ナンバリング・8
隆宏が目的の店に着いたのは、連絡を受けてから一時間近くあとだった。
それも当然だ。
駅近くの図書館から一度、家に戻り、薬を持ってもう一度駅に引き返したあと、電車で三つ目。
急いでも、やはりかかってしまう。
扉を開ける。
ウエイトレスの、明るい声が聞こえた。
彼は、BGMが流れる店内を見回し、それからまっすぐカウンターに向かった。
「すみません、こちらに……」
念のため、もう一度、店内を見渡す。
二人の姿はどこにもなく、半分以上埋まっている席には、サラリーマンや近所の主婦らしき人たち、あるいは買い物途中と思われる雰囲気の女性たちしかいない。
再び、向き直った。
「病人が運び込まれていませんか?」
「ああ、あなたがお医者様ですか。お客様は奥で休んでいらっしゃいます。こちらへどうぞ」
カウンターテーブルの一部を上に持ち上げて、隆宏を招くと、マスターはドアをノックして、中に誘導した。
「ケン、薬を持ってきたよ……って……シノ、何をしているんだよ」
ソファの二人を見るなり、隆宏はマスターが出ていく姿も見ずに、慌てて駆け寄った。
キョトンとした顔が、彼を見返す。
「何……って? 寝かせてちゃいけなかったのか?」
「違う。いけないのはその……」
「タカヒロ」
鋭い声が、彼の言葉を遮った。
健が、小さく首を振る。もちろん、それすら辛い仕草だったようだが、隆宏は諦めなかった。
「病人は黙っていてよ。大体、自分のことだろう? こんなふうに追い討ちをかけたらミノルに怒られることくらい、いい加減、理解してほしいな。……シノ、ケンの頭を低くして。あと、濡れたタオルも用意して」
「えっ、……う、うん」
慌てて動き出す。
言われたことをしている間、隆宏はテーブルに薬を置こうとして、そこに乗ったガラスの器に目を留めた。
「……もしかして……これも食べた?」
ドア近くで、マスターにおしぼりを頼んでいた志乃は、かろうじて聞こえた声に、
「それくらいなら食えるだろうと思ってさ」
と、答えた。
隆宏が、呆れ果てたように息をついて、膝をついたまま、健に向き直った。
「よく、食べたね。本当に、君は誰にでも甘いよ」
「? どういうことだ?」
扉を閉じると、向こうの喧騒が途切れ、隆宏の声は聞こえやすくなった。
おしぼりを彼に渡す。
それを健の額に当てながら、続けた。
「嫌いなんだよ。デザートの類いはほとんど食べないんだ。毎日一緒にいて気がつかなかったのか? 第一、君はミノルから何も聞いていないの? ユウコと何を話しているんだよ。こんなことは基本だろう?どこを見て……」
「タカヒロ、もうやめてくれ。シノなりに……考えてしたことなんだ」
「……時々、君の甘さに腹が立つよ。オレは、君ほど優しくなれない。シノはオレたちとは違うんだ。はっきり言わなければ……」
「いい加減にしてくれ。それ以上の言葉は……許さないよ」
力のない声で、きっぱり言ったが、健はすぐに、弱々しく微笑んで続けた。
「……彼なら、わかるから」
知らないから、逆になんでも言える。
隆宏に悪気がないのはわかっている。悪いのは……その彼にさえ隠し事をしている健自身なのだ。
健は、疲れたように目を閉じた。
「もう、何も言わないでくれ」
「ごめん……。言い過ぎたよ」
と、隆宏が素直に謝る。
健が怖いわけではないのだ。
ただ、以前、彼に言われたことがある。
基本的に、自分の気持ちを隠すことができない隆宏は、それ故に、なんでも正直に口にしてしまうことが多いのだ。
もちろん、声を荒げて怒ることはない。その分、時として、正直ゆえに、言葉で相手を傷つけることがあるということを、教えられた。
「シノ、ごめん」
改めて謝ったものの、彼は健を気にしながら続けた。
「ただ、これは覚えていてくれないか。この先、もし彼がこうなったときは、頭を低くして寝かせてほしいんだ。彼は、暑さにも弱くてね。熱が籠るから、冷やすことも忘れないで。本当に、ごめん」
「あ……そうなんだ……」
呆然とした返事だった。
たった一言だ。体も動かない病人に、許さないと言われただけで、隆宏の態度が急に変わった。
