搭乗口で待っていた人
最初に回復したのは聴覚だ。
耳に入ってくるのは、大勢の人がいる空間のざわめきだった。笑い声、そして泣き声も聞こえる。歓喜や興奮がいたるところで弾けているハレの場の活気があった。
視界には輪郭が浮かび上がってきた。
美月は、眩しげに目を細めながら辺りを見回した。
何のことはない。ここは、ゲートを潜る前に目していた出発ロビーだ。ところが、先ほどまでは人っ子一人いなかった空間には、信じられないことに、大勢の人々で混雑していた。
何より、この明るさはどうだ。ロビーには真昼の日差しが注いでいる。
滑走路に目をやって、美月は総毛立った。
目の前には、まぎれもないジャンボジェット機が、蛇腹の搭乗橋とつながって横付けされているではないか。
「信じられない・・・・・・。さっきまで飛行機なんてなかったのに」
「ようこそ、ここが天国便の出発ロビーだよ」
振り返ると、清水がいた。
深夜から一転、真昼の世界だ。なんだか時差ボケのように頭がクラクラしそうだ。
美月は周りにいる人々に目を向けた。総数は、数百人単位を超えて千人以上はいるのではないだろうか。いたるところで歓喜の声があがり、抱き合って涙を流している人たちも少なくない。
その光景に、美月は圧倒される。
「みな、亡くなった人たちなんですね」
「ああ。三途の川での感動の再会ってわけさ」
「両親や兄弟と?」
「お爺ちゃんや、ひいお爺ちゃん、なんてこともあるだろうね。ほら、あそこに旧日本軍の軍服を着てる人がいる」
たとえば五十年以上前に亡くなった祖父母と再会している人もいるわけだ。美月は大変なことに気づいてしまった。
「じゃあ、逆に言えば、何十年もここで待っていたわけですか? 孫が亡くなるをひたすら」
「まさか。ここは時間が止まった空間なんだ。待つ必要なんてない。ここへ来れば、時間を超えて会うことができる。過去も未来もここにはない。というより、過去と未来が同時に存在していると言ったほうがいいかな。虚時間の空間は、すべての時代の人にとって“今”なんだ」
清水の説明ではうまく理解できないが、一つだけ言えることがあった。
間違いなくここにあの人も来ているということだ。
喧騒にかき消されるようにして流れているアナウンスに気づいた。
「天国行き、銀河航空123便をご利用のみなさまにお伝えいたします。チェックインをお早くお済ませください。まもなく、搭乗開始時刻となります。繰り返します」
チェックインカウンターには長い列ができている。慌ててチケットを用意しようとして、夕実に渡したことを思い出した。
制服姿の女子高生が、チェックインカウンターの列の中ほどにいた。美月は列に並ぶ人をかきわけるようにして彼女のもとへ向かう。
「夕実さん!」
振り返った夕実のそばには陽太もいた。
「ありがとうございます。チェックインは私がやりますから」
チケットを受け取ろうと腕を伸ばした。しかし、夕実は「ええよええよ」と手を振るばかりだ。
「私がチェックインをしておくから。君は、陽太くんと一緒に搭乗口へ行っとき。待っている人がおるんやろ?」
「でも・・・・・・」
「早く探さな別れを惜しむ暇もなくなるって」
美月は、夕実の申し出に甘えることに決めた。
「じゃあ、行こう」
陽太の腕を掴む。振りほどかれてなるものかと、強く引っ張った。
「痛い! 放してよ!」
「ようやく口を聞いてくれたね」
陽太は抵抗をあきらめたようだ。すかさず美月は弟を抱え上げた。重さ、暖かさ、匂い。懐かしい感覚に、一瞬、胸がつまりそうになった。
「ねえ、陽太、あの人が来てるの。どこかで私たちを待ってるはず」
人の間を縫うように、搭乗口へと向かう。奥の柱の付近では、待ち合わせ場所になっているらしく、人待ちげに佇んでいる集団がいた。近づいていくと彼らの方でも美月に視線を向けるが、すぐに失望の表情を浮べた。
滑走路に向かいあう形で並んだベンチにも座っている人がたくさんいる。しかし、懐かしさを感じさせる後ろ姿はどこにも見当たらない。
搭乗口付近を一通り回ったが、結局、それらしい人はいなかった。
見逃したなんてことは考えられない。遠くからでも一目見ればそれとわかるはずだ。
とうとう我慢ができず、美月は、銀河航空のスタッフに声をかけて、人を探していることを伝えた。
若い女性スタッフは、品の良い笑顔で対応してくれる。
「場内アナウンスでお呼びいたしましょう。お名前をお教え下さいますか?」
「スガノ カナコです」
「失礼ですが、スガノ様とのご関係は?」
「娘です」と美月は答えた。
女性は足早にカウンターへむかった。しかし、アナウンスが準備されているような気配もないまま、女性は別のスタッフを連れて戻ってきた。
上司と思われる背の高い男性スタッフは、美月の前で一礼して言った。
「スガノ カナコ様の娘様ですね。お名前は、ミヅキ様で宜しかったでしょうか?」
どうして自分のことを銀河航空のグランドスタッフが知っているのだろう?
