真夜中の空港
︎✈︎
「これから天国へ行くいうのに、二人とも暗いやんか。もうちょっと楽しそうにしいな」
夕実は、一人だけテンションが高い。
すっかり夜も深まった時刻。遅刻して待ち合わせ場所に現れた彼女は、あいかわらず制服姿だった。ブカブカの白いソックスはルーズソックスというものだと、昼間に学校で教えてくれた。
彼女のようにはしゃぐことはできなかった。昨夜から、美月は陽太と一言も口をきいていないのだ。もちろん、弟の機嫌が直っていないのが原因だった。何度か話しかけたが、ことごとく無視される始末だ。ここまで険悪な関係になったのは初めてのことだ。
まったく、今さら反抗期をむかえられても困る。あと数時間で、成仏の時を迎えるというのに。
「大丈夫、陽太くん。あっちに行けば、なにもかも忘れるって。苦しいことも嫌なこともぜーんぶなっ!」
「あのう、夕実さん。少し急ぎませんか?」
人工島を超えて、その先の海に浮かぶ空港まで十キロ近くあるのだ。遅刻してきた夕実のせいでモノレールは終電を迎えていた。おかげで、その道のりを歩いていくことになった。すでに時刻は一時を回っていた。
入場開始時刻は、午前四時二十分。
このままのペースじゃ間に合いそうもない。
「心配せえへんでもええよ」
「だけど」
「ほんまに、大丈夫やって。空港には前に行ったことある言うてるやろ。だから任しときー。て言うか、ほら、見てみいな、フェリーやで! 確か、あれ、四国に行くねん」
人工島へと渡る大橋の欄干から、真下を潜っていくフェリーが見下ろせた。大半は積み込まれたコンテナやトラックで、客室らしい明かりは数えるほどしかなくて、なにか得体の知れない巨大な物体の影が、海上を滑っていくように見えた。
湾岸には高速道路やバイパスの高架があり、絡み合うようにして東西に走っている。オレンジ色をした街灯、赤く光るシンボルタワー、港に立つホテルの照明、ビル街の窓の明り。しかし、港町にある雑多な光源は、負の方向へ働きながら、まるで閉館した美術館で彫像を下から照らし続ける小さな照明のように、むしろ深夜の闇を強調する。
夜風は冷たかった。美月は、パーカーのポケットに手を突っ込みながら歩みをすすめた。振り返ると、暗い道をうつむいて歩く陽太が、少し距離を置いてついてくるのが見える。時間のことを考えればむしろ走りたいところだが、弟が追いつくのを待つためにスピードは抑えなければならなかった。
大橋を渡っていくにつれて遠ざかっていく街は、まるで他人の夢のようだった。暗い海に隔てられて、実際の距離以上に遠い存在に思えた。なにかの拍子に、美月は寂しさに胸が締め付けられるのを感じた。喘ぐように数回深呼吸をするとそれは消えるのだが、空気を求めて浮き上がってこようとする生き物を水中に押し戻すような罪の意識が後に残った。一体、それがどこからくるものなのかは、彼女にもわからなかった。
下から吹き上がってくる風がごうごうと音を立てる大橋の中腹まで来ると、前方に人工島の全景が見えた。
島は、陸地よりもいっそう暗い。
鼻歌を口ずさみながら前をゆく夕実へ美月が話しかけたのは、ちょうど大橋の三分の二を渡りきった頃だった。
「夕実さんは、飛行場へ行ったんですよね」
「うん」
「なのに天国便には乗らなかった」
「だから、前にも言うたやん。もうちっと幽霊の状態を楽しみたかったって」
「チケットをもらえないこともあるらしいですね」
夕実は鼻歌を止めたようだ。
相手の言葉の真意を探るように、彼女は黙り込んでいる。美月もまた、意図したわけではなかったけれど、結果として相手を挑発する形となったことに気づいていた。
二人の間にみなぎっていた殺気が消えた。
「私のこと、もう、知ってるんやろ?」
夕実は、いくぶん顔をこちらへ振り向けて、そう問うてくる。
「はい」と美月は答えた。
美月が、高校に伝わる怪談を知ったのは、ネットの掲示板でだ。
写メに、時々、時代遅れのルーズソックスをはいた女子高生が映るらしい。それはかつて売春をして殺された生徒の霊だと噂されていた。
怪談の真偽はともかく、二十年近く前に地元のラブホテルで生徒が殺害される事件があったのは事実なのだ。
「夕実さんの口からあのホテルの名前が出た時、ぴんときたんです」
「そう『たけくらべ』だよ。私が殺されたホテル」と夕実が言った。「犯人は、伝言ダイヤルで知り合ったおっさん。人の良さそうなおっさんやから安心しとったんやけど、とんでもない悪魔やった。まあ、女子高生を金で買うような奴にまともな人なんておらんよね。私がバカやった。実際、同情してくれた人なんか一人もおらんし。つまりは自業自得。美月だって、そう思うやろ?」
「・・・・・・」
「今やからわかるけど、私はほんまに子供やってん。その頃は、自分の体で金を稼いで、いずれ会社をつくるのが夢やった。そうして私をバカにしてきた奴らを見返してやろうと思ってた。けど殺された。殺された上に、もっと笑われた」
美月は、夕実の正面へ回り込んだ。そして、彼女の両手を強く握りしめる。
「ねえ、夕実さん。なんとかしてチケットもらえないんですか? 天国行きましょうよ!」
「私に送ってくれる人なんておらんよ。それに、殺されたり、自殺した人間の魂は、天国には行けへんらしい」
美月は心の底から怒りをこみ上げた。
