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ひめごと  作者: 暗炬
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01.楽園は遠く、遠く(前)

ディエゴ視点。ディエゴの「ひめごと」の始まり。



 一番古い記憶は何かと問われれば、それは母の胎の中だと答えだろう。何を馬鹿なことを、と言うかもしれないが、だが実際に僕は『それ』を覚えているし、その時に抱いた感情だって覚えている。


 なんて。

 そんなことを思い出したのは、部屋の中が薄暗くて。けれど完璧な温度管理の中、実に快適な空間で。どくどく、どくどくと。自分の心臓がうるさかったから。そう、ここはあの記憶の場所のようだ。

 ゆるりと自分の口角が上がるのを感じながら、僕は、は、と短く息を漏らす。

 ――まるでここは楽園みたいだ。

 おもわず口をついた言葉に対し、返る言葉はなく。代わりに、眠っているのだろうか、『彼』の静かな吐息が薄暗い部屋に木霊する。そんな彼のすぐ横に座って、その柔らかな髪に指を這わせる。

「やっと、やっと二人っきりだね」

 ――僕の片割れ。

 白いシーツの上で四肢を投げだして溺れている『彼』――アイザックの身体に自分の素肌を重ねる。今まで僕たちを妨げていた布などなく、皮膚と皮膚が触れ合う。

 溶けていく体温。

 二人分の鼓動。

 素肌同士が触れ合うことで輪郭すらあやふやになって、僕たちがひとつになっていくような錯覚を覚える。僕たちがまた、一つになっていく。

 重たくなる瞼に抗うことなく目を閉じる。遠くで彼が自分の名前を呼びながら、どういうわけだろうか、謝罪の言葉を口にしていたような気がしていたが、それよりも早く。どぷん、と僕の意識は闇の中へ落ちた。


×××


 ノイズ。

 ノイズ。

 ノイズ。


 乱れた映像。乱れた音声。壊れかけたテレビのようなそれは、一瞬のことで。すぐに記憶という名の映像は鮮明になる。

 思い出すのは、そう。あの日のこと。一番古いあの記憶だ。

 小さな耳に聞こえたのはさらさらと水の音。それから重たい瞼越しの薄暗い光。重力なんてない。ただただ温い水の中。上も下も右も左も分からないまま、僕は本能のまま足を、手を、もがくように動かしていて。

 その時、こつん。

 不意に指先に、何かが触れた。

 張り付いた瞼を何とかこじ開ける。目の前に広がる、赤い赤い狭い部屋。脈打つ壁。一面の水。そして――目の前に、緋色の『それ』がいた。

 僕の脳みそはまだふやふやで。理性も知性もへったくれもない。だからこそ、剥き出しになった本能が叫んでいた。

 ――『それ』は僕の一部であったはずのものだ、と。

 ぶるり。形作られたばかりであろう、僕の小さい心臓が震えた。まだ生命を維持するためだけに動いていたはず、その小さな心臓が、確かに大きく跳ねた。

 何故、今、『それ』は目の前にいるのだろうか。

 何故、『それ』は僕と分かれてしまっているのだろうか。

 何故、僕は『それ』と分かれてしまったのだろうか。

 どくどく。どくどく。心臓が動く。動く。動く。己の胎の底から生まれた熱が、生温い羊水を沸騰させるような、そんな錯覚。

 その時は分からなかったが、その感情の名前は確かに『悲しみ』であり、『失望』であり。

 そして何より『怒り』であった。


 ノイズ。

 ノイズ。

 ノイズ。


 再び映像が切り替わる。

 今度は二番目の記憶。僕に自我が生まれた日のこと。

 それは突然のことだった。あの胎内にいたときと同じように、僕は目の前にいる『彼』と自分はもともと一つのものであり、けれど生まれるときに分かれてしまったのだということに気が付いた。それと同時に、僕と彼は見た目こそ同じではあるが、まったく別々のものなのだ、と察してしまったのだ。

 どうして。僕たちは一つだったはずなのに。

 どうして。彼は僕のもとから離れてしまったのだろうか。

 ぐつぐつと僕の腹の中に沸いた熱は、そう、あの日感じた『怒り』とまったく同じもの。ただしその日と決定的に違ったのは、僕は四肢を思い通りに動かすことができた。

 だからこそ僕は、手を伸ばした。彼のその細い細い首に向かって。

 今思えば、自我というものを得た僕の頭は非常に理性的で。けれど、確実に息の根を止めようと首を狙ったその行動は非常に本能的だった。

 そんな僕を止めたのは父や母の悲鳴――などではなく、彼自身の無邪気な笑い声。

 自分が今何をされようとしていたのかなんて、まったく知らないのだろう。ただただ純粋な笑み。自分に向けられた怒りや殺意などまったく知らぬと言った顔。それどころか、遊んでもらえたと言わんばかりに、笑みを浮かべてこちらに両腕を伸ばしてくる始末。

 だから気付いた。僕は、気付いてしまったのだ。

 彼は僕の足りないところを全部全部持って行ってしまったのだ、と。

 ぼろり。ぼろり。僕の目から涙が落ちる。彼の首にかけていた手は、重力に引かれるままだらりと落ちた。ぼろり。ぼろり。涙が止まらない。喉が焼けるほど痛かった。彼を殺したところで僕のこの足りない部分は補えない。僕と彼は完全に分裂してしまって、僕たちは非常に不完全な存在になってしまった。その事実が何より苦しかった。

 そんな時だった。

 そろり。僕の頭に柔らかな『それ』が触れたのは。

 驚き顔を上げれば、目の前に同じ顔。けれどにっこりと頬をほころばせながら、ディエゴ、と。忌々しくも僕たちを識別する名前を、そのうまく回らない舌で転がしながら、彼が僕の頭を撫でていた。

 どくり。どくり。どくり。どくり。

 心臓が跳ねる。けれど、あの腹を駆けあがる熱の感覚は何処にもない。怒りではない感情。涙で頬を濡らしながら、僕はただただ口を開け閉めすることしかできない。


 それが恋だ、とか。愛だ、とか。そういう名前で呼ばれるものであることを知ったのは、随分と時間が経ってからのことだった。


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