何を考えているのかよく分からない男だった。
赤。警告の色。危険信号。頭の中でがんがんと警報が鳴る。あの男は危険だ、と。何が危険かは分からないが、良くない存在だ、と本能が告げる。けれど、彼の友人という立場上、すぐにどうこうできる相手ではない。
まったく。実に厄介な男だ。
心の中で舌打ちを一つ。ぐつり。胎の中で熱がこみあげる。それを彼に悟られぬよう、ひらり、僕もまた手を振った。
「うん。それじゃあ」
彼に別れを告げ、そうして、自分の教室の扉を潜る。絡みつく視線を振り払いながら、不意に気が付いた。
そういえば、あの後輩の名前は一体なんだっただろうか。
「……まぁ、いいか」
僕の疑問は一瞬のうちに煙のように溶けて消え、そうしてもう二度と姿を見せることはなかった。
この時の僕は、知らなかった。
音もなく、けれど確実に楽園の崩壊が始まろうとしていることに。