序の一 ある日の午後 その1
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二月も後半へと差し掛かり、桜のつぼみが、わずかに膨らみ始める季節のこと。
中学校の卒業式を控えたこの時期には、一般的に言えば高校受験シーズン。つまりは人生を左右するイベントの一つ、入試試験の追い込みの季節でもある。
普通の受験を控えた中学生ならば、このイベントに参加するべく必死に参考書に齧り付き、睡眠時間を削ってもなお足りない。試験会場では肩を並べ、同じ設問を解く赤の他人を蹴落として、定員と言う名の枠に自分の試験の点数を押し込むのみ。
枠に入れなかった敗者の事など合格発表の時にだけ気にとめて、残念だったねと表面上言いつくろい、しばらく時間が経てば忘れ去るだけ。
そんな重大イベントに一人参加せず、土曜日にのんびりと煎餅布団の上で寝息と共に惰眠を貪る黒髪短髪の少年が居た。
少年の部屋は土間も入れて八畳程度。いや、茶室だった場所を改装して作った離れのような構造であり。先述の布団の他には、柔らかな陽光を取り入れるため、少し大きめに作られた竹の円窓の際に文机と座布団。そして、無造作に置かれた鞄と教科書あり。少々散らかっている様子が見受けられる。
文机の上には、やはり無造作に置かれた筆記用具と、一枚のプリントが乗っていて。
“進学・就職調査最終アンケート”と書かれており、提出日の日付は月曜日。
この少年の名前だろうか、氏名は物部・紬と濃い鉛筆で書かれており。
進学先の枠には、なにも記載されておらず。就職先には”探索者希望”と、整ったとは言い難く、また読めなくもない。つまりは微妙な筆跡で書かれていた。
不意に、窓から季節合わせた冷たく、そして時折ぬるまった風が部屋に吹き込み、少年は寒いのか布団に包まり完全防御態勢。
その風に乗って。
トッ、トッ、トッ。
遠くの方から、発動機関が発する軽い拍子で愛嬌のある連続音が聞こえ、近づくにつれて少しずつ大きくなる。
テンポよくリズムを刻んでいた音は、少し離れた位置で止まり。何かを開ける音と、閉める音。この二つは、静かな裏通りでは良く響く。
「・・・・・・誰か・・・・・・来たのかねぇ」
その音に反応したのか、少年は薄目を開け、寝ぼけた眼であたりを見回し。日差しの入る窓を確認すれば、少しばかり拳一つ分くらい開いている。
「そらぁ、寒い訳だわ・・・・・・」
暖かな布団から抜け出そう体を起こそうとするも、本能が拒否反応起こしなかなか抜け出せない。
そうこうする内に舗装されておらず、水はけをよくするために砂利を敷いただけの道を、ゆっくりと誰かの堅い足音が韻を踏むように聞こえてきた。
布団から這い出した少年は枕元を探り、そこに無造作に置いてあった黒いモノを無意識の内に手に取ると立ち上がる。
少年。
いや、物部・紬は藍で染めた綿入りの作務衣。その下衣を履いたまま、上半身は黒のタンクトップ一枚の姿で惰眠を貪っていた為か、くしゃみを一つ。
その後、軽く目覚ましとして、両手を握り大きく天へ高く伸ばす動作を、連動して全身の筋肉が上に引っ張られる。
「駄目だ、まだねみぃ・・・・・・」
背伸びをしたところで、眠気が急に醒める訳でも無く。
とりあえず窓を閉めようとして、窓硝子に紬の顔が写る。
その顔は幼さは残る物の精悍な顔つきをしており、短い黒髪はその精悍さを際立たせるが。整った顔かと言われれば、特筆して特徴の無い、やや目つきが悪いのは特徴と言えるのだろうか。
しかし体躯は、中学校を卒業する年齢にしては背が、何より背筋が伸びている事で、より高く見える。
タンクトップの下、うっすらと皮下脂肪の内側に付いた筋肉は鍛えたもの。と言う、無駄な自己表現の無い自然なものだ。
手に持った黒いモノ。片目だけの水中眼鏡の様な、縁には指先で操作するようにデザインされたボタンのある眼帯を、左のこめかみからすっぽりと、左目を覆うようにしてバンドで固定。