健は、それほどの影響力を持っているというのか。
本当に、隆宏のいう通りだと、反省する。
普段、例えば実が顕著なのだが、健に対する態度はすこぶるぞんざいだ。小まめに面倒を見ている割りに、言葉も態度も、バカにしているとしか思えない時がある。
それを、健はいつも情けなく、笑って受け止めている。
もし、ベッドの中で、健を求める実の姿を見ていなければ、志乃自身、はなから健を軽視していただろう。
隆宏が、ポケットから小さな容器を取り出した。
蓋を開けて出したのは、注射器だ。
てっきり飲み薬を持ってくるものと思っていた志乃は、我に返って動いた。
健の右手の袖を捲る。
その間に、隆宏は多少ぎこちなく液剤を移すと、ポケットからもうひとつ、スプレーを出して、上腕をゴムで止めてから吹き付けた。
「なるべく上手くやるからね」
「大丈夫だよ」
とは言ったものの、やはり実と違って、手つきは素人だ。
こういうときのためにと教授を受けていたようだが、その時も実に痛い思いをさせていたらしい。
我慢した痛みに、針を抜いたあと綿で抑えながら、隆宏が謝る。
「どうしても上手くいかないね。痛かった?」
「……まあね」
「ごめん」
「いいよ、ありがとう。仕事の邪魔をして、すまないね」
「そんなことはどうでもいいよ。ただ、ミノルに怒られても、庇わないからね」
健は、弱々しく微笑むと、僅かに震える手で隆宏の髪を鋤いた。
「素直に怒られるから」
「じゃ、戻るね。……シノ」
「お、おう」
「あのね……ちょっと」
彼は、手招きをすると、志乃を連れて部屋を出た。
ざわついている店内に入り、マスターに一度頭を下げてから、向き直る。
「さっきは本当にごめん」
これが、彼の誠実なところだ。
健に言われて、仕方なく謝っているのではない。彼は、自分の悪いところを素直に認め、隠すことなく相手に伝える。
だから、志乃もそれを自然に受け止めた。
「いやぁ。気にすることはねぇよ。あんたが正しいんだ。ひと月もの間、確かに無駄に過ごしてた。謝るのはこっちのほうだ」
とはいえ、彼の場合は、素直に頭を下げることはなかった。
軽く首をすくめると、隆宏の目線に合わせるように体を屈める。
「ま、俺なりに目的を果たすように努力するしかないってことでさ」
「今からでも遅くはないよ。君ならわかるようになるようだから。……オレたちをよく、見るようにしてほしいな」
健を思わせる、頼りなげな、優しい微笑みだ。
というか、彼の場合、瞳自体にトゲがない。
以前は眼鏡をかけていたというが、この、柔らかく光る、少しだけグレーを含んだ瞳を覆い隠していたというのが信じられない。
「おいおい、ケンと同じことを言うんだな。それって、ノーセレクトの以心伝心かい?」
「どうかな? 意識したことはないけれど。……でも、これはみんなの考えが解るからじゃないんだ。きっと、オレたちは、考えることが同じなんだと思うよ。ケンだけは違うけれどね。彼は特別だから……」
「あ、それ。聞きたかったんだ。あんたの態度が急に変わった理由」
隆宏は、ゆっくり首を振った。
「教えない。でも、君ならそれもすぐに理解できるようになるよ。ケンが同じことを言っていたんだろう? それなら、間違いないから。同じ思いで……」
不意に言葉が止まり、隆宏は何か閃いたように目を見開いた。
呆然と、志乃を見上げる。
「な、なんだよ?」
まさか……と、隆宏の口許だけが動いた。
健は、そう、考えているのか……?
しかし、すぐに我に返ると、さっさと志乃に背を向けた。
「ちょ……タカヒロ、話を途中で止めるなよ」
「帰る。ケンを頼んだよ」
さっさと、こちらを気にしているマスターのほうに足を向け、隆宏は深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしております。薬が効くまでのあいだ、もうしばらく彼らを置いていてください。あなたのご親切に感謝いたします」
「い、いえ。こちらこそ……ご丁寧に、どうも」
“丁寧すぎやしねぇか?”
