空港の夜間作業員
十五分ほどかけて自宅マンションまで戻った。
エントランスの横にあるスロープの前には、一台のママチャリが置かれていた。辺りを見回してみたが、持ち主らしき人はいない。
同じ階に住む足の悪い老人のことが頭に浮かんだ。老人は階段が使えず、いつもこのスロープを利用するのだ。こんな時間に出入りはしないだろうが、念のために自転車を動かした。
「他人のだよ」と陽太が心配そうに言った。
「でも邪魔になるでしょう」
エントランスのガラス戸が開いて男が出てきた。
男はぎょっとした様子で、美月を見下ろしている。持ち主なのかもしれない。
「す、すみません。スロープを使う人の邪魔になるかなっと思って・・・・・・」
相手の機嫌が悪くなるのを覚悟したが、男はぺこりと頭を下げた。
「ごめん! 気が利かなくて!」
こちらが恐縮してしまうほど、すまなそうな顔をしている。
二十代前半くらいの男性で、ツナギの作業着を着ている。きっと水道屋か何かで、住人に呼ばれたのだろう。
男は、目を輝かせながら美月を見つめている。
ジーパンとシューズは川の水で濡れたままだ。美月はお辞儀をすると、陽太の手を引いてそそくさと玄関へむかった。しかし、信じられない一言が耳に入った。
「菅野さんだね? 菅野美月ちゃん」
警戒心から顔がひきつってしまう。「そ、そうですけど」
「よかった。留守だったから、会えないかもって心配してたんだ。じゃあ、その子が弟さんの陽太くん?」
陽太もあっけにとられたように、男性を見上げている。
「二人にお届け物があってきたんだ。僕は清水と言います」
清水と名乗った男は、胸ポケットから封筒のようなものを取り出した。
「菅野陽太くん。君にだよ」
差し出された青い封筒を目の前にして、陽太は受け取っていいか確認するように姉の顔を見ている。
清水は郵便配達員には見えない。何よりもっとおかしなことがある。
「ち、ちょっと待ってください。陽太が見えるんですか?」
「当然」清水は、にっこりと笑った。
「それって、つまり・・・・・・そういうことですよね?」
まったく、と美月は半ば呆れながら思う。次から次へとこんなに当たり前に出てくるなんて、この世界はどうなっているのだ。
「?」清水は、意味が飲み込めない様子だ。
「だから、幽霊さんでしょう? 陽太と同じように」
「僕は・・・・・・空港の夜間作業員だよ」
「空港?」
「うん。だから幽霊じゃない」
清水は晴れ晴れと笑っているが、美月は釈然としない。
「作業員さんが、どうして陽太に届け物を?」
「話せば長くなるんだけど、この街の空港では、真夜中にちょっとした不思議なことが起こるんだよ」
「不思議なこと?」
「天国行きの飛行機が出るんだ」
清水は、にんまりと微笑んだ。エントランスの明かりが写り込んで、彼の瞳をいっそう輝かせている。
「信じられないだろうけど、本当のことなんだ」
「じゃあ、届け物って、チケットですね」
清水の驚いた表情を見て、美月は図星だとわかった。
「なんだ、知っていたのかい?」
「そういうのって、天使が届けてくれるのかと思ってました」
「がっかりさせてごめん」
「いえ。ただ、人の手を使って配達されるってのが意外だったので」
「僕は配達を手伝っているんだよ。銀河航空は人手不足なんだ」
清水は『銀河航空』って名称を当たり前のように口に出しているし、美月も聞き流してはいるが、内心、かなりの違和感をおぼえている。
なんだそれ。天国まで飛行機で行くというだけでも荒唐無稽な話なのに、よりにもよって企業が運営しているとは・・・・・・。死後の世界の常識を疑いたくなる。
「とにかく、二人と逢えてよかった。はいこれ」
陽太は、差し出された封筒に手を伸ばそうとしない。代わりに、美月が受け取った。
「それにしても陽太くんは幸運だよ」と清水は言った。
「天国便のチケットは、招待してくれる人がいなきゃ発行されない。たいていは亡くなった家族がチケットをプレゼントしてくれるんだけど、個人主義の現代じゃそういう慣習も廃れてきたらしいよ。結局、誰にもチケットをもらえず、永遠に成仏できない魂も多いんだ」