眼帯の縁のボタンを押せば、小さな電子音と共に。左目網膜に対して情報の投影が開始され、現在の気温や湿度、風速などの環境情報や、時刻などがリアルタイムで刻々と表示される。
これは、近年流行しているVRMMOやAR(拡張現実)を利用したサバイバルゲームの技術の前身。軍事利用目的で開発された全環境対応スコープであり、数年前に型落ちになった為に、少数が横流し。いや、極秘の流通販路に乗っているものを紬が小遣いや、お年玉などを貯めに貯めて購入した品だ。
本来の用途は、機動甲冑と呼ばれる戦闘用装甲服のオプションで、おもに強襲作戦や狙撃などに使われるのだが、紬の中では便利な道具と言う認識でしかない。
そのゴーグルから網膜に投影されている時刻は、昼食には少し早い11時すぎ。
「朝の手伝いから三時間ほど寝たか」
この離れのある家の主に無理を言って、毎朝4時に起き。中学校に行く寸前まで、鍛冶場の煤掃除や水汲みをはじめ、表にある店舗の掃除などを手伝わせて貰っているのだ。
特に昨日従業員のほとんどが帰途についた閉店間際。冶金に必要な鋼や軟鉄を初めとした通常の素材とは別に、最近なにかと話題に上がる玄素結晶という名称の赤黒い結晶の粒が納入された為だ。開店までに帳簿を作り、従業員総出で鍛冶場脇にある倉庫に入れる作業があったので、普段の倍忙しかった。
部屋の中に無造作に脱いでいた作務衣の上を不作法ながら足先ですくい、手にとって即座に着込みながら、閉めた窓から部屋の外を見る。
部屋の外は、本来。茶室から眺めを楽しむ小さな庭園だったのだろう。
今は、数本の梅の花が咲きほころぶものの、あまり手入れをされておらず、自然のあるがままに伸び放題となっていて。当然の事ながら、この部屋からも。当然入り口側からもお互い見えない状態となっている。
「うちに用事があるなら、そろそろ・・・・・・」
言うが早いか、家の入り口付近で、足音がピタリと止まるも次の反応がない。
ゴーグルのモードを赤外線スコープモードに切り替えれば、やはり入り口あたりに人の影をした熱源があり。
紬は、さも当然と言う顔つきで、
「・・・・・・戸惑ってるんだろうな・・・・・・」
静かな部屋の中で独白を漏らす。
この離れに直接つながる門扉にはインターホンやカメラなどの設置されては居ない。
現代社会の電子技術に慣れた世代からみれば、戸惑うばかりか。何をして良いのかわからない状況だろう。
代わりに、古めかしい時代遅れ。良い言い方をすれば、懐古主義や詫び寂びとも取れる、木枠を組み合わせた引き戸に、少し苔生した石畳。
その門扉の軒先には、家主の名前「根来・一目」の横、自分の名前を後から書き足した表札の他に。インターホン代わりの青錆びた鐘と、鳴らすための棒が釣り下げられているだけ。
それは、この家の持ち主である根来・一目が現代文明の利器に慣れて居ない。普段生活に使う携帯端末や、電子レンジと言った家電製品でさえ、ようやく人に聞かず使えるように慣れてきたばかりであり。
紬が、この離れに住むようになって直ぐ。根来・一目に店先で手の空いた時に、不便では無いかと問うたところ、
「本来居た場所では誰も彼も、槌を振るい、火の粉が舞い散り、金属音が幾重にも場所でも聞こえる様に呼ぶときはこうしていた。もう決して戻れぬ場所だが、忘れぬ為に一つくらいは不便を残していた方が良いだろうよ、なぁ紬」
と、感慨深く。何かを懐かしむように。それでいて、ごつい顔に似合わぬ笑みを零しながら。
巨躯である根来・一目からすれば小さく、本当に小さく見える出刃包丁の刃先を研ぎだしながら答えたのが印象に残る。
紬も、その言葉に倣い、なんとなくこの不便さを楽しむようにしている。
外からは、ようやく意を決したように最初は、小さく。あまり響かぬ鐘の音。二度目は、大きく高く幾重にも響く鐘の音が、裏通りに響き、はっきりとこの家に来客がある事を知らせる。
続いて入り口からは、比較的若い男性の声で、
「すいません郵便局です!物部、物部・紬さんはご在宅でしょうかっ!物部・紬さん宛てに、書留で封筒が届いております!」