二人のやりとりを、半ば呆れながら聞いていたが、志乃はやがて、頭を掻きながら部屋に戻った。
「シノ」
健が、手招きをしている。そそくさと、傍らに膝をついた。
「悪かったな。俺、何も知らなくてさ。でも、あんたもハッキリ言わなきゃダメじゃないか」
「なら、はっきり言うよ。さっきのようにしてくれないか?」
「え? だって、ダメなんだろう? 怒られるのは俺だぞ?」
「だから、タカヒロたちには内緒」
無邪気そうな口許に指を当てて言った健は、すぐにフッと天井を見上げ、静かに目を閉じた。
「久しぶりだったんだ。……子供の頃を思い出した。懐かしくてね」
当時の、キッシュの言葉が、心に響く。
『子供のお前じゃ、大した重さはないねぇ。早く大人になれ。それまで、頑張って待ってるから』
間に合わなかった、キッシュの夢だ。
健の頭が軽くなった。
目を開けると、志乃は、ソファに座った足に、静かに乗せているところだった。
「ホントに黙っててくれよ。タカヒロは怖くないけど、ミノルがうるせぇからな」
「君たちのケンカは、見ていて面白いよ」
「そうだろうよ。傍観者のセリフ、丸出しじゃねぇか。……普段はまるでガキっぽいのによ、ケンカになるとあいつ、冷静に人を見下すんだぜ。癪に障るわへこむわ……俺だって傷つくんだぞ」
「それでも、好きなんだろう?」
志乃は、メンバーにさほど関心を持っていなかったようだが、健の方は違っていた。
日を追うごとに、彼が実に傾いていくのが、手に取るようにわかったのだ。
最初の頃には、あからさまに見えていた殺気がなくなり、それでも親友の仇なのだと思い込もうと努力をしながら、結局、実に対して、対等に相手をしている。
彼が言うように、普段子供じみた言動の実に、真剣な思いがなければ、まともな対応をしようとは思わないだろう。
そして、実が志乃の傍で、何をしているのかがわかったとき、健は、志乃の気持ちの変化に気づいたのである。
照れたように笑いながら、志乃は言った。
「まあな。考えてみりゃ、そうだったんだよ。あんたに言われて気がつくなんて……間が抜けてるけど」
「……オレには理解ができないんだけれど、君は、女性に興味はないのか?」
「なかったわけじゃないけど、今はずっと……」
ふ、と、言葉が途切れ、すぐに、
「あれ……?」
と、呟いた。
「?」
健が見上げると、彼はポカンと口を開けて、首を傾げていた。
「あんた……なんで知ってるんだよ? 俺がヤロウしか相手にしないって……?」
自分から、健にそのことを話していない。
それ以前に、実と、夕子以外とはそれほど話をしていないのだ。
二人から、健に洩れるはずもないのだが……。
とはいえ、夕子にすら、自分の性癖までは言っていない。
今朝からその話をしていて、今ごろ気がついたのか。
健は、思わず吹き出してしまった。彼には珍しく、体が動いたら腹を抱えていたかもしれないほどだ。
「そ、そんなに笑うなよ」
「ご、ごめん……」
言葉の間の笑い声ではない。笑う合間の、無理した言葉だった。
「オ、オレは……リーダーだからね……わかるよ……」
「は? リーダーだから、わかる?」
「そう……それが、役目」
まだ、笑っている。
さすがに、志乃が顔をしかめた。
「ひでぇなあ。そんなに変なことを聞いたか?」
「だ、だから……ごめん、って……あまりにも君が……鈍いから……」
「悔しいなあ。あいつと同じことを言いやがる」
「だって……本当の……」
確かに、実なら真っ先に言いかねない。
少しずつ、笑いが収まってきた健は、自分もまた、最初の頃、こうして隆宏たちに笑われていたことを思い出した。
今でもそうだ。時おり、突拍子のないことをいう彼を、実はあからさまにバカにすることがある。
「……ごめん、シノ……笑ったりして……」
さすがに失礼だと、気づいた。同時に、自分に対して笑っていたようなものだと、自覚する。
「人のこと、笑えないのにね……」
まったく情けない、と、そっとため息をついた健に、志乃は煩く感じる自分の髪をかき揚げて言った。
「ま、しょうがねぇさ。圭吾にだって、さんざん笑われてたくらいだからな。それに……」
覗き込むように、体を屈める。
「タカヒロ、言ってたぜ。あんたたちは考えが同じなんだって」
「……そう、かもしれないね」
「でもな、ミノルの言い方はひどいぞ。だから、ケンカになるんだ。あんたら、あいつの言い方によく、我慢してるな」
実の場合、言葉遣いが悪いわけではない。皮肉や嫌みが含まれた一言がきついのだ。しかも、反論もできないほど当たっているから、尚更本人のダメージが大きい。
健たちの場合、慣れた、というのが大半なのだが……。
「我慢しているように見えるのかな。違うんだけれどね」
「じゃ、なんで言い返さないんだよ」
健は、志乃を見上げ、クスッと笑った。
「……『オレたちは、おまえほど鈍くはないからな』……」