美月の胸に嫌な予感が広がる。
「こちらからお伝えしようと思っていた矢先のことだったのです。実は、事情がありまして、お母様はこちらでお待ちになられておりません」
目の前が暗くなる。
「どういうことですか?」
男性スタッフは、すまなそうな表情をみせてその理由を述べた。
「お母様は銀河航空に就職されたのです」
「は?」
「生前から、徳を積まれた方ですので、ぜひ我々の一員となって、人々の魂の昇華のお手伝いをしませんかとお誘いしたのです。お母様にはすぐにご承諾頂けました」
「ちょっと待ってください。じゃあここで働いてるはずじゃあ」
「お母様には、客室乗務員として、空の上で勤務して頂くことになったのです。残念ながら、さっそく前の便で立たれました。生前、ご経験があるだけに我々も大変頼もしく思っております」
美月は、弟をぎゅっと抱きしめながら、高い天井を見上げる。
まったく、救いようがない。
あいも変わらず、身勝手な母親だ。
せっかくの奇跡を台無しにするなんて。
スタッフは微笑みを浮かべると、スーツの裏ポケットから一通の便箋を取り出した。
「ミズキ様がいらっしゃったらお渡しするようにと、これを」
中に入ってあるメッセージカードには、母親の字で、短く、こう書かれてある。
よくがんばった。陽太を、ありがとう。
美月は力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。
最期に言葉を交わせなかった分だけ、話したいことが山ほどあったのに。
それが、たったメッセージカード一枚きりだとは。
「お姉ちゃん」
陽太の小さい指先が、美月の涙を拭ってくれた。
「だから変更よ! できるはずやん!」
搭乗カウンターから、金切り声が聞こえてきたのはその時だった。
声の主が夕実だということはすぐにわかった。
何事かと辺りが静まった中、彼女の怒鳴り声だけがフロアに響いている。
「チケットの名前を変更するだけやん!」
「そのようなことはできません。チケットは送られたご本人様だけのものです」
「嘘や! 嘘や! 嘘や! そうやって飛行機に乗った人を知ってるんやから!」
夕実は、スタッフに掴みかからんばかりに、カウンターに身を乗り上げている。
悲しみに浸っていたことも一時忘れて、美月は彼女のもとへ駆けつけた。
しかし、振り返った夕実を見て言葉を失った。
憤怒の形相を浮かべたそれは、十代の少女のものとは思えない。憎しみが顔の凸部を浮腫ませ、目が化け物のように真っ赤に染まっている。
夕実は、美月にむかって吠えた。
「チケットは私のものや! 私は天国へ行くんや!」
何か大切なものを粉々に破壊され、誇りやプライドを失った生き物が発する哀れな悲鳴に聞こえた。
遠巻きに眺める野次馬の、こんな囁き声が美月の耳に入る。
「かわいそうに。きっとあの娘は殺されたんだな」「ああなると地縛霊にとりこまれるしかない」
美月は言った。
「落ち着いて夕実さん。チケットは私がなんとかするから」
「お前に何ができる!」と夕実は声を裏返して怒鳴った。「生きているくせに! 死ねよ! お前も殺されてみろよ! くそっ、どいつもこいつも、そんな目でこっちを見んな!」
夕実は、獣のように周囲をも威嚇し始めた。
辺りには、腐った魚の内臓を汚水で炊いたような生臭い悪臭が漂っていた。
いつ現れたのかは定かでないが、さきほどからずっと夕実の背後に人型の黒い影が立っていた。のっぺらぼうで黒一色の、地面に落ちた影を切り取ったような影がふらりふらりと、夕実をとり囲んで行く。一人や二人ではなかった。床からいくつもの影が現れて、両腕を伸ばしながら夕実にとりついていく。
「うわっ! うわっ! 嫌っ! うわっ!」
ある影は夕実の首を絞め、ある影は彼女の太ももに噛み付いている。影たちはのっぺらぼうのはずなのに陰影の濃淡で表情がわかった。
夕実を苦しめることを心から楽しんでいる。
「近づいちゃダメだ」
いきなり後ろから美月の腕を掴む者がいた。清水だった。
「あれは地縛霊だ。ああやって地獄へ引きずり込んで行くんだ」
「助けなきゃ」
「無駄だよ。あの娘はもう助からない。とにかく、関わっちゃいけない。他人事だと忘れるしかないんだ」