「そんなのおかしいです! 殺された人って被害者じゃないですか! 自殺した人にだって理由があったかもしれないでしょう?」
「この世界はそういうもんやねん。宇宙全体が、敗者には冷たいねん」
「だったら宇宙が間違ってる!」
夕実は、目を丸くしている。
「アンタ、童顔な顔して、意外に気が強いねんな」
この性格は、母親譲りだ。
その時、美月はあることを思いついた。
「そうだ! チケット、なんとかできるかもしれません」
「はあ?」
「弟にチケットを送ってくれた人に頼んでみます。その人、出発ロビーで待ってるんです」
「無理せんでもええよ。それにそのことやったら考えがあんねん」
夕実には背を向けられた。
「鼻の穴が大きくなっとるで。美人が台無しや」
それでも美月の決意は揺るがなかった。
母親に相談してみるのだ。きっとなんとかしてくれるだろう。
家族に対しては身勝手なところがある人だったけど、他人に対しては誠心誠意尽くす人だった。
何せ、命も顧みず他人を助けるために火の中へ飛び込んでいった人なのだ。
真夜中の人工島を縦断して、空港まで伸びる長い橋を渡った。
三人がようやく空港ターミナルまでたどり着いた時には、すでに入場開始時刻の四時二十分を過ぎていた。
空港ターミナルは、人の気配もなく静まり返っている。この時間はまだ閉鎖されていてエントランスからは入場できないらしい。美月は、なすすべもなく締め切られたガラス戸から暗いロビーを覗いた。
「ここをすり抜けて、先へ行ってください。陽太も一緒に」
幽霊ならガラスくらいは通り抜けられるはずだ。陽太を夕実に託そうと美月は心に決めた。弟が天国に行けなければ、元も子もない。
「でも、美月はどないするの?」
「空港で働いている作業員の人に知り合いがいるんです」
「さっき言うてた、チケットを配達してくれた人?」
「はい。私が来ることは知っているはずだから」
「わかった。壁をすり抜けるなんて、いかにも幽霊ですって真似は嫌やねんけどな。でも、時間のことを考えたら、しゃあないな」夕実は手を差し出した。「チケットをちょうだい」
人間界と同じで、搭乗手続きにはチケットが必要らしいのだ。
美月は、ショルダーポーチにしまっておいたチケットを取り出し、夕実に手渡した。
「まかしとき。そしたら、陽太君行こうか」
「待って。誰かこっちに来る」
その時、ロビーに揺れる懐中電灯の明かりと、人影が見えた。
こちらに走ってくる人は、つなぎの作業着を着ている。
「清水さんだ。間違いない」
清水は、エントランスから少し離れた場所にある通用扉を開いた。半身を出してこちらを手招いている彼に向かって、三人は駆け出していく。
「ありがとうございます! どうやって中に入ろうかと迷っていたんです」
礼を述べる美月を、清水は制した。
「静かに。中には警備員とか作業員がいるから、美月ちゃんは見つからないように」
「生身の人間ってのも面倒くさいな」
そう言って笑う夕実を、清水は見下ろした。
「君も搭乗客かい?」
「夕実さん。先輩幽霊さんです」と美月は紹介する。「一緒に見送りに来てくれたんです」
「そうかい。入場口は二階にある。三人とも僕の後についてくるように」
ターミナルの中へ入ると、清水に案内されながら二階をめざした。日中は大勢の人が利用する空間だからこそ、真夜中の景色はうら寂しい。土産物屋や売店もシャッターを下ろし、だだっ広い空間はしんと静まり返っていた。
出発ロビーのある二階は、さらに天井が高い空間になっている。JAL、ANA、スカイマークといった航空会社のカウンターは暗がりにあり、壁や柱にある運行表示板はどれも真っ暗だった。火の消えたフロアのどこにも、人間はおろか、幽霊の姿もなかった。
清水は、さらにフロアの奥、保安検査口の方へと三人を促した。
「ここが入場口だよ」
そう言って、清水が指し示したのは、なんと金属探知機のゲートだった。
「どういうことですか?」
自分はまんまと騙されたのかもしれないと、美月は疑わずにはいられなかった。百歩譲って、保安ゲートが入り口だったとしても、その向こうに広がっているのは、やっぱり暗くてがらんとした空間だ。
何よりもの違和感は、ガラス張りのロビーから一望できる滑走路だった。ここから見る限り深夜の滑走路に飛行機らしきものは見当たらないのだ。
「美月ちゃん。心配しなくてもいいよ。今はまだ、虚時間のトンネルが繋がっている」
時間の流れが止まった空間。過去も未来もない空間。
そういえば、この前も清水はそんなことを言っていたっけ。
「ここをくぐったら、時計が狂うとか?」
「んじゃ、お先に」
そう言って夕実がゲートをくぐった。次の瞬間、音もなく、彼女の姿は宙に消えたのだ。
「ちょっと! 陽太! 今の見た?」
興奮する姉とは対照的に、陽太はどこ吹く風といった様子だ。
「さあ、二人とも早く中へ入って。虚時間はいつまでも開いていないんだ」
「どうする陽太? 私から先に行こうか?」
しかし、陽太は、姉を無視するようにゲートに飛び込んでいった。
やっぱり、彼の姿も消えた。
「弟さんと喧嘩でもしてるの?」
そんな清水の問いかけが、耳に入った。しかし、答えようとした時には、すでに陽太を追って体の半分がゲート内に入っていた。
「そうなんですよー」の“そうなん”まで口に出したところで、目の前でカメラのフラッシュを炊かれたように、視界が白くなった。