「じゃあ、このチケットは、あの人が?」
「あの人?」
「送り主です。私たちの母親ですか?」
「チケットには送り主の名前が書いてあるよ」
封筒からエアチケットを取り出した。【銀河航空 航空券】と印字されたそれは、とりたてて特徴もないチケットに見えた。
【行き先:天国 機体:ボーイング747 搭乗者名:スガノ ヨウタ 性別:男性 年齢:七歳】
しかし、贈呈者という項目には、【スガノ カナコ】という名が印字されてある。
美月は、思わず清水につめ寄った。
「あの人、空港にはまだいるんですか! 行ったら話ができますか!」
「美月ちゃんが空港へ?」
「話をしたいんです。色々と」
「そうだね。チケットの送り主は出発ロビーで待っているものだよ。特に子供が相手ならなおさらさ。同乗者が必要だからね」
美月は胸の奥から、激しい感情が湧き上がってくるを感じた。
これは怒りなのだと、美月は自分に言い聞かせた。だからこそ、体がこんなにも震えて、涙まで込み上がって来るのだ。
ちゃんと顔を合わせて、もう一度、あの人と話さなきゃならない。
これまで陽太とどうやって暮らしてきたのか、彼女に教えてやらなきゃならない。
何も知らないまま死ぬなんて、親として最低だ。
そうして、自分のこれまでの選択は間違いじゃなかったんだと、あの人に認めさせなければならない。
「空港には今から行けますか?」
「これから行こう! と言いたいところなんだけど、色々めんどくさいことがあってね」
「まさか生きている人間は行けないとか?」
当たり前の話かもしれない。空港に死者が集まることがバレたら、現世はパニックになる。
「いや、それは大丈夫」
大丈夫なのか。すごい。
「チケットには入場開始時刻が書かれているはずだよ」
入場開始時刻は、明日の午前四時二十分と印字されている。
「入場開始時刻から十分間だけゲートが開く。その時間だけ虚時間と繋がるんだ」
「キョジカン?」
「簡単に言えば、時間がない空間だよ。過去も未来もない。だから死者とも逢える」
過去も未来もない空間で、どうして死者と出逢えることになるのだろうか。
「まあ、深く考えなくていいよ。理屈がわからなくても飛行機は飛ぶものだろう?」
「入場時間が過ぎちゃったら?」
「予定されている便には乗れなくなっちゃう。だから、必ず時間内に空港へ来ること」
清水は、自転車のハンドルに手をかけた。
もう行ってしまうらしい。同じ生きている人間同士として、彼には尋ねたいことが山ほどあったのに。
「それじゃあこれで。明日は僕も勤務しているから、案内できると思う」
清水は微笑み、自転車に跨った。
「じゃあ、明日」
清水の広い背中。彼は年上の男性なのだと、美月は初めて気づいたように思った。
遠ざかっていく自転車は、チリンチリンとベルを鳴らして、路地を曲がっていった。
「明日、本当に行くつもり?」足元から聞こえたその声は、とにかく不機嫌だ。
「当たり前じゃない。このままでいいわけがないでしょう?」
うつむいた陽太の頭を撫でる。
「大丈夫。これで無事に天国へ行けるんだから。これでお姉ちゃんも肩の荷が降りるよ。さあ、家へ戻ろう」
伸ばした手を払われた。
「僕が邪魔なんだね」
いつもならメソメソと泣き出すところなのに、やけに平板な声だった。
「美月は、僕が邪魔だってずっと思っていたんだ」
弟から、これまでにない圧を感じる。抱え上げてあやしてやるくらいでは機嫌を直さないだろう。
「ねえ陽太、あのさ・・・・・・」
「わかったよ。飛行機でもなんでも乗って永遠に消えてあげるよ」
さっさとマンションのエントランスへ入っていく弟へ、声をかけることができない。
中途半端な気持ちで向かい合おうとしても、陽太はもう振り向いてくれない気がした。
しかし、とっくに灰になったはずのその背中は、悲しくなるほど小さい。