地縛霊たちは溶け合い、黒いドロドロとなって夕実の全身を包んだ。もう彼女の声は聞こえなかった。悲鳴はブクブクとした泡に変わっている。よほど苦しいのだろう。夕実が身をもがいているのがわかった。しかし、氷点下に冷やされた液体が、一瞬で氷になるように、突然、ドロドロは鋭角な角をもった個体に変わった。黒曜石の石柱のような物体(あるいは棺桶のようにも見える)と化したそれは、ずんずん地の底へと沈んで行く。
そうして、ついに床下へ消えゆくその瞬間、水面で一抹の泡が弾けるように、こんな声が聞こえた。
(消えたい・・・・・・)
夕実の声に間違いない。
消えたい、と願うしかない彼女の絶望を、美月は他人事になんてできなかった。
自分だってそうなのだ。
陽太を失ってからずっと、この世から自分という存在を消すことばかりを願ってきた。寂しさ、罪悪感、憎しみ。この世界には負の感情ばかりが満ちている。自分という存在が消えれば、すべては消滅するのだ。結局、意識を持って生きていること自体、地獄と等しい。
「考えちゃいけない」
清水に腕をひかれた。彼の声に、どこか温かみを感じないか。あるいは、自分がまだ見たこともないものを、たくさん見てきた人なのかもしれないと、美月は思った。
地縛霊が消えた床には、一枚のチケットが落ちている。夕実が持っていた陽太のチケットだ。
「あれは汚染されています。処分いたしますので触らないでください」
モップやバケツを持った銀河航空のスタッフが、床の消毒をはじめた。チケットはゴミばさみで拾い上げられ、塩の入ったバケツの中に捨てられた。
「天国行き、銀河航空123便の搭乗を開始致します。チケットをお持ちの方は、一番搭乗口からお入りください」
場内にアナウンスが響き渡ると、辺りにはざわざわとした喧騒が蘇った。
「さあ、弟さんのとこに行かなきゃ」
清水に諭されて、ようやく美月はその時が来たことを知る。
陽太は、男性スタッフに付き添われて、姉がやってくるのを待っていた。
「新しいチケットはご用意しましたので、安心してください」
「ありがとうございます」
男性スタッフは去っていった。そばにいた清水もそっと離れていく。
気をつかってくれたのだろう。
いよいよ、二人でいられるのもこれが最後だ。美月は弟と同じ視線の高さにかがんだ。
「実感がわかないよ。アンタと永遠に別れるなんてさ」
不思議と、寂しさを感じない。神経が鈍麻したように感情がうまく心に伝わらないのだ。
手ぐしで陽太の髪の毛を整えてやった。
「まいったな。生きていた頃とまったく変わらないんだから」
ようやく目から熱いものが滴り落ちた。
「本当は捨てたの」陽太は言った。
「捨てたって、何を?」
「チケット。前に一度、届けてもらってたんだけど捨てたの。まさか二枚目が送られてくるなんて思いもしなかったよ。ごめんね嘘ついて」
「そこまで逝きたくなかったのなら、そう言ってくれれば・・・・・・」
「これでいいの」
陽太は微笑んだ。
その時、こちらへ歩いてくる客室乗務員の女性が目に入った。
客室乗務員は、グレーのツーピースのスーツが似合った若い女性だ。胸元には銀河航空ピンバッチが輝いている。
「スガノ ヨウタ様ですね。座席までご案内致します」
客室乗務員が手を差し出すと、弟は素直に彼女の手を握った。
「陽太・・・・・・」
二人は搭乗口へむかって歩いていく。客室乗務員が何やら話しかけると、陽太は微笑み返した。二人の会話が、美月には聞こえない。けれど、ちらっと見えた弟の笑顔は、まるで天使のようだった。
美月は自分がしたことの意味を知った。どうしてこんな所へ連れてきたのだろう。この先も弟と一緒に暮らすことはできたはずだ。やるべきことは他にあったのだ。
美月は、陽太を追って駆け出した。
天国へなんか逝かせるものか。
「陽太、家へ戻るよ!」
美月は、客室乗務員から弟を奪い返そうと手を伸ばした。
「家へ帰って一緒に暮らすの! 私が死ぬまで! それまでずっと一緒に! ねえ! 陽太! どうして! どうしてよ!」
掴むことも、触ることもできない。何度、弟に手を伸ばしても、空気をかくように感触がなかった。目の前にはっきりと姿が見えているのに、すでに彼女の声さえ届かないようだ。
「そんな・・・・・・」
美月は、呆然と立ち尽くした。
陽太は、もう姉のことを忘れたように振り返りもしない。
搭乗橋へ入る通路の入り口に、家族らしい五人ほどからなる一団がいた。不思議なことに、彼らは陽太を取り囲むと、何やらにぎやかな歓声をあげた。
まるで陽太がやって来るのを待ってでもいたかのように。
一体、彼らは何者なのだろう?