「えっ?」
一瞬、目を疑った。
その口調、声のトーン、それが、実のものと同じだったからだ。
「……と、ミノルは言うだろうね。オレたちは我慢をしているわけじゃないよ。言い返せないわけでもない。……オレが言えるのはここまでだ。あとは自分で考えるんだね」
「まったく……あんたも話を途中で切り上げやがる。こんなとこもタカヒロと同じじゃねぇか」
「変かな? 同じ考え、だったら自然じゃない?」
「そういうとこを合わせるなってんだ」
ひたすら真っ直ぐな健の黒髪を、志乃は何気なく漉きあげて、無意識にタオルをとると、それをテーブルに放り投げた。
そのまま、また、感触を楽しむように撫で始める。
が、ふと、健の左耳にはまっていたものに手が触れ、眉を寄せた。
「なんだ? これ」
外そうとして、健に止められた。
「悪い。触らないでくれ」
片方だけの、イヤホンのようにも見える。
「……何か聞いていたのか?」
「まあね」
ということは……。
ずっと、志乃との会話の間も、何かを聞き取っていたということか。
「それって、仕事に関係してるのかい?」
「……どうしてそう思うんだ?」
「え? だって、家を出るときはつけていなかったじゃないか」
そう断言したのは、まだ、健が倒れる前、そう、あの男が会社に入っていくのを見届けてから、何かを耳につける仕草をしたことを思い出したからだ。
健は、じっと志乃を見つめていたが、すぐに口許を緩めた。
“……とりあえず、まったくオレに関心を持っていないわけでは……ないか……ただ……”
何事もなかったかのように、健は言った。
「確かに、関係しているものだよ。だから、外せないんだ」
少しは薬が効いてきたのか、彼の顔色が良くなってきている。
志乃は、軽く首をすくめて、すでに関心をなくしたのか、改めて部屋を見回し始めた。
だが、それは、言葉を探していたためだったらしい。健の髪を鋤く仕草が妙にぎこちなく、落ち着かない。
やがて、彼はどこか決心したように、また健を見下ろした。
「あ、あのさ……」
ポソッとした一言で、また顔を逸らす。
「……? なに?」
「う、うん、つまり……」
何かいいあぐねている。
それを、健はじっと待っていたが、少しすると、左の耳をおさえて、それからゆっくりと体を起こした。
「おい、いいのかよ?」
「大分治まったからね。それに、話を聞くのに、さすがに失礼だと思って」
言うなり、軽く、志乃に向き直った。
「言いづらいこと?」
問いかけられて、咄嗟に、志乃が腰をあげる。
健に背を向けて、頭をガリガリと掻いて、そして、肩を落としながら、振り返った。
「あのよ……。今朝の……ことなんだけど」
「今朝の? なんだろう?」
「だ、だからさ……。……つまり……。その……あんた……ミノルと部屋を代わるわけだろ?」
「そうなるね」
「それでわかんねぇかなぁ。あんたさ、俺とあいつが何してたかも知ってるんだろ?」
唖然と口を開いて、健はゆるゆると志乃から目線を外した。
「……そ、ういう……ことか」
考え込むように頭を抑えた健を見下ろしながら、志乃は続けた。
「た、確かに、ミノルとは約束したさ。あいつ以外には手ぇだせないって。でも、でもな、あんたは……」
「約束を守れる自信がない、と?」
「無理言ってくれるよ。昨日まではろくすっぽあんたたちと話もしなかった俺だぞ。……た……たかが何時間だけど……あんたを見てたら……」
「まいったな。……オレでは君に応えることはできないよ。……かといって……」
実を休ませるためには、しばらく志乃を遠ざけなければならないのは確かだ。
確か、なのだが……。
頭を抑えたまま、健の口許はいつか苦笑に変わっていた。
実に押し付けてしまった責任は、取るべきだ、と。
もちろん、彼と同じ立場に立つつもりはない。できうる限り、説得するしかない。
顔をあげたとき、健は、いつもの優しい微笑みを志乃に向けた。
「ミノルとの約束は、とりあえず無効、ということなら同室でも構わないだろう?」
「本気で言ってるのか?」
自分で話題を振っておきながら、なぜ、志乃のほうが慌てるのか……。
脅迫的なほど、柔らかい微笑みが、頷いた。
「でもね、できる限り、君も我慢、してくれない? オレが君を説得すると言ったら、嫌かな?」
「そ、そりゃ……まあ……あんたがそういうのも当然なんだから、構わないけど……。……努力はするよ」
顔を見ていられない。
志乃は、また健に背を向けて答えた。そのまま呟く。
「ホントに、約束は無効?」
「とりあえず、ね」
その一言に、志乃は、昂る気持ちを静めるように何度か深呼吸を繰り返し、最後に、
「よっしゃ!」
と、ガッツポーズをとってから、振り向いた。
「どう? 具合」
「うん。そろそろ出ようか」
まだ、僅かに目眩はあったが、健は静かに席を立った。