見れば見るほど、陽太と親しい人々のように感じられた。
その中に一人、綺麗な白髪をした高齢の女性がいた。美月は彼女に釘付けになった。歳の割には背が高く、風格さえ漂わせている。女性は陽太を抱き上げると、キスやら、頬ずりをした。陽太も彼女の首にひしと抱きついている。
どういうわけか、美月には嫉妬が湧かなかった。それどころか、温かな気持ちに満たされていく。
女性はこちらに気づいたようだ。
美月と女性は、見つめあった。
女性は陽太を下ろすと、みんなに待っているように伝え、美月のほうへと歩いてくる。
桜色のワンピースを身につけ、足にはパールピンクのハイヒールをはいている。七十は超えていそうな歳なのに、背筋が伸びたスタイルの良い体によく似合っていた。
「美月ね」
声を聞いて驚いた。
思わず、お母さん? と問いかけてしまいそうなほどに母親にそっくりなのだ。
角度によっては、顔にも母親の面影を見つけることができる。いや、確かにその顔は見知らぬ他人なのだけれど、どこかで見たことがあるようにも思える不思議な顔だ。
あるいは、美月の知らない親類なのかもしれない。
「親戚だと思ってるでしょ? まあ、間違っちゃいないんだけど」
すかさず美月の思考を見抜いて、女性は笑っている。耳触りの良い笑声だ。きっと良い育ち方をした人なのだろう。
「それにしても、まあ、こんなに子供だったとはね」
女性は、まじまじと美月を見つめながら、しきりに感心した様子だ。
「あの・・・・・・」
何かを尋ねるべきだと思ったが、何を尋ねていいのかわからない。
女性は、小さなハンドバックから一枚の青い封筒を取り出した。
「これをあの娘に渡してちょうだい」
差し出されたのは、まぎれもない銀河航空のチケットだった。
「本当は、さっき私からこれを渡してあげればよかったんだけど。もう六十年以上も昔のことだから顔を忘れちゃっててね」
「それって・・・・・・」
「確か夕実とか言ったっけ」
一体、どういうことなのか美月は混乱した。
「夕実は、またあなたの所にやってくる。とんでもなく寂しがり屋さんなの。だからそれを渡してあげて。きっと天国へ行けるはずだから。よろしくね」
説明なんてこれで充分だとばかりに、女性は美月の手にチケットを押し込んだ。
優しそうな顔をしているくせに、ずいぶんと、強引で身勝手な人のようだ。
まったく、あの人にそっくり。
「後ろにいるのは、私の家族。みんな待っているからもう行くわ。がんばってね、美月。これからも苦労するけど、まあ、なんとかなるから」
女性は、何やらとても楽しそうに笑っている。
美月は、封筒からチケット取り出した。確かに天国便のチケットだ。
贈呈者の名を確かめて、ハッと顔を上げた。
白髪の女性は、家族・・・・・・美月がまだ顔も知らない人々の元へと帰っていった。陽太もすっかり彼らと打ち解けているようだ。
女性は、陽太と手を繋ぎあって搭乗橋を歩いていく。
長い年月の隔たりを感じさせないほど二人はしっくりときて、とても幸せそうに見える。
そりゃそうだ。二人は姉弟なのだから。
女性の苗字が変わっていないのが気になった。生涯独身なのだろうか? それとも離婚したのか? 夫婦別姓主義だったらいいのに。
いずれにせよ
数十年先にまたここへやって来る時まで、忙しい日々は続くのだと、美月は思った。
音のない真っ青な空の下、ジェット機は眩しく翼を輝かせている。




